第7話 錆びない鋏と、整定される枝葉
果汁の甘い記憶も、鳥籠の快適さも、思考を鈍らせる毒でしかない。
離宮「薔薇の館」に移って三日目。
私は朝日が昇りきる前にベッドを抜け出し、動きやすい平服に着替えて庭へ出ていた。
手には、物置で見つけた園芸用の剪定鋏。
侍女たちに見つかれば「第二王子妃になろうという方が土いじりなど!」と卒倒されるだろうが、今の私にはこの感触が必要だった。
パチン。
乾いた音が響き、枯れかけた薔薇の枝が地面に落ちる。
美しい庭園も、よく見れば手入れが行き届いていない箇所がある。
栄養を奪う無駄な枝、病気になりかけの葉。それらを見極め、鋏を入れる。
パチン。パチン。
単純な作業のリズムが、私の頭の中を整理していく。
私はここで「愛される婚約者」を演じている。
だが、私の本質は華やかなドレスよりも、こうして問題を物理的に排除する作業の方に向いているのだ。
「……随分と、精が出るね」
背後からの声に、心臓が跳ね上がった。
慌てて振り返り、鋏を背中に隠す。
そこには、朝の散歩中らしいエリオット殿下が立っていた。朝露に濡れた芝生の上でも、その佇まいは絵画のように美しい。
「も、申し訳ありません! その、少し気になった枝がありまして、つい……」
「謝ることはない。君のおかげで、この薔薇も息を吹き返したようだ」
彼は怒るどころか、私が切り落とした枝を拾い上げ、愛おしそうに眺めた。
「君は本当に、整えるのが上手い。書類も、庭も、そしておそらくは――人間関係も」
意味深な言葉に、私は眉をひそめた。
彼は枝を置き、ゆっくりと私に歩み寄る。その表情から笑みが消え、執政者の鋭い瞳が現れた。
「リディア。午後、客が来る」
「客、ですか?」
「ああ。第一王子派の重鎮、宰相補佐だ。『新しい婚約者が相応しい教養を持っているか確認したい』そうだ」
――来ましたか。
私は背中に隠していた鋏を、強く握りしめた。冷たい鉄の感触が、掌に食い込む。
「確認」というのは建前だ。
実際は、私の粗探しをして、あわよくばボロを出させ、婚約にケチをつけるための訪問だろう。
脇役令嬢がいきなり王位継承争いの盤面に座ったのだ。排除しようとする動きが出るのは当然のシナリオだ。
「……承知いたしました。お茶の準備をさせます」
「断ってもよかったんだが、彼らはしつこくてね。君に不快な思いをさせるかもしれない」
エリオット殿下が、申し訳なさそうに眉を下げる。
その顔を見て、私は不思議と落ち着いていた。
大丈夫です、殿下。貴方の心を乱す雑音を取り除くのは、私の契約業務の一環ですから。
「ご心配には及びません。お客様のお相手なら、手慣れております」
「そうか。……頼もしいな」
彼はふっと表情を緩めると、不意に私の顔の横へ手を伸ばした。
ビクリと肩が震える。
彼の指先が、私のこめかみを掠め、髪に触れた。
「葉がついていたよ」
見せられた彼の手には、小さな枯れ葉が一枚。
私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしい。庭仕事に夢中で、身だしなみが乱れていたなんて。完璧な「婚約者役」失格だ。
「す、すみません。すぐに見苦しくない格好に――」
「いや。そのままでいい」
彼は私の言葉を遮り、私の乱れた前髪を、その大きな手で優しく撫でつけた。
「飾らない君が、一番強いことを私は知っている。……思う存分、やってくれ」
その言葉は、許可証だった。
「猫を被る必要はない。敵を排除しろ」という、主君からの命令。
ああ、やはりこの方は合理的だ。
私が「有能な掃除屋」であることを理解し、適切な場面で投入しようとしている。
愛玩動物としての私ではなく、番犬としての私を求めているのだ。
それなら、期待に応えましょう。
「お任せください」
私は深くお辞儀をした。
手の中の鋏が、カチリと鳴った気がした。
午後に来る客人たち。
彼らがただのお茶飲み友達なら歓迎しよう。
けれど、もしこの薔薇の館に害をなす「病んだ枝」だとしたら――。
私は彼が去った後、空を切り裂くように鋏を鳴らした。
根元から綺麗に、切り落として差し上げますわ。




