表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/36

第6話 銀の果物ナイフと、整えられた鳥籠

 飲み干したシャンパンの微かな苦みが、まだ喉の奥に張り付いている気がした。


 目を開けると、見覚えのない高い天井が視界に入った。

 私は反射的にシーツを握りしめた。指先に触れる布地は、実家の寝具とは比べものにならないほど滑らかで、それがかえって私の心拍数を跳ね上がらせた。


 そうだ。私は昨日、「第二王子の婚約者」になったのだった。

 ここは王宮の客室。今日からは、あの煌びやかで計算高い日々の続きが始まる。


「――おはようございます、リディア様」


 身じろぎした音を聞きつけたのか、数人の侍女が音もなくベッドサイドに現れた。

 彼女たちの所作は完璧で、まるでガラス細工を扱うように私をベッドから助け起こす。


「洗顔のお湯をご用意いたしました。その後、エリオット殿下とのご朝食になります」


 差し出された蒸しタオルを受け取る。

 温かい。

 けれど、その過剰なほどの丁寧さが、私には「王家の大切な備品」への扱いにしか思えなかった。傷をつけないよう、埃を被らないよう、徹底的に管理されている。

 私はタオルに顔を埋め、ほう、と一つ息を吐いて覚悟を決めた。


     * * *


 案内されたのは、庭園に面した明るいサンルームだった。

 朝の光が降り注ぐ中、エリオット殿下は既にテーブルについていた。


「おはよう、リディア。昨夜はよく眠れたかい?」

「はい、おかげさまで。殿下はお疲れではありませんか?」


 私はカーテシーをしてから、向かいの席に腰を下ろした。

 彼は昨日の疲れなど微塵も見せず、爽やかな白シャツ姿で微笑んでいる。本当に、体力までハイスペックな人だ。


 テーブルの上には、焼きたてのパンや色鮮やかなサラダが並んでいる。

 給仕が紅茶を注ごうとしたその時、エリオット殿下が片手でそれを制した。


「私がやるよ」

「えっ……で、殿下? そのようなことは給仕に」

「君に尽くしたいんだ。……練習させてくれないか?」


 彼は悪戯っぽく笑うと、銀のポットを手に取り、私のカップに黄金色の液体を注いだ。

 完璧な手つきだ。一滴も跳ねることなく、美しい水面が揺れる。


 ――「練習」。

 その言葉に、私は妙に納得してしまった。

 なるほど。将来、本命のヒロインと結ばれた時のために、私で「優雅な夫」としての振る舞いをシミュレーションしているのか。

 それなら断る理由はない。私は最良の練習台になるべきだ。


「……ありがとうございます。とても良い香りです」

「よかった。それと、これも」


 彼は手元の皿から、桃のような果実を手に取った。

 添えられていた銀の果物ナイフが、朝日でキラリと光る。

 彼は慣れた手つきで皮を剥き、一口大に切り分けると、それを銀の皿に載せて私の方へ滑らせた。


「どうぞ。今朝届いたばかりの初物だ」


 周囲の侍女たちが、頬を染めてため息を漏らす気配がした。

 溺愛。献身。甘い朝の風景。

 けれど、私は皿の上で瑞々しく輝く果肉を見つめ、冷静に分析していた。


 これは「餌付け」だ。

 最高の環境と栄養を与え、道具のコンディションを最良に保つ。

 ナイフの切れ味が鋭いほど、切り口は美しく痛まない。彼のエスコートも同じだ。あまりに洗練されすぎていて、自分が管理されているという事実すら忘れそうになる。


「いただきます」


 フォークで果実を口に運ぶ。

 甘い果汁が口いっぱいに広がる。美味しすぎて、少し怖くなる。

 こうして私は、骨抜きにされていくのだろうか。


     * * *


 朝食を終えると、私たちは王宮の敷地内を歩いて移動した。


 砂利を踏む音が、静寂な庭園に響く。

 目の前に現れたのは、白亜の壁に囲まれた瀟洒な離宮だった。壁には淡いピンクの蔓薔薇が絡まり、童話の中から抜け出してきたような佇まいを見せている。


「『薔薇の館』だ。今日からここが君の住まいになる」


 エリオット殿下が扉を開け、私を招き入れた。


 玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。

 内装の色調は、落ち着いたベージュと淡いグリーン。

 置かれている家具は、華美なロココ調ではなく、私が好むシンプルで機能的なデザインのものばかり。

 さらに、廊下の突き当たりに見えた書架には、私が昔から愛読している歴史書や植物図鑑がずらりと並んでいた。


「……これは」

「気に入らなかったか? 君の実家の部屋を参考に、少しアレンジしてみたんだが」


 背後からかけられた声に、背筋が粟立つ。


 参考にした?

 いいえ、これは「再現」だ。それも、私の深層心理にある理想を具現化したような。

 徹底的な調査。私の趣味嗜好、行動パターン、何を見て安らぎを感じるかまで、すべて把握されている。


 「心地よく過ごしてもらうため」という建前のもとに行われる、完璧な環境制御。

 ストレスを与えず、逃げ出す気力を奪う、優しすぎる鳥籠。


 私は震えそうになる指先を抑え、銀の果物ナイフの鋭さを思い出していた。

 彼は、私の心を切り刻むことなく、綺麗に皮だけを剥いて、中身を支配しようとしている。


「……素晴らしいです、殿下。夢のようなお部屋です」


 私は振り返り、最大の賛辞を贈った。

 エリオット殿下は、ほっとしたように目を細める。


「君が落ち着ける場所になればいいと思っている。ここは、君の城だ」


 私の城。

 いいえ、ここは貴方が用意した舞台セットです。

 

 私は壁に飾られた絵画を一瞥する。

 いつかここに「本当の主」が住む日が来る。その時、この内装はすべて彼女好みに塗り替えられるのだろう。

 それまでは、私がこの館の管理人として、埃一つ残さないよう綺麗に使わせていただきます。


 私は心の中で、借りてきた猫のように小さく丸まった。

 この心地よさに、魂まで溶かされないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ