第6話 銀の果物ナイフと、整えられた鳥籠
飲み干したシャンパンの微かな苦みが、まだ喉の奥に張り付いている気がした。
目を開けると、見覚えのない高い天井が視界に入った。
私は反射的にシーツを握りしめた。指先に触れる布地は、実家の寝具とは比べものにならないほど滑らかで、それがかえって私の心拍数を跳ね上がらせた。
そうだ。私は昨日、「第二王子の婚約者」になったのだった。
ここは王宮の客室。今日からは、あの煌びやかで計算高い日々の続きが始まる。
「――おはようございます、リディア様」
身じろぎした音を聞きつけたのか、数人の侍女が音もなくベッドサイドに現れた。
彼女たちの所作は完璧で、まるでガラス細工を扱うように私をベッドから助け起こす。
「洗顔のお湯をご用意いたしました。その後、エリオット殿下とのご朝食になります」
差し出された蒸しタオルを受け取る。
温かい。
けれど、その過剰なほどの丁寧さが、私には「王家の大切な備品」への扱いにしか思えなかった。傷をつけないよう、埃を被らないよう、徹底的に管理されている。
私はタオルに顔を埋め、ほう、と一つ息を吐いて覚悟を決めた。
* * *
案内されたのは、庭園に面した明るいサンルームだった。
朝の光が降り注ぐ中、エリオット殿下は既にテーブルについていた。
「おはよう、リディア。昨夜はよく眠れたかい?」
「はい、おかげさまで。殿下はお疲れではありませんか?」
私はカーテシーをしてから、向かいの席に腰を下ろした。
彼は昨日の疲れなど微塵も見せず、爽やかな白シャツ姿で微笑んでいる。本当に、体力までハイスペックな人だ。
テーブルの上には、焼きたてのパンや色鮮やかなサラダが並んでいる。
給仕が紅茶を注ごうとしたその時、エリオット殿下が片手でそれを制した。
「私がやるよ」
「えっ……で、殿下? そのようなことは給仕に」
「君に尽くしたいんだ。……練習させてくれないか?」
彼は悪戯っぽく笑うと、銀のポットを手に取り、私のカップに黄金色の液体を注いだ。
完璧な手つきだ。一滴も跳ねることなく、美しい水面が揺れる。
――「練習」。
その言葉に、私は妙に納得してしまった。
なるほど。将来、本命のヒロインと結ばれた時のために、私で「優雅な夫」としての振る舞いをシミュレーションしているのか。
それなら断る理由はない。私は最良の練習台になるべきだ。
「……ありがとうございます。とても良い香りです」
「よかった。それと、これも」
彼は手元の皿から、桃のような果実を手に取った。
添えられていた銀の果物ナイフが、朝日でキラリと光る。
彼は慣れた手つきで皮を剥き、一口大に切り分けると、それを銀の皿に載せて私の方へ滑らせた。
「どうぞ。今朝届いたばかりの初物だ」
周囲の侍女たちが、頬を染めてため息を漏らす気配がした。
溺愛。献身。甘い朝の風景。
けれど、私は皿の上で瑞々しく輝く果肉を見つめ、冷静に分析していた。
これは「餌付け」だ。
最高の環境と栄養を与え、道具のコンディションを最良に保つ。
ナイフの切れ味が鋭いほど、切り口は美しく痛まない。彼のエスコートも同じだ。あまりに洗練されすぎていて、自分が管理されているという事実すら忘れそうになる。
「いただきます」
フォークで果実を口に運ぶ。
甘い果汁が口いっぱいに広がる。美味しすぎて、少し怖くなる。
こうして私は、骨抜きにされていくのだろうか。
* * *
朝食を終えると、私たちは王宮の敷地内を歩いて移動した。
砂利を踏む音が、静寂な庭園に響く。
目の前に現れたのは、白亜の壁に囲まれた瀟洒な離宮だった。壁には淡いピンクの蔓薔薇が絡まり、童話の中から抜け出してきたような佇まいを見せている。
「『薔薇の館』だ。今日からここが君の住まいになる」
エリオット殿下が扉を開け、私を招き入れた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
内装の色調は、落ち着いたベージュと淡いグリーン。
置かれている家具は、華美なロココ調ではなく、私が好むシンプルで機能的なデザインのものばかり。
さらに、廊下の突き当たりに見えた書架には、私が昔から愛読している歴史書や植物図鑑がずらりと並んでいた。
「……これは」
「気に入らなかったか? 君の実家の部屋を参考に、少しアレンジしてみたんだが」
背後からかけられた声に、背筋が粟立つ。
参考にした?
いいえ、これは「再現」だ。それも、私の深層心理にある理想を具現化したような。
徹底的な調査。私の趣味嗜好、行動パターン、何を見て安らぎを感じるかまで、すべて把握されている。
「心地よく過ごしてもらうため」という建前のもとに行われる、完璧な環境制御。
ストレスを与えず、逃げ出す気力を奪う、優しすぎる鳥籠。
私は震えそうになる指先を抑え、銀の果物ナイフの鋭さを思い出していた。
彼は、私の心を切り刻むことなく、綺麗に皮だけを剥いて、中身を支配しようとしている。
「……素晴らしいです、殿下。夢のようなお部屋です」
私は振り返り、最大の賛辞を贈った。
エリオット殿下は、ほっとしたように目を細める。
「君が落ち着ける場所になればいいと思っている。ここは、君の城だ」
私の城。
いいえ、ここは貴方が用意した舞台セットです。
私は壁に飾られた絵画を一瞥する。
いつかここに「本当の主」が住む日が来る。その時、この内装はすべて彼女好みに塗り替えられるのだろう。
それまでは、私がこの館の管理人として、埃一つ残さないよう綺麗に使わせていただきます。
私は心の中で、借りてきた猫のように小さく丸まった。
この心地よさに、魂まで溶かされないように。




