第5話 黄金の泡と、ワルツのステップ
重厚な扉が音もなく開かれると、光と音の洪水が押し寄せてきた。
王宮の大広間。数百の貴族たちがひしめくその空間が、私とエリオット殿下の姿を認めた瞬間、水を打ったように静まり返る。
数百の視線が突き刺さる。値踏み、嫉妬、好奇心。
かつてなら恐怖で足がすくんでいただろう。けれど今は、隣に彼がいる。
「顔を上げて。君は誰よりも美しい」
エリオット殿下が差し出した腕に、そっと指を添える。
紺碧のベルベットが照明を吸い込み、首元のサファイアが冷たく輝く。
私はゆっくりと息を吐き、口角をミリ単位で調整して「幸福な婚約者」の笑みを貼り付けた。
さあ、開演です。
* * *
会場を進むにつれ、さざ波のような囁きが耳に届く。
「あれがアルフェン家の?」「あんなに美しかったか?」「第二王子がお選びになったということは……」
計算通りだ。
エリオット殿下が用意したドレスと宝石、そして彼自身が放つ自信に満ちたオーラが、私という素材を何倍にも引き立てている。
私はただ、その輝きを反射する鏡であればいい。
「おや、誰かと思えば。捨てられた元婚約者殿じゃないか」
不快な声が、人垣を割って響いた。
第一王子ウィリアム殿下だ。隣には、勝ち誇った顔の男爵令嬢がいる。
彼は私のドレスをジロジロと舐め回し、鼻で笑った。
「派手に着飾ったものだ。中身の陰湿さは隠せまいがな。……おいエリオット、私の古着を拾って嬉しいか?」
周囲の空気が凍りつく。
あまりに品のない挑発。けれど、これが権力者の驕りだ。
私は扇を持つ手に力を込め、反論を飲み込んだ。ここで言い返せば、エリオット殿下の顔に泥を塗る。
しかし、私の横に立つ「脚本家」は、涼しい顔で微笑んだ。
「古着、ですか」
エリオット殿下は、まるで聞き間違いを正す教師のように、静かに首を振った。
「兄上にはそう見えていたのですね。私には、泥にまみれていた原石を、見る目のない持ち主が捨ててくれたようにしか思えませんが」
「な、なに……?」
「おかげで私は、磨けばこれほど輝く宝石を、労せず手に入れることができた。感謝していますよ、兄上」
彼は私の腰を優しく引き寄せ、見せつけるように微笑んだ。
会場から、感嘆とも失笑ともつかない息が漏れる。
ウィリアム殿下の顔が茹で蛸のように赤くなる。
――すごい。
私は内心で舌を巻いた。
相手を直接貶めるのではなく、「価値が分からない哀れな人」として扱うことで、自身の審美眼と器の大きさをアピールする。完璧なカウンターだ。
この台詞すら、事前に用意していたのだろうか。だとしたら、彼はとんだ役者だ。
「……くっ、口の減らない奴め! 精々、その女と負け犬同士慰め合うがいい!」
捨て台詞を吐いて去っていく第一王子。
その背中に向かって、エリオット殿下は優雅にグラスを掲げ、それから私に向き直った。
「リディア、一曲踊ろう」
「……はい、喜んで」
楽団がワルツを奏で始める。
私たちは広場の中央へと滑り出した。
* * *
ワン、ツー、スリー。
旋律に合わせて、世界が回る。
彼の手は腰をしっかりと支え、リードは強引なほどに力強い。
私はそれに遅れないよう、必死にステップを踏む。
ドレスの裾が翻り、シャンデリアの光が残像となって流れていく。
「上手いな」
回転の最中、彼が耳元で囁いた。
「君とのダンスは、初めてなのに酷く踊りやすい」
「殿下のリードが素晴らしいからです」
「いいや、君が私の意図をすべて汲み取ってくれるからだ。……やはり、君を選んで正解だった」
その言葉に、胸の奥が甘く疼くのを自覚して、私はすぐに理性の蓋をした。
「選んで正解」。
それは「最高のパートナー」という意味ではない。「最高の機能性」という意味だ。
私が彼の動きに合わせて完璧に追従するから、彼はストレスなく踊れる。
政治も同じだ。私が彼の意図を読んで動くから、彼は動きやすい。
エリオット殿下の瞳が、至近距離で私を見つめている。
熱っぽい、とろけるような碧。
周囲の令嬢たちが悲鳴を上げそうなほどの溺愛の眼差し。
騙されてはいけない。
これは観客に向けたパフォーマンスだ。
「俺たちはこんなに愛し合っている」と見せつけるための、計算された視線だ。
けれど。
重ねた手のひらから伝わる汗ばむほどの熱だけは、あまりに生々しくて。
「……リディア。この曲が終わるまで、私だけを見ていてくれ」
「……仰せのままに」
私は彼を見つめ返し、人形のように美しく微笑んだ。
曲の終わりと共に、会場中から割れんばかりの拍手が沸き起こる。
私たちは呼吸を揃えてお辞儀をした。
給仕が差し出したトレイから、シャンパングラスを手に取る。
黄金色の液体の中で、小さな泡が絶え間なく立ち昇っては、水面で弾けて消えていく。
今夜、私は正式に「第二王子の婚約者」という役割(泡)になった。
いつか弾けて消えるその時まで、この夢のような光の中で、踊り続けなければならない。
私はグラスを口に運び、甘くて少し苦い、契約完了の味を飲み干した。




