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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第4話 散らばる羊皮紙と、銀のペーパーナイフ

 首に残ったサファイアの冷たさが、数日経っても幻覚のように肌に張り付いている。


 明日はついに、婚約発表の夜会だ。

 最終確認のため執務室を訪れた私は、ノックの返答がないことに首を傾げ、そっと扉を押し開けた。


 部屋に入った瞬間、インクと古い紙の匂いが鼻をついた。

 そして、目に飛び込んできた光景に、私は思わず足を止めた。


「……殿下?」


 書類の山に埋もれるようにして、エリオット殿下が机に突っ伏していた。

 規則的な寝息が聞こえる。どうやら過労で落ちてしまったらしい。

 窓から西日が差し込み、彼の金髪を柔らかく照らしている。無防備な寝顔は、年相応の少年のようにも見えた。


 私は音を立てないよう、絨毯の上を慎重に歩いて机に近づいた。


 酷い惨状だ。

 机の上には未決済の書類が雪崩のように積み上がっている。

 よく見れば、どれも地方領主からの陳情や、予算申請の書類ばかり。本来なら文官が処理すべき下級案件が、なぜか王子の決済箱に放り込まれている。


 ――嫌がらせだわ。

 第一王子派閥の貴族たちが、エリオット殿下をパンクさせるために、わざと手続きを複雑化させて送りつけているのだ。

 このままでは、彼は明日の夜会に疲労困憊の顔で出ることになる。それは「頼りない第二王子」という印象を与える、敵の思う壺だ。


 私はため息を一つ飲み込み、机の端にあった銀のペーパーナイフを手に取った。

 ひやりとした金属の感触が、指先から思考をクリアにしていく。


 契約条項には「王子の公務の補佐」は含まれていない。

 けれど、雇用主が倒れれば、私も共倒れだ。

 私はドレスの袖をまくり上げ、静かに戦闘を開始した。


     * * *


 やることは単純だ。

 「今すぐやるべきもの」と「無視していい嫌がらせ」を切り分ける。


 ペーパーナイフが封蝋を弾き飛ばす。

 中身を一読。重要度低。却下。

 次。緊急度高、ただし予算不足。保留箱へ。

 次。これは……日付が改ざんされている。悪質な罠だ。破棄箱へ。


 私は無心で紙束を解体していった。

 脇役令嬢として生きてきた私は、目立たないように周囲を観察し、先回りしてトラブルを回避するスキルだけは高い。

 三十分もすると、机の上には美しい「空白」が生まれ、書類は三つの山に整然と分類された。


 最後の書類を積み上げた時、背後で衣擦れの音がした。


「……ん、……リディア?」


 振り返ると、エリオット殿下が眠そうな目をこすりながら身を起こしていた。

 頬に書類の跡がついている。あざといほど隙だらけだ。


「申し訳ありません、勝手に入室いたしました。あまりにお疲れのようでしたので」

「いや、構わないが……これは?」


 彼の視線が、片付いた机の上を彷徨う。

 そして、整然と積まれた三つの山と、私の手にあるペーパーナイフを見て、碧眼を大きく見開いた。


「君が、これを全部?」

「分類しただけです。右が即時決済、左が保留、奥の箱に入れたものは手続き不備として差し戻すべき案件です。特に奥の箱は、第一王子派の息がかかった文官が意図的に混ぜたものでしょう」


 淡々と報告すると、彼は言葉を失ったように私を見つめた。

 沈黙が痛い。

 余計なことをしただろうか。王子の仕事に口を出すなんて、越権行為だったかもしれない。


「すみません、出過ぎた真似を――」

「すごい……」


 遮ったのは、震えるような感嘆の声だった。

 彼は椅子から立ち上がると、机を回り込んで私の目の前に立った。


「私はこの山を前に、半日も頭を抱えていたんだ。それを君は、私が寝ている僅かな間に……」

「整理整頓は得意なだけです。誰にでもできます」

「いいや、できない。誰も私の負担を減らそうとはしてくれなかった。君以外は」


 エリオット殿下が、私の手からペーパーナイフをそっと抜き取り、代わりにその手を両手で包み込んだ。

 熱い。

 寝起きで体温が高いのか、それとも興奮しているのか。彼の手のひらが、私の冷えた指先を溶かしていく。


「リディア、君は本当に……私の救いだ」


 その瞳が潤んでいるように見えて、私はたじろいだ。

 大袈裟だ。

 ただの事務処理だ。有能な秘書なら誰でもやる仕事だ。

 それを「救い」だなんて、彼はどれだけ孤独な環境で戦ってきたというのだろう。


 同情してはいけない。

 けれど、握られた手の温かさを、振りほどくこともできなかった。


「……明日の夜会、万全の状態で臨んでいただかないと困りますから」


 照れ隠しのように憎まれ口を叩くと、彼はふわりと破顔した。

 その笑顔は、今まで見たどの表情よりも無防備で、私の心臓を不規則に跳ねさせた。


「ああ、約束する。君が作ってくれたこの時間を、無駄にはしない」


 彼は私の手を握り直すと、祈るように額に押し当てた。

 

 私は彼の手の中で、小さく握りこぶしを作る。

 これは「有能な道具」への称賛だ。

 そう理解しているのに、彼が私を必要としてくれたという事実が、胸の奥をくすぐった。


 机の上、銀のペーパーナイフが夕日を反射して鋭く光る。

 明日、私たちは戦場へ出る。

 この人が道を見失わないように、私が余計な雑音を切り捨ててあげなければ。


 それは、契約以上の何かが芽生え始めた、小さな決意だった。

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