第35話 深紅のマントと、閉ざされた扇
純白の便箋に署名してから一ヶ月。季節は巡り、王都には爽やかな初夏の風が吹いていた。
王宮の最上階にある特別控室。
私は大きな姿見の前で、侍女たちに囲まれていた。
今日のドレスは、王家の威光を示すための白銀色。そして仕上げに、数人の侍女がかりで私の肩にかけられたのは、床に広がるほど長い**深紅のマント**だった。
ずしり、と肩が沈む。
金糸で王国の紋章が刺繍されたビロードの布は、物理的にも、意味的にも重い。
かつての私なら、この重圧に押し潰されて「逃げたい」と願っただろう。
けれど今は、この重さが心地よい。
これは、エリオットと共に生きると決めた、私の覚悟の質量そのものだからだ。
「……準備はいいか、リディア」
扉が開き、正装のエリオットが入ってきた。
彼もまた、同じ深紅のマントを羽織っている。
鏡越しに目が合うと、彼は眩しいものを見るように目を細め、私の肩に手を置いた。
「重くはないか?」
「ええ。貴方と半分こですから」
「ふふ、頼もしいな。私の共同統治者は」
彼は私の手を取り、エスコートの形を作った。
さあ、行こう。
この扉の向こうには、私たちを待つ数万の民衆がいる。
* * *
バルコニーへと続く長い回廊。
その影に、一つの人影が佇んでいた。
第一王子ウィリアム殿下だ。
かつてのような派手な取り巻きはいない。法改正により王位継承権の順位が事実上入れ替わった今、彼の周囲からは潮が引くように人が去っていった。
彼は私の姿を見ると、憎々しげに顔を歪めた。
「……満足か、リディア。弟をたぶらかし、法を変えさせ、王妃の座を盗み取って」
「人聞きの悪い。盗んだのではありません」
私は足を止めた。
いつもなら、ここで**扇**を取り出し、口元を隠して皮肉で応戦するところだ。
懐に手を入れる。指先が、愛用の漆塗りの扇に触れる。
――いいえ。もう、必要ない。
私は扇をそのままにして、手を下ろした。
何も隠さず、真っ直ぐに彼の瞳を見据える。
「私は選ばれ、そして選びました。それだけの話です」
「ふん、ただの運だろう! 本来なら聖女が座るべき椅子に、貴様のような脇役が……」
「聖女だから選ばれるのではありません。愛する人と共に国を背負う覚悟がある者が、その席に座るのです」
私の声は、静かだが、廊下の空気を震わせるほど凛としていた。
ウィリアム殿下は「聖女の加護」という設定に固執し、アリア様という人間を見ようとしなかった。
エリオットは違った。彼は私という人間を見て、私を選んだ。
その差が、今の私たちの立ち位置の差だ。
「……貴様、随分と偉そうな顔をするようになったな」
「ええ。次期王妃になるのですから、これくらい貫禄がなくては務まりませんわ」
私が微笑むと、ウィリアム殿下は何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
そして、ふいと顔を背け、無言で去っていった。
その背中は、以前よりもひと回り小さく見えた。
勝利の凱歌などいらない。
彼はもう、私の物語を脅かす敵ですらないのだから。
「……行こう、リディア」
黙って見守っていたエリオットが、私の手を引き寄せた。
彼は何も言わなかったが、その手に込められた力が、私の対応への誇りを物語っていた。
* * *
巨大な扉が開かれる。
一瞬、視界が真っ白になるほどの光。
そして、地響きのような歓声が押し寄せてきた。
「エリオット殿下万歳! リディア妃殿下万歳!」
王宮広場を埋め尽くす人々。
彼らは「聖女」を求めているのではない。国の未来を託せる指導者を求めて手を振っている。
私はバルコニーの手すりに手をかけた。
風が深紅のマントを煽る。
バサリ、と音を立てて広がるその布は、まるで私の背中に生えた翼のようだ。
「……見えるか、リディア。これが私たちの守る国だ」
「はい。……とても、美しい景色です」
私は民衆に手を振った。
扇で顔を隠す「脇役令嬢」は、もういない。
ここにいるのは、自分の意志でこの場所に立ち、愛する人の隣で微笑む、一人の「主役」だ。
エリオットが私の腰に手を回し、民衆の前で堂々と私を抱き寄せた。
歓声がさらに大きくなる。
私は彼を見上げ、今日一番の笑顔を向けた。
重たいマントが、今は温かい。
この重さを背負って、私はどこまでも歩いていける。




