第34話 純白の便箋と、書き始められる物語
皺だらけの羊皮紙が捨てられた床の上から、私たちは新しい一歩を踏み出した。
数日後。離宮「薔薇の館」の執務室は、以前とは全く違う空気に満ちていた。
窓から差し込む陽光は暖かく、紅茶の湯気は甘い。
机の上に積み上げられているのは、殺伐とした監査資料や黒い帳簿ではない。
最高級の紙で作られた、**純白の便箋**と封筒の山だ。
私は新しい羽ペンを手に取り、インク壺に浸した。
以前、指にこびりついて取れなかった藍色のインク。
けれど今の私には、この色が「罪人の刺青」ではなく、「王太子妃の権威」に見える。
「……リディア。また眉間に皺が寄っているよ」
隣から、クスクスという笑い声が聞こえた。
向かいの席ではない。隣だ。
エリオットは――まだ「殿下」と呼びそうになるけれど、二人きりの時は名前で呼ぶ約束をした――私の椅子のすぐ横に自分の椅子を引き寄せ、肩が触れ合う距離で座っている。
「申し訳ありません、エリオット様。招待客のリストアップに集中しておりまして」
「仕事じゃないんだ。もっと楽しんで書いてほしい」
彼は私の手からペンを優しく取り上げ、テーブルの上に置いた。
そして、私の手を両手で包み込んで、親指で甲を撫でる。
この数日、彼は事あるごとにこうして私に触れ、愛を確かめようとする。そのたびに、私の心臓はいまだに早鐘を打つのだが。
「ですが、結婚式は一ヶ月後です。各国の王族への招待状、配席、料理の選定……やるべきことは山積みです」
「そうだな。だが、今回は君一人で背負う必要はない。私がいる」
彼は便箋の一枚を手に取り、私の目の前に置いた。
「覚えているか? 以前、君は舞踏会の進行表のパートナー欄を、空白にしていたね」
ドキリとする。
あの時、私はそこにアリア様の名前が入ると信じて疑わなかった。
「ええ。……愚かな配慮でした」
「いいや。君なりの誠実さだった。だが、もう空白はいらない」
エリオットは私に再びペンを握らせ、その上から自分の手を重ねた。
大きくて、温かい手。
彼の体温が、ペンを通じて私に伝わってくる。
「さあ、書いてくれ。私たちが夫婦になる証を」
誘導されるまま、ペン先が紙の上を滑る。
流麗な文字で、新郎の名が綴られる。
『エリオット・ルーヴェン』。
そして、その横に並ぶように。
『リディア・アルフェン』。
書き終えた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
ああ、本当に。
私は選ばれたのだ。
代役としてでも、盾としてでもなく。ただのリディアとして、彼の隣に並んでいる。
純白の紙の上に、二つの名前が寄り添っている。
それはどんな契約書よりも確かな、不可逆の事実。
「……綺麗な名前だ」
エリオットが、私の耳元で囁いた。
頬に唇が触れる。
「そういえば、以前の契約書は私が破り捨ててしまったね。新しい契約が必要か?」
「……第十二条(破棄権)は、もう結構です」
「もちろん、そんな条項は入れない。代わりに入れるのは、これだ」
彼は真面目な顔で、指を一本立てた。
「第一条。リディアは生涯、エリオットに愛されることを甘んじて受け入れること」
「……ふふ、なんですか、それは」
「第二条。辛い時は半分こにして、嬉しい時は二倍にすること。……第三条」
彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「我々は、死が二人を分かつまで、互いの手を決して離さないこと」
それは契約というより、プロポーズのやり直しであり、魂の誓いだった。
私はペンを置き、彼の方へ体を向けた。
もう、扇で顔を隠す必要はない。
私はありのままの笑顔で、彼に答えた。
「承知いたしました。……その契約、謹んで締結させていただきます」
エリオットが嬉しそうに私を引き寄せ、優しい口づけを落とす。
インクの匂いと、彼の移り香が混ざり合う。
机の上には、まだ書きかけの招待状が山のようにある。
これから私たちは、この一枚一枚に手書きで署名をしていくのだ。
途方もない作業だけれど、今の私にはそれが「幸せな共同作業」にしか思えない。
真っ白な便箋は、私たちの未来そのものだ。
シナリオも、強制力もない。
ここからは、私たち二人で好きな物語を書き込んでいけるのだから。
私は再びペンを握り、インクをたっぷりと含ませた。
さあ、始めましょう。
世界で一番幸せな、私たちの物語を。




