表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/36

第34話 純白の便箋と、書き始められる物語

 皺だらけの羊皮紙が捨てられた床の上から、私たちは新しい一歩を踏み出した。


 数日後。離宮「薔薇の館」の執務室は、以前とは全く違う空気に満ちていた。

 窓から差し込む陽光は暖かく、紅茶の湯気は甘い。

 机の上に積み上げられているのは、殺伐とした監査資料や黒い帳簿ではない。

 最高級の紙で作られた、**純白の便箋**と封筒の山だ。


 私は新しい羽ペンを手に取り、インク壺に浸した。

 以前、指にこびりついて取れなかった藍色のインク。

 けれど今の私には、この色が「罪人の刺青」ではなく、「王太子妃の権威」に見える。


「……リディア。また眉間に皺が寄っているよ」


 隣から、クスクスという笑い声が聞こえた。

 向かいの席ではない。隣だ。

 エリオットは――まだ「殿下」と呼びそうになるけれど、二人きりの時は名前で呼ぶ約束をした――私の椅子のすぐ横に自分の椅子を引き寄せ、肩が触れ合う距離で座っている。


「申し訳ありません、エリオット様。招待客のリストアップに集中しておりまして」

「仕事じゃないんだ。もっと楽しんで書いてほしい」


 彼は私の手からペンを優しく取り上げ、テーブルの上に置いた。

 そして、私の手を両手で包み込んで、親指で甲を撫でる。

 この数日、彼は事あるごとにこうして私に触れ、愛を確かめようとする。そのたびに、私の心臓はいまだに早鐘を打つのだが。


「ですが、結婚式は一ヶ月後です。各国の王族への招待状、配席、料理の選定……やるべきことは山積みです」

「そうだな。だが、今回は君一人で背負う必要はない。私がいる」


 彼は便箋の一枚を手に取り、私の目の前に置いた。


「覚えているか? 以前、君は舞踏会の進行表のパートナー欄を、空白にしていたね」


 ドキリとする。

 あの時、私はそこにアリア様の名前が入ると信じて疑わなかった。


「ええ。……愚かな配慮でした」

「いいや。君なりの誠実さだった。だが、もう空白はいらない」


 エリオットは私に再びペンを握らせ、その上から自分の手を重ねた。

 大きくて、温かい手。

 彼の体温が、ペンを通じて私に伝わってくる。


「さあ、書いてくれ。私たちが夫婦になる証を」


 誘導されるまま、ペン先が紙の上を滑る。

 流麗な文字で、新郎の名が綴られる。

 『エリオット・ルーヴェン』。

 そして、その横に並ぶように。


 『リディア・アルフェン』。


 書き終えた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

 ああ、本当に。

 私は選ばれたのだ。

 代役としてでも、盾としてでもなく。ただのリディアとして、彼の隣に並んでいる。


 純白の紙の上に、二つの名前が寄り添っている。

 それはどんな契約書よりも確かな、不可逆の事実。


「……綺麗な名前だ」


 エリオットが、私の耳元で囁いた。

 頬に唇が触れる。


「そういえば、以前の契約書は私が破り捨ててしまったね。新しい契約が必要か?」

「……第十二条(破棄権)は、もう結構です」

「もちろん、そんな条項は入れない。代わりに入れるのは、これだ」


 彼は真面目な顔で、指を一本立てた。


「第一条。リディアは生涯、エリオットに愛されることを甘んじて受け入れること」

「……ふふ、なんですか、それは」

「第二条。辛い時は半分こにして、嬉しい時は二倍にすること。……第三条」


 彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「我々は、死が二人を分かつまで、互いの手を決して離さないこと」


 それは契約というより、プロポーズのやり直しであり、魂の誓いだった。

 私はペンを置き、彼の方へ体を向けた。

 

 もう、扇で顔を隠す必要はない。

 私はありのままの笑顔で、彼に答えた。


「承知いたしました。……その契約、謹んで締結させていただきます」


 エリオットが嬉しそうに私を引き寄せ、優しい口づけを落とす。

 インクの匂いと、彼の移り香が混ざり合う。


 机の上には、まだ書きかけの招待状が山のようにある。

 これから私たちは、この一枚一枚に手書きで署名をしていくのだ。

 途方もない作業だけれど、今の私にはそれが「幸せな共同作業」にしか思えない。


 真っ白な便箋は、私たちの未来そのものだ。

 シナリオも、強制力もない。

 ここからは、私たち二人で好きな物語を書き込んでいけるのだから。


 私は再びペンを握り、インクをたっぷりと含ませた。

 さあ、始めましょう。

 世界で一番幸せな、私たちの物語を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ