第33話 黒革の手帳と、書き直される定義
床に転がる皺だらけの羊皮紙が、私の完璧だった計画の残骸に見えた。
廊下には、荒い息を吐くエリオット殿下と、呆然と立ち尽くす私。そして、気まずそうに、けれどどこか楽しげに荷物を持ち直したアリア様がいた。
「えっと……そういうことですので! 私、お邪魔虫は退散しますね!」
アリア様はウィンクを一つ飛ばすと、私の手をギュッと握った。
「リディアお義姉様。……いえ、リディア様。どうか、エリオット様を幸せにしてあげてください。貴女にしかできないことです!」
「あ、アリア様、待って……!」
引き止める間もなく、彼女は脱兎のごとく廊下の向こうへと走り去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような静寂。
残されたのは、私と、感情を露わにしたままの猛獣が一匹。
私は視線を彷徨わせた。
どこを見ても気まずい。
穴があったら入りたい。いや、むしろ壁のシミになりたい。
私は今まで、なんと滑稽な独り相撲を取っていたのだろう。勝手に悲劇に酔って、勝手に彼を突き放して。
「……リディア」
エリオット殿下が、一歩近づいてきた。
私は反射的に後ずさり、背中に隠していた**黒革の手帳**を強く握りしめた。
これだけは見られてはいけない。
『アリア様へ』と表紙に書かれた、あの引継書だ。これが露見すれば、私の勘違いの歴史が白日の下に晒される。
「隠しているものは、なんだ?」
「な、何もございません。ただのメモ帳です」
「嘘だ。君は嘘をつく時、視線を右下に逸らす癖がある」
――知っている。
私の癖まで、彼は把握しているのか。
エリオット殿下は強引に私の背中に手を回し、手帳を奪い取った。
あっ、という情けない声が出る。
「返してください! それだけは!」
「『親愛なるアリア様へ』……?」
彼は表紙の文字を読み上げ、怪訝な顔でページをめくった。
パラパラと紙がめくれる音が、私の羞恥心を煽る。
『殿下は寝起きに機嫌が悪いが、五分放置すれば甘えてくる』
『野菜の好き嫌いは細かく刻めば誤魔化せる』
『不安な時は左手の小指をいじる癖がある。その時は黙って手を握ること』
私の観察記録が、次々と読み上げられていく。
顔から火が出そうだ。全身の血液が沸騰している。
それはただの事務的なデータではない。
彼をずっと見つめていなければ気づかない、些細で、どうでもよくて、でも愛おしいディテールの数々。
「……すごいな」
エリオット殿下の手が止まった。
彼は顔を上げ、驚きと感動がない交ぜになった瞳で私を見た。
「君は、私のことをこんなに見ていてくれたのか」
「ち、違います! それはあくまで業務上のデータ収集で、次期王妃のための効率的な運用マニュアルであって……!」
早口で言い訳を並べ立てる私の唇を、彼の人差し指が塞いだ。
「リディア。業務でここまで書けるか? 嫌いな相手のために、こんなに緻密な『取扱説明書』を作るか?」
「……っ」
「これは君からのラブレターだと、受け取ってもいいか?」
ラブレター。
その言葉に、私は反論できなかった。
だって、そうですもの。
書きながら、何度も泣きそうになった。
彼の好きなものを書き連ねるたびに、「これを彼にしてあげるのは私じゃない」という事実に胸が張り裂けそうだった。
それは、恋だった。
役目や責任という包装紙でぐるぐる巻きにして、見えないようにしていただけの、紛れもない恋心。
「……ずるいです、殿下」
私は力が抜けて、その場にしゃがみ込みそうになった。
「そんなものを見られたら、もう言い逃れできないではありませんか」
「ああ。逃がさないと言っただろう」
エリオット殿下は手帳をポケットにしまい、私の両手を包み込んだ。
温かい。
この温度は、演技でも契約でもない。
「リディア。改めて問う」
彼の声が、真摯に響く。
「法も、契約も、アリアの存在も関係ない。ただの男として、君に乞う。……私の隣にいてほしい。君の意志で、私を選んでくれないか?」
「君の意志で」。
今まで私は「選ばれる側」だった。あるいは「選ばれなかった側」として振る舞っていた。
けれど今、ボールは私の手にある。
私が「イエス」と言わなければ、この物語は進まない。
私は顔を上げ、涙で滲む視界の先で、不安そうに眉を下げる彼を見た。
ああ、この人はこんな顔をするんだ。
私が拒絶すれば、世界が終わったような顔で泣くのかもしれない。
そんな顔、させたくない。
私は彼の手を握り返した。
今までで一番強く。扇も、手袋も介さずに。
「……はい」
声が震える。
「お慕いしております、エリオット。……貴方が、好きです」
殿下、という敬称を外した。
ただのエリオットと、ただのリディアとして。
その瞬間、彼が私を抱きしめた。
肋骨が軋むほどの強さ。
けれど、以前のような「痛さ」はない。そこにあるのは、互いの存在を確認し合うような、確かな安らぎだった。
胸ポケットの中で、黒革の手帳がゴツリと当たる。
あれはもう引継書ではない。
これから私たちが紡いでいく、長い長い愛の記録の、その第一巻だ。
私は彼の背中に手を回し、ようやく訪れた「本当のハッピーエンド」の入り口で、あふれる涙を彼のシャツに吸わせた。
もう、どこへも行きません。
ここが、私の居場所なのですから。




