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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第32話 皺だらけの羊皮紙と、崩壊するシナリオ

 革のトランクの持ち手が、汗ばんだ掌に食い込んで痛い。

 私は王宮の裏門へと続く長い回廊を、競歩のような速さで歩いていた。


 振り返ってはいけない。

 エリオット殿下の叫び声は、分厚い扉の向こうに置いてきた。

 これでいい。私は完璧な引き際を演じきったのだ。


「――あれ? リディアお義姉様?」


 角を曲がった瞬間、目の前に現れた人物に、私は急ブレーキをかけた。

 アリア様だ。

 彼女は私と同じように、旅装を整え、足元に大きなボストンバッグを置いていた。


「アリア様? なぜここに? 殿下の執務室へ向かわれたのでは?」

「え? ご挨拶には行こうと思っていましたけど……それよりお義姉様こそ、そのお荷物は?」


 彼女は私のトランクを見て、不思議そうに小首をかしげた。


「……私は、実家へ戻ります。ここでの役目を終えましたので」

「役目?」

「ええ。法改正は成りました。これからは貴女が殿下の隣に立ち、この国を支えるのです。私は邪魔にならないよう、退場いたします」


 私は淡々と、しかし優しく諭すように告げた。

 アリア様はしばらくポカンとしていたが、次の瞬間、見たこともないほど慌てふためいて手を振った。


「えええっ!? ち、違います! 誤解ですお義姉様!」

「誤解?」

「私、王妃様になんてなれません! 無理です、あんな大変なお仕事!」


 彼女は必死な形相で、とんでもないことを口走り始めた。


「それに私、故郷に帰って幼馴染の騎士団員と結婚する約束をしているんです! エリオット様にも、最初からそうお伝えしてあります!」


 ――は?

 私の思考回路が、不快なノイズを立てて停止した。


 幼馴染? 結婚?

 待って。原作ゲームにそんな設定はない。彼女はエリオット殿下と結ばれる運命のヒロインのはずだ。

 

「で、でも、殿下は貴女のために法を変えて……」

「それは『私のような身分の者でもチャンスがある』という前例を作ることで、リディア様との結婚を反対する貴族たちを黙らせるためだって、エリオット様が……」


 カシャン。

 頭の中で、巨大なパズルが崩れ落ちる音がした。


 アリア様のために法を変えたのではない?

 私との結婚を正当化するために、アリア様という「極端な例」を利用して、法を緩和した?

 

 だとしたら。

 私が今まで「アリア様のため」と思ってやってきた、あの過剰なまでの献身は?

 夜なべして作った引継書は?

 あの鍵の譲渡は?

 そして、さっきの「かっこいい退場」は?


 全部、私の……勘違い?


「リディア!」


 背後から、雷のような怒号が響いた。

 ビクリと肩が跳ねる。

 恐る恐る振り返ると、そこには息を切らせ、髪を振り乱したエリオット殿下が立っていた。

 いつもの冷静な王子様の仮面は剥がれ落ち、そこにあるのは、なりふり構わぬ一人の男の顔だった。


「で、殿下……」

「逃げるな。私の話を聞け」


 彼は大股で私に近づき、私の手から革のトランクを奪い取ると、床に放り投げた。

 ガシャン、と重い音が響く。

 そして、彼は手に持っていた一枚の紙――私が突きつけた契約書の写し――を、私の目の前でくしゃくしゃに握りつぶした。


 **皺だらけになった羊皮紙**。

 王家の紋章が歪み、条文が読めなくなる。


「第十二条など、もう存在しない」


 彼は低い声で、けれど痛切な響きを込めて言った。


「あれを入れたのは、君がいつか私を愛してくれなかった時、君の自由を守るためだった。私が振られる時のための保険だったんだ! ……君を追い出すためじゃない!」


 彼の悲痛な叫びが、廊下に反響する。

 アリア様が、気まずそうに、でもニコニコしながら後ずさりしていくのが視界の端で見えた。


「でも……私は『代役』です。断罪を回避しただけの、脇役令嬢です。貴方が本当に愛すべきは、物語の主役であるアリア様のはずで……」

「物語? 脇役? 何を言っているんだ!」


 エリオット殿下は、私の両肩を強く掴んだ。

 痛い。

 でも、その痛みだけが、これが現実だと教えてくれる。


「私の物語の主役は、最初から君だ! あの卒業パーティーの日、兄上に立ち向かい、震えながらも気高く頭を下げていた君を見た瞬間から、私の世界には君しかいない!」


 熱い言葉が、濁流のように押し寄せてくる。

 私の知っている「原作シナリオ」が、音を立てて書き換わっていく。

 

 彼は最初から、私を選んでいた?

 政治的な盾としてではなく、一人の女性として?

 

 だとしたら、私はとんだピエロだ。

 勝手に悲劇のヒロインを気取って、勝手に失恋して、勝手に去ろうとしていた。

 穴があったら入りたい。いや、今すぐこの床が抜けて、王宮の地下牢まで落ちてしまいたい。


「……信じられない、ですか?」


 私が呆然と呟くと、彼は泣きそうな顔で、握りつぶした契約書を床に捨て、私の頬を両手で包んだ。


「言葉で足りないなら、行動で示す。……君が『分かった、参った』と言うまで、私は一生君を離さない」


 彼の瞳に、私のマヌケな顔が映っている。

 その顔は、もう「能面のよう」ではなく、真っ赤に染まり、涙目で、どうしようもなく混乱していた。


 ああ、シナリオが崩壊する。

 私が守りたかった「完璧な予定調和」は、皺だらけの紙屑になって床に転がっている。

 

 どうしよう。

 引き継ぎノート、まだアリア様に渡していないのに。

 私の手元には今、彼に愛される覚悟なんて、これっぽっちも残っていない。

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