第30話 白金のティアラと、重すぎる試着
黒檀の小槌が叩きつけた乾いた音は、数日経っても私の耳の奥で反響し続けていた。
離宮の執務室。積み上げられた羊皮紙の山が、窓からの日差しを遮っている。
私はこめかみを揉みほぐし、ペンをインク壺に浸した。
御前会議での「法改正宣言」は、単なる言葉では終わらない。
実際に条文を変えるためには、過去の判例を精査し、貴族院を説得するための理論武装が必要だ。
私が作成しているのは、そのための設計図。
アリア様がスムーズに王妃の座に就けるよう、いばらの道を舗装してレッドカーペットに変える作業だ。
「……リディアお義姉様、少し休憩しませんか?」
控えめなノックと共に、アリア様がワゴンを押して入ってきた。
甘い焼き菓子の香りが漂う。
彼女はもう、王宮での生活にすっかり馴染んでいた。歩き方も、ティーカップの扱い方も洗練されている。私の教育の賜物だ。
「ありがとう、アリア様。ちょうど根を詰めていたところです」
「よかった。……あの、エリオット様も心配していましたよ。『リディアは真面目すぎるから、誰かが強制的に休ませないと倒れてしまう』って」
アリア様がクスクスと笑いながら、紅茶を注いでくれる。
その言葉に、私はペンを置く手が止まりかけた。
エリオット殿下が、私を心配していた?
アリア様に向かって?
……ああ、なるほど。
これは「進捗確認」だ。
彼にとって私は、法改正という一大プロジェクトの責任者。過労で倒れられては計画が狂う。だから、未来の妻であるアリア様に「現場監督」としての役割を与え、私の体調管理をさせているのだ。
二人の会話のネタにされていると思うと、少し複雑だが、それだけ信頼されている証拠でもある。
「殿下にはご心配をおかけして申し訳ないと、お伝えください」
「ええっ? でもエリオット様、すごく嬉しそうでしたよ。『彼女が私のために頑張ってくれている姿を思うだけで、酒が美味い』なんて仰ってましたし」
アリア様は無邪気に暴露する。
私は引きつりそうな頬を紅茶の湯気で隠した。
「酒が美味い」。
それはそうでしょう。自分のために泥を被って働く部下を見るのは、権力者にとって最高の娯楽ですから。
「……光栄ですわ。さあ、アリア様。今日のレッスンですが――」
「あ、今日はダメなんです! エリオット様がお呼びです。『リディアを連れてきてくれ』って」
彼女は申し訳なさそうに、けれど任務を果たした従者のように胸を張った。
* * *
連れて行かれたのは、王宮の地下深くにある「宝物庫」だった。
分厚い鉄の扉が開くと、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。
「待っていたよ、リディア」
薄暗い部屋の中央に、エリオット殿下が立っていた。
彼の横にある台座には、黒いベルベットが掛けられている。
「ここは……?」
「歴代の王家が守り抜いてきた至宝の眠る場所だ。……そして、これを見せたかった」
彼がベルベットを取り払う。
そこに鎮座していたのは、目が眩むほどの輝きを放つ**白金のティアラ**だった。
繊細なレースのように編まれたプラチナの土台に、親指ほどの大きさのダイヤモンドが無数に埋め込まれている。
初代王妃が戴冠式で身につけたとされる、伝説の国宝だ。
「美しい……」
「だろう? これは、次期王妃となる女性だけが触れることを許されるものだ」
エリオット殿下は手袋をはめた手で、恭しくティアラを持ち上げた。
キラキラと光が散乱し、地下室の壁に星空を描く。
「リディア。こっちへ」
「え……?」
「試着だ。サイズが合うか確認したい」
彼は私を手招きした。
心臓が早鐘を打つ。
試着。
国宝を、私のような仮初めの身が?
……いや、待て。
冷静になれ、リディア。
これは「アリア様のための予行演習」だ。
アリア様は華奢だ。私と背格好が似ている。
本番の戴冠式でサイズが合わずに滑り落ちたら大惨事になる。だから、私というマネキンを使って、調整幅を確認しておきたいのだ。
合理的だ。実に彼らしい。
「……承知いたしました。私の頭でよろしければ、いくらでもお使いください」
私は一歩進み出て、頭を垂れた。
エリオット殿下が、そっと私の頭上にティアラを載せる。
ずしり。
予想以上の重みが、首にかかる。
物理的な重さだけではない。数百年の歴史、王妃としての責任、民からの視線。そのすべてが、この金属の輪に凝縮されている。
エリオット殿下は、私の髪にティアラを固定しながら、鏡の方へ私を向けさせた。
古びた姿見に、ティアラを戴いた私が映る。
豪華すぎて、ちぐはぐだ。
まるで、盗んだ宝石を身につけた泥棒のよう。
「……完璧だ」
背後から、エリオット殿下の熱っぽい吐息が聞こえた。
彼は鏡越しに私を見つめ、うっとりとした表情を浮かべている。
「やはり、君のために作られたようだ。この輝きに負けない女性は、君しかいない」
甘い言葉。
けれど私は、鏡の中の自分を冷めた目で見つめ返した。
負けていますよ、殿下。
私の顔色は青白く、目の下には隈がある。
このティアラが本当に似合うのは、太陽のように笑うアリア様だけだ。
貴方は今、私の中に未来の彼女の姿を幻視しているのでしょう。
「……サイズは、少し緩いようですわ。アリア様なら、もう少し詰め物をした方がよろしいかと」
私が事務的に報告すると、エリオット殿下の動きが止まった。
鏡の中の彼が、怪訝そうに眉を寄せる。
「なぜ、そこでアリアの話が出る?」
「え? だって、これは彼女のための――」
「これは君のものだ。リディア、君が私の妻として、戴冠式で着けるんだ」
彼は強い口調で遮り、私の肩を掴んだ。
鏡越しに目が合う。
逃がさない、という強い意志。
ああ、そうか。
彼はまだ「法改正」が終わっていないから、公には私を婚約者として扱わなければならないのだ。
ここには監視カメラも側近もいないのに、徹底して役に入り込んでいる。
もしかすると、自分自身に暗示をかけているのかもしれない。「リディアを愛している」と思い込むことで、アリア様を危険に晒さないように。
なんて痛ましいほどの献身。
私はその演技に乗ってあげるのが、共犯者としての最後の優しさだと思った。
「……ありがとうございます、あなた。とても嬉しいです」
私は鏡に向かって、精一杯の「幸せな花嫁」の微笑みを作った。
頭の上のティアラが、首をへし折るほどの重さで私を圧迫する。
早く外したい。
この輝きは、私には眩しすぎて、影に生きる者の目を焼いてしまう。
エリオット殿下は満足そうに微笑み返してくれたけれど、その笑顔の裏にある本当の計画を、私は忘れてはいけない。
このティアラは、私の頭蓋骨ごと砕いてしまいたいほど重い、「代役」という名の枷なのだから。




