第3話 紺碧のベルベットと、似合わぬ宝石
署名したインクの匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がする。
契約から三日。私は王宮の一角にある「衣装の間」に立たされていた。
壁一面に並ぶ絹やレース、ベルベットの洪水。王室御用達の針子たちが、私の周りを忙しなく飛び回っている。
「――リディア様、こちらのお色はいかがでしょう? 流行のペールピンクですわ」
「あ、いえ……それは少し、可愛らしすぎて」
針子頭のマダムが差し出した生地を、私はやんわりと押し返した。
来週の夜会は、私とエリオット殿下の婚約お披露目の場だ。
そこで求められるのは「主役」としての輝きではない。第二王子の隣にいても邪魔にならず、かといって貧相でもない、絶妙な「背景」としての役割だ。
私はラックの端にかかっていた、落ち着いた灰桜色のドレスを指差した。
「こちらにいたします。これなら目立ちすぎず、殿下のお引き立て役になれるかと」
「えっ……ですが、それはあまりにも地味では……」
マダムが難色を示したその時、部屋の入り口から穏やかな、しかし絶対的な声が降ってきた。
「却下だ」
振り返ると、公務の合間を縫って駆けつけたエリオット殿下が立っていた。
彼は迷いなく私の方へ歩み寄ると、私が選んだ灰桜色のドレスを指先で軽く弾き、ラックの奥から別の一着を引き抜いた。
「君には、これがいい」
広げられたのは、深い夜の海のような、艶やかな紺碧のベルベットだった。
金糸の刺繍が施され、照明を吸い込んで重厚な光沢を放っている。
明らかに、主役級のドレスだ。
「で、殿下。それはあまりに……派手すぎます。私が着ては、衣装に着られてしまいます」
「そんなことはない。私の瞳と同じ色だ。これを纏えば、君が誰の加護下にあるか一目でわかる」
――あ。
その言葉に、私は口をつぐんだ。
なるほど。「マーキング」だ。
王族の色のドレスを着せることで、周囲の有象無象に対して「これは俺の所有物だ、手を出すな」と牽制する。第一王子派閥への強烈なメッセージになる。
私が似合うかどうかなど二の次で、政治的な旗印としての効果を狙っているのだ。
さすがエリオット殿下。その合理的思考、勉強になります。
「……承知いたしました。殿下の御心のままに」
「素直でいい子だ」
彼は満足げに頷くと、マダムに目配せをして着替えを促した。
* * *
着替えを終え、カーテンが開かれる。
部屋の中央に置かれた巨大な姿見の前に、私は立たされた。
鏡の中の自分に、思わず息を呑む。
紺碧のドレスは、私の色素の薄い肌を驚くほど白く見せ、地味だと思っていた栗色の髪を際立たせていた。
まるで、別人だ。
物語の「脇役」が、無理やり舞台の中央に引きずり出されたような違和感と、奇妙な高揚感。
「美しい……」
背後から近づいたエリオット殿下が、鏡越しに私を見つめていた。
その熱を帯びた瞳に、私はまた動揺しそうになる。
だめよ、リディア。これは商品価値を確認しているだけ。
「よし、これなら見栄えがする。兄上に見せつけてやれる」という計算の目だわ。
「仕上げだ」
彼は懐から、ビロードの小箱を取り出した。
ぱかり、と開かれた中には、大粒のサファイアを連ねたネックレスが鎮座している。
国宝級の輝きに、針子たちが小さな悲鳴を上げた。
「殿下、それは王家に伝わる……!」
「ああ。母上から譲り受けた。私の婚約者にはこれを贈ると決めていたんだ」
待ってください、重すぎます。
物理的にも、意味的にも。
そんな由緒ある品を、仮初めの婚約者に?
……そうか、これも演出か。「王家公認」という既成事実を作るための、最強の小道具。
エリオット殿下は私の背後に回り、首筋に触れそうな距離で留め金を外した。
ひやりとした宝石が肌に触れ、その直後、彼の手の熱がうなじを掠める。
心臓が早鐘を打つ。
鏡の中、私の首に青い光の鎖が巻かれていく。
「似合うよ、リディア。君は私の誇りだ」
耳元で囁かれた甘い声。
彼は鏡越しに私の視線を捉え、逃がしてくれない。
その瞳は、私の首元のサファイアよりも深く、執着に満ちているように見えた。
鏡に映るのは、完璧に装飾された「第二王子妃」という虚像。
そして、その背後で満足げに微笑む、このシナリオの脚本家。
私は鏡の中の自分に向かって、自嘲気味に微笑み返した。
重たいネックレスが、ずしりと鎖骨に食い込む。
わかりました、エリオット殿下。
貴方がそこまで完璧な舞台を用意してくださるのなら、私は最高の演技でお応えしましょう。
この鎖が外されるその日まで、私は貴方の自慢の「人形」になりきってみせます。
私は冷たい宝石に指で触れ、鏡の中の彼に、小さく頷いてみせた。




