第29話 黒檀の小槌と、裁かれる愛の行方
唇に残るアルコールの痺れと、甘い誓いの記憶は、一夜明けても消えることはなかった。
けれど、今の私に必要なのは陶酔ではなく、冷徹な法解釈だ。
王宮の中枢、「白の間」。
国の重要事項を決定する御前会議の場に、私はエリオット殿下の隣で出席していた。
円卓を囲むのは、大臣、将軍、そして高位貴族たち。
空気は重く、誰もが息を潜めている。
議長席の宰相が、手元の**黒檀の小槌**を握りしめている。
あの槌が振り下ろされれば、決定事項は覆らない。
「――議題は、第二王子エリオット殿下と、アルフェン伯爵令嬢リディア殿の婚約承認についてである」
宰相の声が響く。
その瞬間、向かいの席から嘲るような笑い声が上がった。
「異議がある」
第一王子ウィリアム殿下だ。
彼は悠然と立ち上がり、手元の分厚い法典をテーブルに放り投げた。
以前、私が禁書庫で見たあの『王位継承法典』だ。
「この婚約は無効だ。法典第四条を見ろ。『王位ヲ継グ者ノ伴侶ハ、聖ナル加護ヲ持ツ者デアルベシ』。……リディア嬢に、そのような力があるのか?」
会場がどよめく。
正論だ。
彼らはアリア様(聖女)を奪われた腹いせに、最も堅実な「法律」という武器で殴りにかかってきたのだ。
私が聖女でないことは周知の事実。この一点において、私は王妃の資格を持たない。
エリオット殿下が眉をひそめ、反論しようと口を開きかけた。
私はテーブルの下で、そっと彼の上着の裾を引いた。
――お任せください、殿下。
貴方が「法なんて関係ない!」と感情的に叫べば、未熟さを露呈することになります。
ここは、悪役令嬢の出番です。
私は静かに立ち上がり、ウィリアム殿下を真っ向から見据えた。
「ウィリアム殿下のご指摘、ごもっともです。私には枯れ木に花を咲かせる力も、病を癒やす奇跡もございません」
「ならば退け! 身の程知らずめ」
「ですが、殿下」
私は扇を開かず、あえて素手で虚空を切った。
「今の王国に必要なのは、不確定な『奇跡』でしょうか? それとも、昨年度の飢饉を乗り越え、崩壊寸前の財政を立て直す『実務』でしょうか?」
私は手元の資料――先日、監査官を撃退した際に作成した財政再建案の写し――を掲げた。
「聖女の祈りでパンは焼けません。ですが、適切な流通管理と予算配分があれば、国民の腹を満たすことはできます。私はエリオット殿下と共に、この数ヶ月で物流コストを二割削減しました。……これは『奇跡』に劣る成果ですか?」
大臣たちが顔を見合わせ、唸り声を上げる。
彼らは現実主義者だ。伝説上の聖女よりも、目の前の数字を作る女の方が利用価値が高いと知っている。
「ぐっ……、屁理屈を! 法は絶対だ!」
「法とは、国と民を守るためにあるものです。民を飢えさせる法に、正義はありません」
私の言葉に、ウィリアム殿下が絶句する。
その隙を逃さず、エリオット殿下が立ち上がった。
「彼女の言う通りだ。私は、古い法に縛られて民を見捨てる王にはなりたくない。……法は、変える」
会場が静まり返る。
爆弾発言だ。
だが、その目は本気だった。
「リディアは私の『共同統治者』に等しい。彼女の頭脳と、私の決断力。この二つが揃って初めて、この国は前に進める。……そのために、私は法改正の手続きに入るつもりだ」
エリオット殿下は私の肩を抱き寄せ、高らかに宣言した。
その熱い眼差しに、私は心の中で悲しく微笑んだ。
ああ、繋がった。
彼はここで「法改正」を宣言した。
その名目は「私の実務能力を活かすため」だが、真の目的は「身分の低いアリア様を王妃にするための地ならし」だ。
私が「有能な実務家」として前例を作り、法をねじ曲げる。
その道が開通したあと、悠々とアリア様が通るのだ。
私は、そのためのブルドーザー。
「……採決を取る!」
宰相の声。
挙手が求められ、過半数がエリオット殿下と私の方へ上がった。
実利を取ったのだ。
コンッ!
黒檀の小槌が、硬質な音を立てて振り下ろされた。
「承認! これより、リディア・アルフェン嬢を正式な王太子妃候補とし、法改正の議論を開始する!」
乾いた音が、鼓膜にへばりつく。
それは、私が正式に「国の道具」として採用された音だった。
ウィリアム殿下が悔しげに退室していく。
エリオット殿下は、私の手を握り、「やったな、リディア」と少年のように笑った。
ええ、やりましたね。
これで貴方の悲願である「聖女との結婚」への最大の障害(法律)は、私が取り除くことになりました。
小槌はもう鳴らされた。判決は下った。
私は法が変わるその日まで、この重たい席に座り続けなければならない。
アリア様が、笑顔でここへ座れるようになる、その日まで。




