表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/36

第28話 解かれた蝶ネクタイと、噛み合わぬ歯車

頭上で輝いていたクリスタルの残像が、瞼の裏でまだチカチカと明滅している。


 舞踏会という名の公開処刑――いいえ、公開契約式が終わり、私はエリオット殿下の私室にあるソファに腰を下ろしていた。

 王宮の喧騒は遠く、ここには重苦しい静寂と、暖炉の爆ぜる音だけがある。


 私の人生は、あの一瞬で確定した。

 「唯一の婚約者」。

 その言葉の裏にある、「生涯、聖女アリアを守るための避雷針になれ」という命令。

 拒否権などない。私は既に、あの光の中で彼の手を握り返してしまったのだから。


「……ふぅ。やっと終わったな」


 エリオット殿下が、首元の**紺碧の蝶ネクタイ**に指をかけ、するりと解いた。

 堅苦しい結び目が解け、襟元が露わになる。

 その仕草があまりに無防備で、色気を帯びていて、私は反射的に目を逸らした。


 これは「オフ」の合図だ。

 公務としての「熱愛演技」を終え、素の「策士」に戻った彼からの、労いの時間。


「お疲れ様でした、殿下。……素晴らしい演出でした」

「君のおかげだよ。君があそこで待っていてくれたから、私は迷わず進めた」


 彼はグラスに琥珀色の酒を注ぎ、私に差し出した。

 氷がカラン、と涼やかな音を立てる。


「乾杯しよう。私たちの新しい始まりに」

「……ええ。謹んで」


 私はグラスを受け取り、一口だけ口をつけた。

 強いアルコールが喉を焼き、冷え切った胃に落ちていく。


 新しい始まり。

 それは「仮初めの婚約者」から「永年雇用の盾」への契約変更。


「……ところで、殿下。アリア様は?」


 私は最も気になっていたことを尋ねた。

 本来なら、この部屋にいるべきは彼女のはずだ。

 私が鍵を渡したのだから、彼女はここへ入れたはずなのに。


「アリアか? 彼女なら、先に休ませたよ。今日は慣れないことばかりで疲れていただろうからね」


 エリオット殿下は、さも当然のように言った。

 その声の優しさに、私は全てを悟った。


 ああ、徹底している。

 彼はアリア様を、私の目にすら触れさせないほど厳重に匿うつもりなのだ。

 「表向きの婚約者」である私と一緒にいるところを周囲に見せつけ、アリバイを作る。その間に、本命のアリア様は安全な場所で休ませる。

 愛する人を政治の道具にしないための、完璧な配慮。

 

 私には酒を振る舞い、夜遅くまで付き合わせるけれど、彼女には「お休み」を与える。

 その扱いの差こそが、本物と偽物の決定的な違いだ。


「……賢明なご判断です。彼女をこれ以上、危険な目に遭わせるわけにはいきませんものね」

「ああ。彼女には感謝しているが、巻き込みたくはない。……私が守りたいのは、君だから」


 まただ。

 彼は平然と甘い嘘を吐く。

 「(アリアを守る盾としての)君を守りたい」。括弧の中身が透けて見えるようだ。

 でも、もう傷ついたりはしない。

 私はその役割を受け入れたのだから。


「分かっております。殿下の願い、私がすべて背負いましょう」


 私が静かに告げると、エリオット殿下はグラスを置き、私の隣に座り直した。

 ソファが沈み、彼との距離がゼロになる。

 解かれたネクタイが、私のドレスの膝元に触れた。


「リディア」


 名前を呼ばれ、顎を指ですくい上げられる。

 逃げられない。

 彼の顔が近づき、その碧眼が私を吸い込むように見つめている。


「愛している」


 唇が重なった。

 甘く、長く、そして深い口づけ。

 頭がくらくらする。

 これが演技だとしたら、彼は歴史に残る詐欺師だ。

 あるいは、自分自身さえも騙して、この「偽りの愛」を真実だと思い込もうとしているのかもしれない。政略結婚の相手に情を移すことで、精神の均衡を保つように。


 私は抵抗せず、そっと目を閉じた。

 受け入れよう。

 これが「契約書」への捺印だ。


 唇が離れると、彼は満足げに、そして少し照れたように微笑んだ。


「……これから、よろしく頼むよ。私の妻」

「……はい。旦那様」


 私は機械的に返事をした。

 心の中にあるのは、ときめきではなく、重たい鉄の扉が閉まる音。


 テーブルの上、解かれた蝶ネクタイがだらりと横たわっている。

 それはまるで、首輪を外されたようでいて、実はもっと見えない鎖で繋がれた私の姿のようだった。


 アリア様。貴女は今頃、夢の中でしょうか。

 安心して眠ってください。

 貴女の王子様は、私が責任を持って、世間の嵐から守り抜いてみせますから。


 私は残りの酒を一気に煽り、熱くなる目頭を誤魔化した。

 私たちの歯車は、完全に噛み合ったように見えて、その実、決定的にズレたまま回り始めたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ