第28話 解かれた蝶ネクタイと、噛み合わぬ歯車
頭上で輝いていたクリスタルの残像が、瞼の裏でまだチカチカと明滅している。
舞踏会という名の公開処刑――いいえ、公開契約式が終わり、私はエリオット殿下の私室にあるソファに腰を下ろしていた。
王宮の喧騒は遠く、ここには重苦しい静寂と、暖炉の爆ぜる音だけがある。
私の人生は、あの一瞬で確定した。
「唯一の婚約者」。
その言葉の裏にある、「生涯、聖女アリアを守るための避雷針になれ」という命令。
拒否権などない。私は既に、あの光の中で彼の手を握り返してしまったのだから。
「……ふぅ。やっと終わったな」
エリオット殿下が、首元の**紺碧の蝶ネクタイ**に指をかけ、するりと解いた。
堅苦しい結び目が解け、襟元が露わになる。
その仕草があまりに無防備で、色気を帯びていて、私は反射的に目を逸らした。
これは「オフ」の合図だ。
公務としての「熱愛演技」を終え、素の「策士」に戻った彼からの、労いの時間。
「お疲れ様でした、殿下。……素晴らしい演出でした」
「君のおかげだよ。君があそこで待っていてくれたから、私は迷わず進めた」
彼はグラスに琥珀色の酒を注ぎ、私に差し出した。
氷がカラン、と涼やかな音を立てる。
「乾杯しよう。私たちの新しい始まりに」
「……ええ。謹んで」
私はグラスを受け取り、一口だけ口をつけた。
強いアルコールが喉を焼き、冷え切った胃に落ちていく。
新しい始まり。
それは「仮初めの婚約者」から「永年雇用の盾」への契約変更。
「……ところで、殿下。アリア様は?」
私は最も気になっていたことを尋ねた。
本来なら、この部屋にいるべきは彼女のはずだ。
私が鍵を渡したのだから、彼女はここへ入れたはずなのに。
「アリアか? 彼女なら、先に休ませたよ。今日は慣れないことばかりで疲れていただろうからね」
エリオット殿下は、さも当然のように言った。
その声の優しさに、私は全てを悟った。
ああ、徹底している。
彼はアリア様を、私の目にすら触れさせないほど厳重に匿うつもりなのだ。
「表向きの婚約者」である私と一緒にいるところを周囲に見せつけ、アリバイを作る。その間に、本命のアリア様は安全な場所で休ませる。
愛する人を政治の道具にしないための、完璧な配慮。
私には酒を振る舞い、夜遅くまで付き合わせるけれど、彼女には「お休み」を与える。
その扱いの差こそが、本物と偽物の決定的な違いだ。
「……賢明なご判断です。彼女をこれ以上、危険な目に遭わせるわけにはいきませんものね」
「ああ。彼女には感謝しているが、巻き込みたくはない。……私が守りたいのは、君だから」
まただ。
彼は平然と甘い嘘を吐く。
「(アリアを守る盾としての)君を守りたい」。括弧の中身が透けて見えるようだ。
でも、もう傷ついたりはしない。
私はその役割を受け入れたのだから。
「分かっております。殿下の願い、私がすべて背負いましょう」
私が静かに告げると、エリオット殿下はグラスを置き、私の隣に座り直した。
ソファが沈み、彼との距離がゼロになる。
解かれたネクタイが、私のドレスの膝元に触れた。
「リディア」
名前を呼ばれ、顎を指ですくい上げられる。
逃げられない。
彼の顔が近づき、その碧眼が私を吸い込むように見つめている。
「愛している」
唇が重なった。
甘く、長く、そして深い口づけ。
頭がくらくらする。
これが演技だとしたら、彼は歴史に残る詐欺師だ。
あるいは、自分自身さえも騙して、この「偽りの愛」を真実だと思い込もうとしているのかもしれない。政略結婚の相手に情を移すことで、精神の均衡を保つように。
私は抵抗せず、そっと目を閉じた。
受け入れよう。
これが「契約書」への捺印だ。
唇が離れると、彼は満足げに、そして少し照れたように微笑んだ。
「……これから、よろしく頼むよ。私の妻」
「……はい。旦那様」
私は機械的に返事をした。
心の中にあるのは、ときめきではなく、重たい鉄の扉が閉まる音。
テーブルの上、解かれた蝶ネクタイがだらりと横たわっている。
それはまるで、首輪を外されたようでいて、実はもっと見えない鎖で繋がれた私の姿のようだった。
アリア様。貴女は今頃、夢の中でしょうか。
安心して眠ってください。
貴女の王子様は、私が責任を持って、世間の嵐から守り抜いてみせますから。
私は残りの酒を一気に煽り、熱くなる目頭を誤魔化した。
私たちの歯車は、完全に噛み合ったように見えて、その実、決定的にズレたまま回り始めたのだ。




