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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第26話 真鍮の鍵と、夜に溶けるドレス

 指先のインクの痕は完全に消え、代わりに冷たい震えだけが残っていた。


 建国記念舞踏会の夜。

 私は姿見の前で、最後の身支度を終えたところだった。

 鏡に映るのは、濃紺ミッドナイトブルーのドレスを纏った女。

 光沢を抑えた生地は、少し離れれば会場のカーテンや夜の闇と同化してしまいそうだ。装飾は首元のサファイアのみ。

 これなら、誰も私になど注目しない。

 主役を引き立てるための「影」として、これ以上の衣装はないだろう。


 私は手袋をはめ、その上からポケットの中の異物を握りしめた。

 硬くて、重い、金属の塊。


 コンコン、と控えめなノックの音がした。


「……リディアお義姉様? 入ってもいいですか?」

「ええ、どうぞ。アリア様」


 扉が開いた瞬間、部屋の中がパッと明るくなった気がした。


 純白のドレスに身を包んだアリア様が、恥ずかしそうに立っていた。

 ふわりと広がるレースの裾、金糸の刺繍、そして彼女自身の輝くような金髪と翠の瞳。

 「奇跡の娘」の名に恥じない、神々しいまでの美しさだ。


 私は駆け寄って、彼女の少し乱れたリボンを直した。


「完璧ですわ、アリア様。今の貴女なら、誰もがひざまずくでしょう」

「そ、そうでしょうか……? 私、緊張して足が震えてしまって……」

「大丈夫。貴女には、最高のパートナーが待っていますから」


 私は彼女の手を取り、その純白の手袋の上に、ポケットから取り出したものを乗せた。

 **真鍮しんちゅうの鍵**。

 かつてエリオット殿下が「君と私を隔てるものはない」と言って渡してくれた、王宮のマスターキーだ。


「え……これは?」

「エリオット殿下の私室と、王宮の裏門に通じる鍵です。……持っていてください」


 アリア様が驚いて目を丸くする。


「で、でも、これはリディアお義姉様が殿下から預かったものでは……?」

「私はただの管理者キーパーでしたから。本来の持ち主にお返しするだけです」


 私は彼女の指を包み込み、鍵を握らせた。

 ずしりと重かったはずの鍵が、彼女の手の中では正しい場所に収まったパズルのピースのように見えた。


「今夜、殿下は重大な発表をされます。そのあと、きっと貴女と二人きりで話したいことがあるはず。その時に、この鍵が必要になります」


 エリオット殿下の部屋へ入る権利。

 それはつまり、彼の心の内側へ入る権利だ。

 今夜、婚約者が交代すれば、この鍵は正式に彼女のものになる。


「……わかりました。大切にします!」


 アリア様は深く事情を知らないまま、私の真剣な眼差しに押されて頷いた。

 その無垢な信頼が、胸に刺さる。

 ごめんなさい。これはプレゼントではなく、責任の譲渡なのです。


「さあ、行ってください。殿下がエスコートをお待ちです」

「はい! 行ってきます、お義姉様!」


 彼女は光の粒子を撒き散らすようにして、部屋を出て行った。

 

 後に残されたのは、私と静寂だけ。

 私は自分の空っぽになった手のひらを見つめた。

 あんなに重かった責任が消えたのに、なぜか体は鉛のように重かった。


     * * *


 十分後。私は一人、会場への回廊を歩いていた。

 大広間からは、既に優雅なワルツの旋律と、人々のどよめきが漏れ聞こえてくる。


 入り口の隙間から中を覗く。

 シャンデリアの下、光の渦の中心に、エリオット殿下とアリア様が並んで立っていた。

 紺碧のタキシードと、純白のドレス。

 誰がどう見ても、お似合いの二人だ。


 私は深呼吸をし、目立たないようにそっと会場に入った。

 人混みを縫うようにして、壁際へ。

 濃紺のドレスが役割を果たし、誰も私には気づかない。第一王子派の貴族たちでさえ、中央の二人に見惚れて、私への嘲笑すら忘れているようだ。


 私は懐から、一枚の紙を取り出した。

 「進行表プログラム」。

 その一番上にあるパートナーの欄は、まだ空白のままだ。


 『20:00 第二王子殿下、重大発表』


 時計の針を見る。あと五分。

 あと五分で、エリオット殿下はあのアリア様の手を取り、高らかに宣言するだろう。

 「彼女こそが、私の真実の愛だ」と。

 

 その瞬間、私の手の中の進行表の空白は、見えないインクで「アリア・ミルストン」と埋められる。

 そして「リディア・アルフェン」の文字は、物語のページから永遠に消去されるのだ。


 私は紙を小さく折り畳み、扇で顔を隠した。

 泣いてはいけない。

 これは私が望み、私が整え、私が演出した最高のハッピーエンドなのだから。


 エリオット殿下が、一歩前へ出るのが見えた。

 会場が静まり返る。

 さあ、幕引きの時間だ。

 私は壁にもたれかかり、最後の観客として、その瞬間を待った。

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