第25話 灰色のリングケースと、予行演習の誓い
指先に残っていた藍色のインクの染みは、度重なる手洗いでようやく薄くなっていた。
けれど、それが消えることは、私の仕事がすべて終わったことを意味するようで、逆に落ち着かなかった。
舞踏会前日。
私はガランとした大広間の中央に立ち、シャンデリアの光量を確認していた。
明日の夜、この場所で歴史が動く。
エリオット殿下が新たな婚約者を発表し、国中に真実の愛を知らしめる瞬間。そのための舞台装置に、一点の曇りもあってはならない。
「……ここにいたのか」
静寂を破る足音。
振り返ると、エリオット殿下が立っていた。
いつもなら公務で忙しい時間のはずだが、今日の彼はどこかそわそわとして、落ち着きがないように見える。
「最終確認をしておりました。照明、音響、警備配置、すべて問題ありません」
「ありがとう。君の仕事はいつだって完璧だ」
彼は私に近づき、ポケットから一つの小さな物体を取り出した。
**灰色のベルベットの小箱**。
手のひらに収まるそのサイズは、間違いなくリングケースだ。
ドキン、と心臓が跳ねる。
灰色。目立たない色だが、王室御用達の宝石商が使う最高級の素材だ。
中に入っているのは、きっと国宝級のダイヤモンドか、あるいは王家の紋章を刻んだ印章指輪か。
「明日、これを渡そうと思っている」
エリオット殿下が、愛おしそうに小箱を親指で撫でた。
「私の人生で、一番大切な決断だ。……君に、最初に見てほしかった」
――ああ、やっぱり。
私は奥歯を噛み締め、呼吸を止めた。
彼は私に「検品」を求めているのだ。
私がアリア様を育て上げたように、この指輪も私の目で確認し、「これならアリア様に相応しい」と太鼓判を押してほしいのだ。
なんて残酷な信頼だろう。
私は震える指を隠し、箱には触れずに微笑んだ。
「拝見せずとも分かります。殿下がお選びになったものですもの。きっと、受け取る方を世界で一番幸せにする輝きを秘めているのでしょう」
「……そう言ってくれるか」
「ええ。アリア様……いえ、未来の妃殿下も、きっと涙を流して喜ばれますわ」
私が名前を出しそうになって言い直すと、彼は少し驚いたような顔をし、それから決意を秘めた目で頷いた。
「リディア。頼みがあるんだ」
「何なりと」
「予行演習に、付き合ってくれないか?」
彼は小箱を握りしめたまま、私に一歩踏み出した。
「明日の本番で、言葉に詰まりたくない。君を相手に、誓いの言葉を練習させてほしい」
視界が滲む。
練習台。
最後の最後まで、私は「代役」として消費される。
断りたい。泣いて逃げ出したい。
でも、それはできない。
私は「断罪を回避した脇役」であり、彼の幸せを誰よりも願う「共犯者」なのだから。
「……喜んで。私の胸を、その方の心だと思って射抜いてください」
私は背筋を伸ばし、標的として立った。
エリオット殿下は深く息を吸い、真剣な眼差しで私を捉えた。
「――ずっと、探していた」
静かな声が、広いホールに響く。
「王位も、権力も、私にはただの重荷でしかなかった。けれど、君と出会って初めて、この国を守りたいと思えた。君が安心して笑える場所を作るためなら、私はどんな茨の道でも歩ける」
彼の言葉は、あまりに熱く、そして切実だった。
演技? いいえ、これは本心だ。
彼は目の前の私を見ているようで、その奥にいる「運命の彼女」を見ている。
私と過ごした日々の中で育んだ「王としての自覚」も、すべては彼女のためだったのだと、痛いほど伝わってくる。
「愛している。……私を選んでくれて、ありがとう」
彼は私の手を取り、その甲に熱い口づけを落とした。
小箱の角が、私の指に当たって硬い感触を残す。
完璧だ。
非の打ち所がない、最高のアプローチ。
これを聞いて頷かない女性は、この世にいないだろう。
私は溢れそうになる涙を、まばたき一つで物理的に切断した。
そして、ゆっくりと彼の手から自分の手を引き抜いた。
パチ、パチ、パチ。
私は乾いた拍手を送った。
「……ブラボー。素晴らしいです、殿下」
私の声は、驚くほど冷静だった。
「満点です。そのお言葉を聞けば、アリア様はきっと、その場で倒れてしまわれるかもしれませんね」
冗談めかして笑うと、エリオット殿下は、まるで魔法が解けたように、呆然とした顔で私を見た。
「リディア、私は――」
「さあ、明日は早いですから。もうお休みください。本番で寝不足の顔は見せられませんよ?」
私は彼の言葉を遮り、逃げるように背を向けた。
これ以上、彼の「練習」を聞いていたら、私の心が砕けてしまう。
大広間の出口へ向かいながら、私は一度だけ振り返った。
シャンデリアの下、灰色の小箱を握りしめて立ち尽くす彼の姿が、小さく見えた。
大丈夫。
あの箱の中身は、私には見えなかったけれど、きっと眩い光を放っているはずだ。
私という影が濃ければ濃いほど、明日の光は強く輝く。
私は扉を押し開け、私のいない明日へと続く廊下へ踏み出した。
指先に残っていたインクの染みは、もう完全に見えなくなっていた。




