第24話 藍色のインクと、空白の招待状
メトロノームの針が止まってから数日。私の部屋には、カリカリというペンの音だけが響いていた。
机の上に積み上げられているのは、来月に迫った「建国記念舞踏会」の招待状と進行表の山だ。
これは単なるパーティーではない。
病床の国王陛下に代わり、エリオット殿下が事実上の次期国王として振る舞う、最初の公務。
そして――「真の婚約者」を世界に示す、運命の舞台だ。
私はペン先に**藍色のインク**をたっぷりと含ませ、招待状の宛名を書いた。
有力貴族、各国の外交官、教会関係者。
私の文字は、感情を排した活字のように整っている。
書き終えた一枚を横に退け、私は「進行表」の草案を手に取った。
『20:00 第二王子殿下、入場』
『パートナー: 』
私はその欄を、あえて空白のままにしておいた。
ペン先が空中で止まる。
本来なら、ここに「リディア・アルフェン」と書くのが今の私の仕事だ。
けれど、この舞踏会当日には、アリア様の教育は完了している。彼女は完璧な淑女として、殿下の隣に立つ準備ができているはずだ。
当日、この空白には「アリア・ミルストン」の名が刻まれる。
その瞬間のために、私はこの欄を空けておく義務がある。
「……まだ仕事をしているのか、リディア」
扉が開き、エリオット殿下が入ってきた。
彼は私の手元にある進行表を覗き込み、その「空白」を見つけて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「慎重だな。まだ名前を書かないのか?」
「……ええ。当日に何が起こるか、分かりませんから。確定事項のみを記載しております」
「何が起こるか、か。……そうだな。当日は、皆が驚くような発表をすることになるだろうから」
彼が楽しそうに目を輝かせる。
心臓が冷たく収縮する。
「驚くような発表」。
それはつまり、婚約者の交代劇だ。
「実は私には、運命の聖女がいたのです」という、ドラマチックな真実の愛の公表。
彼は私の肩に手を置き、インクで汚れた私の指先をそっと撫でた。
「この空白に、君の名前を書く時が待ち遠しいよ。……世界で一番、美しい名前だ」
なんて残酷な皮肉だろう。
彼は私が「アリア」という名前を書くことを期待しているのだ。
私がアリア様を完璧に育て上げ、自ら身を引いて、彼女の名前を推薦することを、「美しい献身」として称えているのだ。
「……光栄です、殿下。最高の名が刻まれるよう、最善を尽くします」
私は曖昧に微笑んで、指についた藍色の染みを隠すように拳を握った。
* * *
エリオット殿下が去った後、私は衣装係を呼びつけた。
「アリア様のドレスは、特注の『純白』で。金糸の刺繍をふんだんに使い、聖女の威光を表現してください」
「かしこまりました。……リディア様のドレスはいかがなさいますか?」
衣装係の問いに、私は少し考えてから答えた。
「私は、濃紺を。装飾は最小限に。壁の花として、夜の闇に溶け込むような色でお願いします」
「エリオット殿下の瞳の色」と称して着せられたあの華やかな紺碧ではない。
もっと暗く、沈んだ色。
主役を引き立てるための、影の色。
衣装係は不思議そうな顔をしたが、私の強い視線に押されて頷いた。
再び一人になり、私はペンを手に取る。
指先のインク汚れをハンカチで擦ってみるが、藍色は皮膚の溝に入り込んで落ちない。
まるで、罪人の入れ墨だ。
王族の歴史を勝手に書き換え、シナリオを歪めた罰。
あるいは、叶わない恋心を抱いてしまった愚か者の烙印。
私は進行表の「空白」を指でなぞった。
あと二週間。
このインクの匂いが消える頃、私はこの王宮から消える。
招待状のリストには、私の名前はない。
私は主催者側であって、客ではないのだから。
私は、まだ乾いていないインクの上に、吸い取り紙を押し当てた。
私の想いも、こうして綺麗に吸い取って捨ててしまえればいいのに。




