第23話 木製のメトロノームと、転写される微笑み
銀の茶漉しに残った出涸らしは、既に捨てられた。
今の私は、新しい茶葉を最高の一杯に仕上げるための「熱湯」にならなければならない。
離宮の一室、ダンスホールとしても使える広い部屋に、乾いた音が響いている。
カチ、カチ、カチ、カチ。
ピアノの上に置いた**木製のメトロノーム**が、無機質なリズムを刻み続けている。
「背筋を伸ばして。顎を引いて。視線は常に五メートル先へ」
「は、はいっ! ……あふっ」
頭の上に分厚い本を乗せたアリア様が、よろめきながら床に膝をついた。
本が落ち、鈍い音を立てる。
彼女は涙目になりながら、すぐに本を拾い上げて立ち上がった。
「ご、ごめんなさいリディアお義姉様! もう一度、もう一度お願いします!」
そのひたむきな姿に、私は教鞭を持つ手に力を込めた。
彼女は天才だ。
王宮のマナーなど何も知らないはずの辺境育ち。けれど、私が一度手本を見せれば、次の瞬間にはそれを模倣してみせる。
まだ動きはぎこちないが、その所作には天性の華がある。
どんなに泥臭い練習をしていても、彼女の周りだけキラキラとした光の粒子が舞っているようだ。
――これが、「主役」の輝き。
努力してメッキを塗り重ねた私とは違う、骨の髄からのダイヤモンド。
「謝る必要はありません。今のターン、足運びは完璧でした。あとは重心の移動だけです」
「本当ですか? えへへ、お義姉様に褒められた!」
彼女が花が咲くように笑う。
その笑顔の破壊力に、同性である私でさえドキリとする。
悔しいけれど、誰も勝てない。彼女は愛されるために生まれてきた存在だ。
「……アリア様。休憩にしましょう」
私はメトロノームの針を止め、カチリと音を消した。
静寂が戻る。
「あのね、お義姉様。私、もっと頑張ります。エリオット様のためにも、お義姉様のように立派になりたいんです」
アリア様がタオルで汗を拭きながら、憧れの眼差しで私を見つめてくる。
私のように。
その言葉が、胸の奥を鋭利な刃物でえぐる。
貴女が私になってはいけません。
貴女は私を超えて、私を過去にする存在になるのですから。
「……では、少し高度なテクニックをお教えしましょう」
私は扇を開き、口元を隠して彼女に近づいた。
「殿下は、正面から見つめられるよりも、少し斜め下からの視線に弱いのをご存知ですか?」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。顎を五度下げて、上目遣いで、でも媚びないように凛と微笑む。……こうです」
私は実践してみせた。
鏡の前で何千回も練習した、エリオット殿下が最も優しく反応してくれる「黄金の角度」。
アリア様は真剣な顔で私の顔を覗き込み、そして鏡に向かって同じ顔を作った。
「こ、こうですか?」
――完璧だ。
鏡の中に映る彼女は、可憐で、守ってあげたくなる儚さと、芯の強さを同時に表現していた。
私というフィルターを通すことで、彼女の魅力は何倍にも増幅されている。
パチパチパチ。
入り口の方から、拍手の音が聞こえた。
「素晴らしい。見違えたよ、アリア」
エリオット殿下だった。
公務の合間を縫って、視察に来たのだろう。
アリア様がパッと顔を輝かせ、教えたばかりの「角度」で彼を振り返る。
「エリオット様! 見てくださいましたか?」
「ああ。立ち居振る舞いが、随分と洗練された。……まるで、リディアが二人いるようだ」
彼は満足げに頷き、そして私に視線を移した。
「さすがだな、リディア。君の色に染まると、彼女の魅力が一層引き立つ」
「君の色に染まる」。
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の役割の正体を完全に理解した。
これは「データ移行」だ。
私が長年かけて築き上げた「第二王子妃としてのノウハウ」や「彼に愛されるための振る舞い」というソフトウェアを、アリア・ミルストンという最新かつ最高スペックのハードウェアにインストールしているのだ。
移行が完了すれば、古いハードウェア(私)は廃棄される。
当然だ。同じ機能を持つなら、より美しく、より「正統性(聖なる力)」を持つ方が選ばれるに決まっている。
「……お褒めにあずかり光栄です。アリア様は吸収が早くていらっしゃるので、私の持てるすべてを授けるのも、そう時間はかからないでしょう」
私は扇を閉じ、一歩下がって二人の姿を視界に収めた。
並んで立つ二人は、一枚の絵画のように美しい。
エリオット殿下は、アリア様の成長を喜んでいる。
それはつまり、私という「代用品」が不要になる日が近づいていることを喜んでいるのと同じだ。
「引き続き頼むよ、リディア先生」
彼の無邪気な信頼が、残酷な鞭のように私の背中を打つ。
私はメトロノームの蓋を閉じた。
この機械仕掛けのリズムが止まる時、私の教育係としての任も、そして婚約者としての任も終わる。
あと少し。
私の全てを書き写し終えるまで、どうか壊れずに動いてくれ、私の心。




