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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第22話 銀の茶漉しと、濾過される不純物

 泥のついたヒールは、夜のうちに侍女の手によって磨き上げられ、新品のように輝いていた。

 けれど、一度ついた汚れの記憶は、私の心から消えてくれない。


 翌朝。

 私は「薔薇の館」のサンルームで、完璧な淑女の仮面を被って座っていた。

 向かいにはエリオット殿下。そしてその隣には、朝日そのもののような少女、アリア様がいる。


「わぁ……! こんなに素敵な朝食、初めて見ました!」


 アリア様が目をキラキラさせて歓声を上げる。

 焼きたてのブリオッシュ、色鮮やかなフルーツ、湯気を立てるスープ。

 彼女の純粋な反応は、見ているこちらの心が洗われるようだ。

 辺境育ちという設定通り、彼女は王宮の贅沢さに慣れていない。それがまた、守ってあげたいという庇護欲を掻き立てる。


「遠慮はいらないよ、アリア。今日からここは君の家だ」

「はいっ! ありがとうございます、エリオット様!」


 二人の会話は弾んでいる。

 共通の話題――昨夜の逃避行の思い出や、辺境での暮らしの話――が、私には入り込めない透明な壁を作っていた。


 私はポットを手に取り、静かに自分の仕事を開始した。

 **銀の茶漉し**をカップの上にセットする。

 ポットを傾けると、琥珀色の液体が茶漉しの網を通り抜け、カップへと注がれていく。

 網の上には、濡れた茶葉が残る。


 ――私と同じだ。

 ふと、そんな感想が漏れそうになる。

 

 この茶漉しは、美味しい紅茶を淹れるためには不可欠だ。

 けれど、客人が口にするのはカップの中の澄んだ液体だけ。

 役割を終えた茶葉は、水気を切られてゴミ箱へ捨てられる。

 私が泥を被って整えたこの平穏な朝食会も、彼らが味わう幸福のエッセンスに過ぎない。


「リディア、どうかしたかい? 手が止まっているよ」


 エリオット殿下の声に、私はハッとして顔を上げた。

 彼が心配そうに私を見ている。その視線の端には、アリア様もまた、不安そうな顔で私を見ていた。


「申し訳ありません。香りが素晴らしくて、つい見惚れておりました」

「そうか。……リディア、改めて礼を言わせてくれ」


 彼はナプキンを置き、居住まいを正した。


「アリアが無事にここに来られたのは、君のおかげだ。君があの馬車に乗ってくれなければ、今頃どうなっていたか」

「当然のことをしたまでです。アリア様こそ、長旅でお疲れでしょうに」


 私が話を振ると、アリア様はぶんぶんと首を横に振った。


「いいえ! 私、リディア様にお会いできて、疲れなんて吹き飛びました! あの、私……ずっと憧れていたんです!」

「憧れ……ですか?」

「はい! 私を助けてくれるために、あんなに堂々と囮になってくださって……まるで物語の騎士様のようで、凄くかっこよかったです!」


 彼女の翠の瞳には、一点の曇りもない尊敬の色が宿っていた。

 皮肉だ。

 本来のヒロインから「かっこいい」と憧れられる悪役令嬢(代役)。

 彼女は知らないのだ。私が彼女の席を温めていただけの、ただの管理人であることを。


「アリアは素直な良い子だ」


 エリオット殿下が、目を細めてアリア様を見た。

 そして、私に向き直り、穏やかに告げた。


「リディア。彼女はまだ王宮の作法も、右も左も分からない。君が姉になったつもりで、色々と教えてあげてくれないか?」


 ――姉。

 その単語が、胸に冷たく突き刺さる。


 それはつまり、「教育係」への任命だ。

 「婚約者」という対等なパートナーから、「次期王妃を育てる家庭教師」へと、私の役割がスライドした瞬間だった。

 

 彼は無意識のうちに準備を始めている。

 アリア様が王妃として相応しい振る舞いを身につけるまで、私が手本を見せ、指導する。

 そして彼女が成長した時、私は「よくやった」と肩を叩かれ、舞台袖へ下がるのだ。


「……承知いたしました」


 私は茶漉しをソーサーの上に置き、完璧な微笑みを作った。

 網の上に残った出涸らしの茶葉が、黒く湿って惨めに見える。


「アリア様が立派な淑女となられるよう、私が持てるすべての知識をお授けいたします」

「わぁ、嬉しい! よろしくお願いします、お義姉ねえ様!」


 お義姉様。

 その呼び名が確定事項のように響く。

 エリオット殿下も満足げに頷いている。


 私はカップに口をつけるふりをして、込み上げる酸っぱい感情を飲み込んだ。

 ここにいてはいけない。

 この温かな家族の団欒だんらんのような空気に、異物である私が混ざり続けてはいけない。


「――失礼いたします」


 私はカップを置き、静かに立ち上がった。


「少し、急ぎの決済が残っておりまして。お二人はどうぞごゆっくり」

「えっ、もう行くのか? まだ食事の途中じゃないか」

「リディア様、行っちゃうんですか……?」


 引き止める二人。

 けれど、私は首を横に振った。


「公務は待ってくれませんから。……アリア様、後ほど私の部屋へいらしてください。王宮の歩き方をお教えしますわ」


 私は逃げるように背を向けた。

 背後から、「本当に働き者だな、リディアは」というエリオット殿下の声と、「すごいです……」というアリア様の声が聞こえる。


 働き者。

 ええ、そうです。

 私は貴方たちの物語を円滑に進めるための、有能な舞台装置ですから。


 廊下に出ると、私は銀の茶漉しを置いてきたテーブルの方を振り返った。

 不純物は取り除かれた。

 これからは、澄み渡るような美しいロマンスの時間だ。

 

 私は胸のポケットから、あの『引き継ぎノート』の感触を確かめ、執務室へと足を速めた。

 教育期間は、そう長くはないはずだ。

 彼女は天才肌のヒロインなのだから、きっとすぐに私など不要になる。

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