第21話 泥のついたヒールと、清らなる白百合
窓ガラスに映っていた自分の疲れた顔が、王宮の篝火に照らされて白く飛び、消えた。
深夜。馬車はようやく王宮の車寄せに到着した。
御者が扉を開けてくれる。
私は強張った体を叱咤し、ステップに足を下ろした。
カツ、と乾いた音が響くはずだったが、実際にはジャリっという不快な音がした。
視線を落とすと、私の**ヒール**には街道で跳ねた泥がべっとりと付着し、乾燥して固まっていた。
ああ、汚い。
煌びやかな王宮の入り口に、この汚れはあまりに似つかわしくない。
私はドレスの裾を少し持ち上げ、なるべく泥を見せないようにして顔を上げた。
「――リディア!」
名前を呼ばれると同時、疾風のような影が階段を駆け下りてきた。
エリオット殿下だ。
いつもの冷静沈着な彼はどこへやら、髪を乱し、上着のボタンも掛け違えたまま、私の方へ突進してくる。
「殿下、ただいま戻りまし――きゃっ!」
挨拶も終わらぬうちに、私は強い力で抱きすくめられた。
痛いほどにきつく、そして熱い抱擁。
彼の心臓の音が、私の胸に直接響いてくる。ドクンドクンと、恐ろしいほどの速さで。
「無事で……本当によかった……!」
耳元で震える声。
私は呆然と立ち尽くし、行き場のない手を彼の背中に回そうとして、止めた。
私の手袋は汚れている。彼の純白のシャツを汚してしまう。
「……ご心配をおかけしました。作戦は、成功したのですね?」
「そんなことはどうでもいい! 君が無事なら、他には何もいらない!」
彼は私の肩を掴んで体を離すと、私の顔、腕、足元へと視線を走らせ、怪我がないかを必死に確認し始めた。
その過保護さに、胸が締め付けられる。
どうでもいいはずがないでしょう。
貴方は「本物」を手に入れたのだから。
これはきっと、大事な囮役が無傷で戻ったことへの安堵だ。壊れていなければ、また使えるから。
「エリオット様……?」
その時、殿下の背後から、鈴を転がすような可憐な声がした。
エリオット殿下が振り返り、私もその視線の先を見る。
階段の上に、一人の少女が立っていた。
亜麻色の髪に、吸い込まれそうな翠の瞳。
質素な旅装なのに、彼女の周りだけ空気が浄化されているかのような清涼感がある。
手には一輪の**白百合**を持っていた。おそらく、庭園から摘んできたのだろうか。
――アリア・ミルストン。
原作ゲームのヒロイン。「奇跡の娘」。
一目見た瞬間、私は敗北を悟った。
可愛い。
理屈抜きに、守ってあげたくなる。計算高く扇で口元を隠す私とは、生物としての純度が違う。
「あ、ごめんなさい。お取り込み中でしたか?」
「いや、構わないよアリア。……紹介しよう。彼女がリディアだ。君を逃がすために、危険な囮役を買って出てくれた」
エリオット殿下は私の背中に手を添え、優しくアリアに紹介した。
アリアは目を大きく見開き、パタパタと階段を降りてきた。
「貴女がリディア様……! 私のために、そんな危険なことを……!」
彼女は私の手を取ろうとして、私が泥だらけであることに気づき、それでも躊躇なくその両手で私の汚れた手を包み込んだ。
「ありがとうございます! 私、怖くて……でも、エリオット様が『リディアがいるから大丈夫だ』って励ましてくださって……」
温かい。
そして、痛い。
彼女の無邪気な感謝と、エリオット殿下の名前を呼ぶ自然な響き。
既に信頼関係ができあがっている。
逃避行の数時間、二人は同じ馬車に揺られ、吊り橋効果も相まって急速に距離を縮めたに違いない。
「……お役に立てて光栄です、アリア様」
私は精一杯の作り笑いを浮かべ、そっと手を引き抜いた。
泥が、彼女の白い指先に少しだけ移ってしまった。
それが、私が彼女の世界に残した唯一の痕跡のように思えて、ひどく惨めだった。
「リディア、疲れただろう。すぐに湯を用意させる。食事も――」
「いいえ、殿下」
私は彼の気遣いを遮った。
これ以上、この輝く二人の間に立っていたくなかった。
私のヒールから落ちた泥が、磨かれた大理石の床を汚しているのが視界に入って、耐えられなかった。
「お気遣いなく。私は自室で休ませていただきます。……お二人には、積もる話もおありでしょうし」
「しかし……」
「報告なら明日で十分ですわ。アリア様も、慣れない王宮で不安でしょうから、殿下がついていて差し上げてください」
私は完璧な「配慮のできる婚約者」の顔で、二人に背を向けた。
エリオット殿下が何か言いたげに手を伸ばす気配がしたけれど、アリアが「エリオット様、私、お部屋がわからなくて……」と袖を引いたのが聞こえた。
それでいい。
それが正解だ。
私は振り返らず、廊下を歩き出した。
カツ、ジャリ。カツ、ジャリ。
足音が不協和音を奏でる。
王宮の煌びやかなシャンデリアの下、泥だらけの靴で歩く私は、まるで舞踏会の時間が終わったシンデレラの成れの果てだ。
ただ、一つ違うのは。
王子様はガラスの靴を持って追いかけてきたりはしないということ。
彼は今、本物のお姫様と一緒にいるのだから。
私は角を曲がり、二人の姿が見えなくなったところで、ようやく大きく息を吐いた。
靴を脱ぎ捨ててしまいたい衝動を抑え、私は裸足になることすら許されないまま、自分の部屋へと急いだ。




