第20話 厚い窓ガラスと、守り抜いた空白
蒼き座面の感触が、背中から伝わる振動と共に途絶えた。
馬車が止まった。
御者の短い悲鳴と、荒々しい怒号。そして、複数の馬が周囲を取り囲む蹄の音。
来た。
私は膝の上で固く握りしめていた拳を解き、扇を手に取った。
深呼吸を一つ。震えを止めるには、酸素が必要だ。
バンッ!
乱暴に扉が開け放たれ、夕闇の中に松明の明かりが揺らめいた。
「確保だ! その娘を降りろ!」
叫んだのは、予想通り第一王子ウィリアム殿下だった。
彼は勝利を確信した顔で馬車の中を覗き込み――そして、凍りついた。
「ごきげんよう、ウィリアム殿下。随分と熱烈なお出迎えですこと」
私は扇で口元を隠し、とびきり優雅に小首をかしげてみせた。
ウィリアム殿下の目が、驚愕で見開かれる。
「り、リディア……!? 貴様、なぜここにいる!」
「なぜ、とは異なことを仰いますわね。婚約者が用意してくださった馬車で、少しドライブを楽しんでいただけですもの」
「馬鹿な……! 聖女は!? あの娘はどうした!」
彼は狂ったように馬車の中を見回し、座席の下まで確認しようとする。
滑稽だ。
その焦りこそが、私の作戦勝ちの証明。
「残念ですが、ここには私しかおりません。お探しの『奇跡』は、もっと静かな場所がお好きなようですわ」
私が冷ややかに告げると、ウィリアム殿下は顔を赤黒く歪め、私の胸倉を掴もうと手を伸ばしかけた。
「騙したな……! 貴様、ただの囮か!」
「人聞きの悪い。私はただ、殿下の愛を一身に受けているだけです」
心臓が破裂しそうだ。
殺されるかもしれない。
けれど、私は一歩も引かず、**厚い窓ガラス**を背にして彼を見据えた。このガラスは防弾仕様だが、開け放たれた扉の前では無意味だ。
それでも、私の背筋を支える唯一の壁だった。
その時。
後方から早馬が駆け込んできた。
「殿下! ご報告します! 第二王子殿下の部隊が、裏街道を抜けて王宮に入りました! 保護対象の少女も一緒です!」
ウィリアム殿下の動きが止まった。
そして、力の抜けた手が下ろされる。
終わった。
エリオット殿下は、無事に彼女を連れて帰ったのだ。
私の勝ちだ。
いいえ、「私たちのシナリオ」の完全勝利だ。
「……おのれ、エリオット。またしても私を出し抜くか」
ウィリアム殿下はギリリと奥歯を噛み締め、私を睨みつけた。
「そして貴様もだ、リディア。覚えておけ。その献身が報われるとは思うなよ。本物が手に入れば、貴様など用済みだ」
捨て台詞を残し、彼は踵を返した。
私兵団が潮が引くように撤退していく。
私は彼らが完全に見えなくなるまで姿勢を崩さず、扇を構え続けた。
やがて周囲に静寂が戻り、御者が恐る恐る声をかけてくるまで、私は瞬きすら忘れていた。
* * *
再び馬車が動き出す。
私はようやく扇を置き、背もたれに深く体を沈めた。
力が、入らない。
指先が氷のように冷たい。
「本物が手に入れば、貴様など用済みだ」。
ウィリアム殿下の言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。
分かっている。
そんなことは、最初から分かっていた。
今頃、王宮ではエリオット殿下が、無事に保護した「奇跡の娘」の手を取り、安堵の微笑みを向けているはずだ。
三年前から用意していたあの温室で、月光花を見せているかもしれない。
ふと、横の窓ガラスを見る。
夜の闇が濃くなり、ガラスは鏡のように車内を映し出していた。
そこに映るのは、髪が乱れ、顔色の悪い、疲れ切った女の姿。
これが、現実の私。
華やかなスポットライトは、もう王宮にいる「彼女」に当たっている。
私はガラスに映る自分に向かって、自嘲気味に微笑んだ。
お疲れ様、リディア。
いい仕事だったわ。
これで、貴方の隣の席は、正しく空けることができた。
広い馬車の座席。
私の隣には誰もいない。
その空白が、これからの私の未来を暗示しているようで、私はそっと目を閉じた。
王宮までの道のりが、行きよりもずっと遠く感じられた。




