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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第2話 白い紙と、重すぎるインク

 手の甲に残る唇の熱が、一晩経っても消えてくれない。


 私は馬車の窓枠に軽く指を這わせ、流れ去る王都の景色をぼんやりと眺めた。

 昨夜のバルコニーでの出来事は、夢ではなかったらしい。今朝一番で王宮からの使いが来て、私はこうして第二王子エリオット殿下のもとへ向かっている。


 目的は、契約だ。

 口約束だけでは、政治的な効力は弱い。昨日の騒ぎを収束させ、第一王子派閥を牽制するには、書面による確定事項が必要なのだ。


 馬車が石畳を叩く規則的な音が、私の心拍と妙にズレて不快だった。

 私は膝の上で、扇の代わりにハンカチを握りしめた。柔らかい布の感触が、少しだけ不安を吸い取ってくれる。


     * * *


 案内されたのは、エリオット殿下の私的な執務室だった。


「――よく来てくれた、リディア」


 重厚な扉が開くと同時に、書類の山から顔を上げた彼が、花が咲くような笑顔を向けた。

 昨夜の凛とした表情とはまた違う、無防備なほどの柔和さ。

 心臓がきゅっと縮む。

 これも「味方」を安心させるための人心掌握術なのだろうか。だとしたら、彼は恐ろしいほど優秀な為政者だ。


「お忙しいところ、お時間をいただき恐縮です」

「君のためなら時間はいくらでも作るよ。さあ、かけて」


 勧められたソファに腰を下ろすと、体がふわりと沈み込んだ。

 驚いて背もたれを見ると、腰の位置に絶妙な厚みのクッションが置かれている。それに、部屋の温度も少し高めに設定されているようだ。冷え性の私にはありがたいけれど、偶然にしては出来すぎている。


「紅茶はダージリンのセカンドフラッシュだ。香りの強いものは苦手だっただろう?」


 差し出されたカップから、懐かしい湯気が立ち上る。

 私はカップを受け取る手が一瞬止まりそうになるのを、意志の力で抑え込んだ。


 ……知っている。

 私の好みも、体質も、すべて調査済みということだ。

 これから「共犯者」となる相手の情報を把握しておくのは基本中の基本。私が彼にとって有用な駒である限り、最高の環境で管理してくれるという意思表示に違いない。


 一口含むと、完璧な温度の液体が喉を潤した。

 美味しい。悔しいけれど、胃の腑が落ち着いていくのがわかる。


「……お気遣い、痛み入ります」

「気に入ってくれたならよかった。さて」


 エリオット殿下は自身のデスクから一枚の羊皮紙を取り出し、ローテーブルの上に広げた。

 空気の密度が変わる。


「これが婚約に関する誓約書だ。内容を確認してほしい」


 私はカップを置き、居住まいを正して紙面に向き合った。

 書かれている文字は流麗で、無駄がない。


 『エリオット・ルーヴェンとリディア・アルフェンは、双方の合意に基づき婚約関係を締結する』


 王族としての権利、義務、財産分与……項目は多岐にわたるが、どれも私にとって有利すぎる条件ばかりだ。実家への支援、王宮での地位保全、もしもの時の生活保障。

 「捨て駒」に対する扱いとしては破格すぎる。


 けれど、読み進めていた私の視線が、末尾に近い一文で釘付けになった。


 『第十二条:本契約は、リディア・アルフェン側の申し出により、いかなる理由においても即時解消が可能である』


 ――これだ。

 私は胸の内で、すとんと納得の石が落ちる音を聞いた。


 彼側からの破棄条件はなく、私側からの解消のみが明記されている。

 一見すると私に自由を与えているように見えるが、裏を返せばこういうことだ。

 「王家側から婚約破棄をするとまたスキャンダルになるから、役目が終わったら君の方から身を引いてね」。


 なんてスマートで、残酷な優しさだろう。

 私が「もう無理です」と言い出すのを待つ、あるいはそう仕向けることで、円満に契約を終わらせるための出口戦略。

 本命の女性が現れたとき、私が自分から消えてくれれば、彼は誰も傷つけずに済む。


「……問題ありません」


 顔を上げると、エリオット殿下が心配そうに私を覗き込んでいた。


「何か気になる点は? 加筆修正はいくらでも受け付けるが」

「いいえ、十分すぎます。特に第十二条……殿下の深い『ご配慮』、正しく理解いたしました」


 私がそう告げると、彼は一瞬きょとんとして、それから安堵したように目尻を下げた。


「そうか。君を縛りつけたくはなかったから、そこだけは譲れなかったんだ」


 縛りつけたくない。

 その言葉が、私の解釈が正解だと証明している。

 やはり、彼は私を愛して選んだわけではないのだ。一時的な避難所として、あるいは政治的なパートナーとして選んだだけ。


 私は差し出された万年筆を受け取った。

 ずしりと重い。

 黒曜石のような軸には、王家の紋章が刻まれている。この重さは、これから私が背負う「第二王子妃のふり」という役目の重さそのものだ。


 インク壺にペン先を浸し、余分なインクを瓶の縁で落とす。

 黒い雫が一滴、インクの中へ戻っていく。私もいつか、こうして静かに元の場所へ戻るのだ。


 さらさらと、羊皮紙に自分の名前を刻む。

 書き終えた瞬間、エリオット殿下が私の手から万年筆を抜き取るようにして回収し、自分の名前を横に並べた。

 その筆致は力強く、私の名前よりもひと回り大きく書かれた。まるで、私の名前を囲い込むように。


「これで、成立だ」


 彼は署名を見つめ、熱っぽい溜息を漏らした。

 その横顔があまりに嬉しそうに見えて、私はまた少し誤解しそうになる。

 ああ、本当に演技が上手な方。


「はい。成立いたしました」


 私は事務的な微笑みを浮かべ、心の中で小さく付け加える。

 ――この契約が終了するその日まで、私は貴方の最高の「代役」を務め上げます、と。


「これから忙しくなる。来週には王家主催の夜会があるんだ。そこで君を正式に紹介したい」

「承知いたしました。準備は抜かりなく進めます」


 私は立ち上がり、深々とカーテシーをした。

 顔を伏せた視界の端で、彼が手を伸ばしかけて、止めるのが見えた。


 触れないのは、賢明です。

 情が移れば、別れる時に面倒になりますから。


 私は彼の理性を称賛しながら、顔を上げた。

 その瞳に映る私が、ただの便利な道具として機能していることを祈って。

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