第17話 羊皮紙の地図と、最短距離の恋路
サロンに充満していた薔薇の香水の匂いが、まだドレスの繊維に染み付いているようで息苦しい。
私は王宮の長い廊下を、令嬢らしからぬ速さで駆け抜けた。
すれ違う衛兵たちがギョッとして敬礼するのも構わず、エリオット殿下の執務室の扉に手をかける。
ノックをする時間すら惜しい。
「――殿下! 緊急のご報告があります!」
勢いよく扉を開け放つと、執務机で書類を見ていた彼が、弾かれたように顔を上げた。
「リディア? どうした、そんなに慌てて」
「敵の動きが……予想以上に早いです。猶予はありません」
私は乱れた呼吸を整える間もなく、部屋の隅にあるサイドテーブルから、筒状に丸められた**羊皮紙の地図**を引っ掴んだ。
それをエリオット殿下の目の前のデスクに広げる。
四隅を文鎮で押さえる手が、焦りで微かに震えた。
「『奇跡の娘』が、既に王都近郊まで迫っています。第一王子派が彼女を囲い込もうと、接触を図っているとの情報が入りました」
私は地図上の西の街道を指でなぞり、王都へと続くルートを叩いた。
「もし彼女がウィリアム殿下の手に落ちれば、殿下の立場は危うくなります。『正統なる後継者』の証となる聖女を奪われるわけにはいきません」
私の口調は、自分でも驚くほど鋭く、必死だった。
当然だ。
原作において、彼女はエリオット殿下と結ばれ、国を救うキーパーソンだ。彼女がいなければ、ハッピーエンドは成立しない。
私がどんなに頑張って代役を務めても、物語の核心である「聖なる力」だけはどうにもならないのだから。
「すぐに近衛騎士団を動かしてください。名目は『重要参考人の保護』。ウィリアム殿下が接触する前に、私たちが彼女を確保します」
まくし立てる私を、エリオット殿下は静かに見つめていた。
その瞳があまりに穏やかで、私は逆に不安になる。
「……殿下? 聞いていらっしゃいますか? これは国家の命運に関わる事態です」
「ああ、聞いているよ。君の情報収集能力には驚かされる」
彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、机を挟んで私の向かいに立った。
そして、地図の上を這っていた私の右手の上に、自分の手を重ねた。
「落ち着いて、リディア。君の手がこんなに冷たい」
「冷えている場合ではありません! 彼女を奪われたら、貴方の未来が――」
「私の未来は、ここにある」
強い言葉だった。
彼の手が、私の手を地図に押し付けるようにして力を込める。
逃がさない、という意思表示。
「その『奇跡の娘』がどれほど重要かは理解した。だが、君がそこまで青ざめて、必死になるほどのことか? ただの政治的なカードの一枚だろう」
カードの一枚。
貴方は何も知らない。彼女こそが、この世界で唯一の「エース」なのだと。
そして私は、そのカードが場に出されるまでの「捨て札」に過ぎないのだと。
喉の奥が熱くなる。
言えない。
「貴方が本当に愛することになる女性だから、必死なんです」なんて。
「……大切、なのです」
私は視線を地図の等高線に落とし、声を絞り出した。
「彼女を手に入れることが、殿下にとっての『最短距離』の正解ですから。そのためなら、私はどんな泥でも被ります」
嘘ではない。
彼が王位に就くためにも、幸せになるためにも、彼女は必要不可欠だ。
私のこの焦燥は、忠誠心という名のパッケージで包んでしまえばいい。
沈黙が降りる。
エリオット殿下は、重ねた手を通じて私の震えを感じ取ったのだろう。
彼は深く息を吐き、それから優しく微笑んだ。
「分かった。君がそこまで言うなら、動こう」
「本当ですか!」
「ああ。君の危機感は正しいのだろう。君の献身には、いつも救われる」
彼は地図から手を離し、すぐに騎士団長を呼ぶためのベルを鳴らした。
「献身」。
その言葉が、胸に重く沈殿する。
ええ、そうです。これは献身です。
愛する人が、別の女性と結ばれるためのお膳立てを、全力でするという滑稽な献身。
私は地図を覗き込む。
西の街道から王都まで、馬車で半日の距離。
地図の上では、私の指一本分の長さしかない。
あと数センチ。
あと数日で、彼女がここに来る。
そうすれば、この地図は「私と彼が作戦を練った思い出の品」ではなく、「彼と彼女が未来を描くためのキャンバス」に変わる。
私は地図の端をぎゅっと握りしめ、自分に言い聞かせた。
成功させなければ。
最高のタイミングで、最高のヒロインを彼に引き合わせる。
それが、この物語の「脇役」である私の、最後にして最大の見せ場なのだから。




