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悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


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第16話 漆塗りの扇と、毒を含んだ招待状

 ポケットの奥底に沈んだ真鍮の鍵が、歩くたびに太腿に当たり、冷たい存在感を主張していた。


 この重みは、私に「逃げ道」ではなく「責任」を突きつけてくる。

 私は執務机の上に置かれた、毒々しいほど華美な封筒を睨みつけた。

 部屋中に広がる濃厚な薔薇の香水。第一王子派の筆頭、ランバート公爵夫人からの招待状だ。


「……欠席でいい。返信は私が書く」


 エリオット殿下が、忌々しげに封筒を指先で弾いた。


「ただの嫌がらせだ。君が行けば、格好の餌食にされるだけだぞ」

「だからこそ、参ります」


 私は即答し、**漆塗りの扇**を手に取った。

 黒地に金粉を散らしたこの扇は、優雅な装飾品に見えて、その骨組みは堅牢な竹で作られている。いざとなれば護身具にもなる強度だ。


「敵が何を企んでいるのか、懐に入らなければ見えません。それに、私が逃げれば『第二王子の婚約者は臆病風に吹かれた』と殿下の評判に傷がつきます」

「私の評判などどうでもいい。君が傷つくのを見たくないんだ」


 エリオット殿下の声は切実だった。

 彼は本気で心配してくれている。

 その甘さに、胸が締め付けられる。

 貴方は優しすぎるのです。だから、泥を被って敵の毒を味見するのは、私の役目。


「ご心配には及びません。社交界の猛獣使いとして、少し鞭を振るってくるだけですわ」


 私は扇を開き、口元を隠して不敵に微笑んでみせた。

 彼を安心させるための、精一杯の強がりを乗せて。


     * * *


 公爵邸のサロンは、予想通りのアウェーだった。


 一歩足を踏み入れた瞬間、談笑していた十数人の貴婦人たちが一斉に口をつぐみ、冷ややかな視線を突き刺してくる。

 空気の密度が違う。

 ここにあるのは優雅なお茶会の空気ではなく、処刑台へ向かう罪人を見守る観衆の嗜虐心だ。


「あら、リディア様。よくいらっしゃいましたわね」


 主催のランバート公爵夫人が、値踏みするように私の上から下までを舐め回した。


「第二王子殿下にお乗り換えになって、随分と……質素な装いがお似合いになること」


 クスクスと、嘲笑のさざ波が広がる。

 今日の私のドレスは、エリオット殿下が選んだ紺碧ではなく、あえて控えめなグレーを選んでいた。目立たず、情報を抜くことに専念するためだ。


 私は扇を胸元でパチンと鳴らした。

 乾いた音が、嘲笑を物理的に断ち切る。


「ええ。ダイヤモンドは原石のままでも輝きますが、ガラス玉は飾り立てないと光りませんものね。……皆様の華やかな装い、大変勉強になりますわ」


 にっこりと笑い返すと、夫人のこめかみがピクリと跳ねた。

 誰がガラス玉か、とは言っていない。だが、ここにいる全員が自分事として受け取ったようだ。

 場の空気が凍りつく。


「……相変わらず、お口が達者ですこと」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 私は案内された末席に座り、運ばれてきた紅茶に口をつけずに扇を膝に置いた。

 ここからが本番だ。

 彼女たちは私をいじめるために呼んだのではない。優越感に浸りながら、うっかり重要な情報を漏らすのを聞き逃さないための我慢比べだ。


 時間が経つにつれ、夫人たちの会話は熱を帯びていった。

 そして、ついに私が待ち望んでいた――いや、最も聞きたくなかった単語が飛び出した。


「そういえば、例の『奇跡の娘』、もうすぐ王都に入られるとか」

「ええ、ウィリアム殿下が直々に保護を申し出たそうですわ」

「素晴らしいことですわね。本物の聖なる力を持つ方が、正統なる第一王子殿下の派閥に加わるなんて」


 ――心臓が、早鐘を打った。

 扇を持つ指に力が入りすぎて、漆がミシリと音を立てる。


 「奇跡の娘」。原作ヒロインのことだ。

 彼女がもう王都の目前まで来ている?

 しかも、あろうことか第一王子派が彼女を囲い込もうとしている?


 まずい。

 最悪の展開だ。

 本来のシナリオでは、彼女は中立の立場で学園に入学し、そこでエリオット殿下と運命の出会いを果たすはずだった。

 だが、私が歴史を変えたせいで、第一王子側が彼女の利用価値に先に気づいてしまったのだ。


 もし彼女が敵の手に落ちれば、エリオット殿下は「運命の相手」を奪われるだけでなく、政治的にも「聖女の支持を得た第一王子」に敗北することになる。


 私のせいだ。

 私が中途半端に有能な「偽物」として居座ったから、物語が歪んでしまった。


「……あら、リディア様? お顔色が優れませんわよ」


 公爵夫人が、獲物を追い詰めた猛獣の目で私を見ていた。


「やはり、偽物の王太子妃気取りでは、荷が重かったのかしら?」


 私は深呼吸をし、震えそうになる手を扇で隠して立ち上がった。

 これ以上の長居は無用だ。情報は得た。毒も十分に浴びた。


「ご心配なく。少し、部屋の香水の香りが強すぎたようですので」


 私は優雅にカーテシーをして、逃げるようにサロンを後にした。

 背中で爆笑が起きるのを、扉一枚で遮断する。


 廊下に出た途端、膝から力が抜けた。

 壁に手をつき、荒い呼吸を整える。


 急がなければ。

 エリオット殿下に報告し、対策を練らなければならない。

 「聖女」を第一王子派から奪還するために。

 

 それはつまり、私が私の手で、私の代わりになる女性を彼の元へ連れてくる作戦を立てるということだ。


 ポケットの中、真鍮の鍵が冷たく私を急き立てる。

 「お前の役目は終わる。さあ、最後の仕事をしろ」と。


 私は漆塗りの扇をカバンに押し込み、走り出した。

 もう、言葉で身を守っている場合ではない。行動しなければ、彼の未来が閉ざされてしまう。

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