表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢は脇役に徹するつもりでした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/36

第15話 真鍮の合鍵と、綴じられた引継書

 銀の懐中時計が午前二時を告げる音が、静まり返った部屋に小さく響いた。


 私はあくびを噛み殺し、インクを吸わせたペン先を走らせる。

 手元にあるのは、厚手の大学ノート。表紙には何も書いていないが、私の頭の中では『次期王太子妃のための業務引継書』と名付けている。


 『項目三:エリオット殿下の嗜好について』

 『・紅茶には砂糖をスプーン一杯。ミルクは入れない』

 『・朝は低血圧のため、起こしてから五分間は話しかけないこと』

 『・第一王子派の嫌味には笑顔でスルーするが、身内への侮辱には過剰反応するため、早めの鎮火が必要』


 書き連ねながら、胸の奥がちくりと痛んだ。

 彼の些細な癖、好きな色、苦手な野菜。

 この数週間で、私は驚くほど多くの「エリオット・ルーヴェン」を知ってしまった。

 けれど、この知識は私のものではない。

 間もなく現れる聖女――本物のヒロインが、彼との生活を円滑に進めるための攻略データだ。


 私が去った後、彼が不便を感じないように。

 新しい彼女が「殿下の好みが分からない」と困らないように。

 これは、去りゆく私が最後にできる、最高品質のサービスだ。


 不意に、部屋のドアが控えめにノックされた。


「……リディア? まだ起きているのか?」


 慌ててノートを伏せ、インク壺の横にあった書類の下に隠す。

 扉が開くと、寝間着の上にガウンを羽織ったエリオット殿下が立っていた。手には湯気の立つマグカップが二つ。


「明かりが漏れていたから。……根を詰めすぎだと言っただろう?」

「申し訳ありません。少し、考え事をしておりまして」

「嘘だ。君のことだから、また私のために何か企んでいるんだろう?」


 彼は苦笑しながら部屋に入り、向かいの席に腰を下ろした。

 マグカップからは、甘いホットミルクの香りが漂う。蜂蜜入りだ。私の好みを、彼もまた把握し始めている。


 彼はテーブルの上の書類の山――その下に隠されたノートの端――に視線を落とし、愛おしそうに目を細めた。


「君はいつも、先のことばかり考えているな」

「……ええ。準備は早いに越したことはありませんから」

「そうだな。私たちの未来は、まだ始まったばかりだ。長く続く道のりを歩くには、君のような慎重なナビゲーターが必要だ」


 「私たちの未来」。

 その言葉が、隠したノートの存在を重くさせる。

 違います、殿下。私が書いているのは、貴方が私なしで歩くための地図です。


 エリオット殿下は、ふと思い出したようにガウンのポケットを探り、ジャラリと音を立てて何かを取り出した。


「そうだ。これを君に渡しておきたかった」


 差し出されたのは、一本の古びた**真鍮しんちゅうの鍵**だった。

 複雑な刻印が施され、鈍い光を放っている。見るからに重要な鍵だ。


「これは……?」

「私の私室、書庫、そして王宮の裏門に通じるマスターキーだ。これがあれば、君はいつでも私の元に来られるし、誰にも邪魔されずに王宮を出入りできる」


 私は息を呑んだ。

 それは、究極の信頼の証だ。

 プライベートな空間への無制限のアクセス権。王族の寝室にすら入れる鍵を、婚約期間中の令嬢に渡すなんて、常識ではあり得ない。


「殿下、それは……あまりに重すぎます。万が一、私がこれを悪用したら――」

「君はしない。私が保証する」


 彼は迷いのない瞳で断言し、私の掌に鍵を握らせた。

 ずしりと重い。

 金属の冷たさが、心臓まで伝わってくるようだ。


「持っていてくれ。君と私が、何も隔てるものがない関係だという証明にしたいんだ」


 隔てるものがない。

 いいえ、殿下。私たちの間には「原作シナリオ」という巨大な壁があります。

 そしてこの鍵は、私にとって「いつでも会える切符」ではなく、「いつでも出て行ける退路」としてしか機能しません。


 けれど、拒否することはできなかった。

 今の私は「愛される婚約者」を演じているのだから。


「……謹んで、お預かりいたします」


 私は鍵を両手で包み込み、恭しく頭を下げた。


「貴方の信頼を、決して裏切らないように」


 エリオット殿下は満足げに微笑み、ホットミルクを口にした。

 私は盗み見るように、書類の下のノートを確認する。


 『項目:王宮の鍵の管理について』

 『・マスターキーは一点物。紛失時は直ちに王宮警備隊へ連絡すること』


 この項目を書き加えなければ。

 そして、私がこの離宮を去る日、この引継書の上に、この真鍮の鍵を乗せて置いていこう。

 「本物の彼女」が、この鍵を使って貴方の寝室へ向かえるように。


 ホットミルクの甘さが、なぜかひどく苦く感じられた。

 私は真鍮の鍵をポケットの奥深くにしまい込んだ。

 まるで、盗んだ宝物を隠す泥棒のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ