第15話 真鍮の合鍵と、綴じられた引継書
銀の懐中時計が午前二時を告げる音が、静まり返った部屋に小さく響いた。
私はあくびを噛み殺し、インクを吸わせたペン先を走らせる。
手元にあるのは、厚手の大学ノート。表紙には何も書いていないが、私の頭の中では『次期王太子妃のための業務引継書』と名付けている。
『項目三:エリオット殿下の嗜好について』
『・紅茶には砂糖をスプーン一杯。ミルクは入れない』
『・朝は低血圧のため、起こしてから五分間は話しかけないこと』
『・第一王子派の嫌味には笑顔でスルーするが、身内への侮辱には過剰反応するため、早めの鎮火が必要』
書き連ねながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼の些細な癖、好きな色、苦手な野菜。
この数週間で、私は驚くほど多くの「エリオット・ルーヴェン」を知ってしまった。
けれど、この知識は私のものではない。
間もなく現れる聖女――本物のヒロインが、彼との生活を円滑に進めるための攻略データだ。
私が去った後、彼が不便を感じないように。
新しい彼女が「殿下の好みが分からない」と困らないように。
これは、去りゆく私が最後にできる、最高品質のサービスだ。
不意に、部屋のドアが控えめにノックされた。
「……リディア? まだ起きているのか?」
慌ててノートを伏せ、インク壺の横にあった書類の下に隠す。
扉が開くと、寝間着の上にガウンを羽織ったエリオット殿下が立っていた。手には湯気の立つマグカップが二つ。
「明かりが漏れていたから。……根を詰めすぎだと言っただろう?」
「申し訳ありません。少し、考え事をしておりまして」
「嘘だ。君のことだから、また私のために何か企んでいるんだろう?」
彼は苦笑しながら部屋に入り、向かいの席に腰を下ろした。
マグカップからは、甘いホットミルクの香りが漂う。蜂蜜入りだ。私の好みを、彼もまた把握し始めている。
彼はテーブルの上の書類の山――その下に隠されたノートの端――に視線を落とし、愛おしそうに目を細めた。
「君はいつも、先のことばかり考えているな」
「……ええ。準備は早いに越したことはありませんから」
「そうだな。私たちの未来は、まだ始まったばかりだ。長く続く道のりを歩くには、君のような慎重なナビゲーターが必要だ」
「私たちの未来」。
その言葉が、隠したノートの存在を重くさせる。
違います、殿下。私が書いているのは、貴方が私なしで歩くための地図です。
エリオット殿下は、ふと思い出したようにガウンのポケットを探り、ジャラリと音を立てて何かを取り出した。
「そうだ。これを君に渡しておきたかった」
差し出されたのは、一本の古びた**真鍮の鍵**だった。
複雑な刻印が施され、鈍い光を放っている。見るからに重要な鍵だ。
「これは……?」
「私の私室、書庫、そして王宮の裏門に通じるマスターキーだ。これがあれば、君はいつでも私の元に来られるし、誰にも邪魔されずに王宮を出入りできる」
私は息を呑んだ。
それは、究極の信頼の証だ。
プライベートな空間への無制限のアクセス権。王族の寝室にすら入れる鍵を、婚約期間中の令嬢に渡すなんて、常識ではあり得ない。
「殿下、それは……あまりに重すぎます。万が一、私がこれを悪用したら――」
「君はしない。私が保証する」
彼は迷いのない瞳で断言し、私の掌に鍵を握らせた。
ずしりと重い。
金属の冷たさが、心臓まで伝わってくるようだ。
「持っていてくれ。君と私が、何も隔てるものがない関係だという証明にしたいんだ」
隔てるものがない。
いいえ、殿下。私たちの間には「原作シナリオ」という巨大な壁があります。
そしてこの鍵は、私にとって「いつでも会える切符」ではなく、「いつでも出て行ける退路」としてしか機能しません。
けれど、拒否することはできなかった。
今の私は「愛される婚約者」を演じているのだから。
「……謹んで、お預かりいたします」
私は鍵を両手で包み込み、恭しく頭を下げた。
「貴方の信頼を、決して裏切らないように」
エリオット殿下は満足げに微笑み、ホットミルクを口にした。
私は盗み見るように、書類の下のノートを確認する。
『項目:王宮の鍵の管理について』
『・マスターキーは一点物。紛失時は直ちに王宮警備隊へ連絡すること』
この項目を書き加えなければ。
そして、私がこの離宮を去る日、この引継書の上に、この真鍮の鍵を乗せて置いていこう。
「本物の彼女」が、この鍵を使って貴方の寝室へ向かえるように。
ホットミルクの甘さが、なぜかひどく苦く感じられた。
私は真鍮の鍵をポケットの奥深くにしまい込んだ。
まるで、盗んだ宝物を隠す泥棒のように。




