第14話 銀の懐中時計と、迫り来るシナリオ
床に散らばっていた赤い封蝋の破片は、跡形もなく掃除されていた。
けれど、私の心の中に生まれた警戒心だけは、掃き出すことができない。
王宮の廊下を早足で歩きながら、私は胸ポケットの**銀の懐中時計**を取り出した。
チク、タク、チク、タク。
無機質な音が、私の鼓動と重なる。
次の会議まであと五分。時間は常に足りない。
「……ねえ、聞いた? 西の辺境で奇跡が起きたって」
「ええ。枯れた大地に花を咲かせる少女が見つかったとか……」
すれ違った侍女たちの囁き声に、私の足が凍りついたように止まった。
――来た。
冷たい汗が背筋を伝う。
「枯れた大地に花を咲かせる」。それは間違いなく、乙女ゲームの原作ヒロインが持つ「聖なる光」の力だ。
懐中時計を握りしめる手に力がこもる。
私の計算では、彼女の登場はまだ半年先のはずだった。
なぜ? 私がシナリオを歪めたせい? それとも、世界が強制的に「正しい物語」へ戻ろうとしているの?
どちらにせよ、結論は一つだ。
私の「有効期限」が、予想以上に早く切れるということ。
「――おい。何を立ち止まっている」
不意に投げかけられた不機嫌な声。
顔を上げると、曲がり角の向こうから第一王子ウィリアム殿下が歩いてくるところだった。
取り巻きはおらず、一人だ。私の顔を見ると、彼は口元を三日月のように歪めた。
「エリオットの金魚のフンか。相変わらず忙しそうに走り回っているな」
「……ウィリアム殿下。ご機嫌麗しゅう存じます」
私は時計をポケットにしまい、深く頭を下げた。
無視して通り過ぎようとしたが、彼がわざと進路を塞ぐように一歩踏み出した。
「聞いたぞ。監査局の小役人を言いくるめたそうだな」
「事実を申し上げたまでです」
「ふん。小賢しい女だ。だがな、リディア」
彼は私との距離を詰め、低い声で威圧的に囁いた。
「どれだけ取り繕っても、貴様は所詮『代用品』だ。血統も、能力も、そして運命も、エリオットの隣に相応しい器ではない」
心臓を素手で掴まれたような衝撃が走った。
悔しいからではない。
彼の言葉が、私の抱いている不安そのものだったからだ。
「……じきに現れるさ。本物がな。そうなれば、貴様のメッキなど一瞬で剥がれ落ちる」
ウィリアム殿下は、さっきの侍女たちの噂を知っているのだ。
そして、それが私を追い落とす切り札になると確信している。
私は唇を噛み、震えそうになる声を喉の奥で殺した。
反論なんてできない。だって、その通りなのだから。
私は代用品。本物が来れば用済みになる、ただのつなぎ。
けれど、ここで彼に屈服するわけにはいかない。
私が崩れれば、エリオット殿下まで舐められる。
「……ご忠告、痛み入ります」
私は顔を上げ、精一杯の虚勢を張って微笑んだ。
「ですが、メッキも重ねれば鎧になりますわ。剥がれ落ちるその瞬間まで、私は殿下の盾であり続けます」
「……チッ。可愛げのない」
ウィリアム殿下は舌打ちをして、私の肩にわざとぶつかるようにして通り過ぎていった。
* * *
彼が去った後の廊下で、私は壁に手をついて息を吐いた。
膝が笑っている。
怖かった。
でも、一番怖いのは彼ではない。
刻一刻と近づいてくる「終わりの時」だ。
再び懐中時計を取り出す。
銀の蓋を開けると、秒針が容赦なく時を刻んでいた。
チク、タク。
それはまるで、私の処刑までのカウントダウンのように聞こえた。
「リディア! こんなところにいたのか」
廊下の向こうから、エリオット殿下が駆け寄ってきた。
私の姿を見つけるなり、その表情がパッと明るくなる。
彼は私の手を取り、温かい体温で包み込んだ。
「顔色が悪いぞ。兄上に何か言われたのか?」
「……いいえ。いつものご挨拶です」
「そうか。ならいいんだが……」
彼は疑わしそうに私を見つめ、それから私のポケットの時計に視線を落とした。
「急がせてすまない。でも、君と少しでも長く一緒にいたくて、迎えに来てしまった」
無邪気な笑顔。
胸が張り裂けそうになる。
貴方は知らないのです。私がこうしている間にも、運命の少女が貴方の元へ向かっていることを。
貴方が本当に愛すべき人は、私ではないということを。
「……行きましょう、殿下。時間は、待ってくれませんから」
私は時計の蓋をパチリと閉じた。
その音は、冷たく、硬く響いた。
泣いている暇はない。
本物のヒロインが現れた時、エリオット殿下がスムーズに乗り換えられるよう、今のうちに地盤を固めておかなければ。
政務の引き継ぎ資料、派閥関係の整理、そして――婚約解消の手続き書。
私は彼の手を握り返す。
その温かさを記憶に焼き付けながら、私は残酷な未来への準備を始める決意をした。




