第13話 砕かれた封蝋と、血の通わぬ数字
月光花の甘すぎる残香は、朝の冷たい空気と共に霧散していた。
朝食を終え、執務机に向かっていた私の耳に、玄関ホールの方から荒々しい足音が響いてきた。
ついに来たか。
私はペンを置き、インクの乾いていない書類に吸い取り紙を押し当てた。
紙がインクを吸う一瞬の間、私は「愛される婚約者」の仮面を外し、「有能な事務官」の顔を装着する。
扉がノックもなしに開け放たれた。
「失礼する! 王宮会計監査局のグラハム子爵である!」
入ってきたのは、神経質そうな痩せぎすの男だった。後ろに二人の書記官を従えている。
彼らが第一王子派の息がかかった人間であることは、事前の調査済みだ。
「……突然のご訪問、驚きましたわ。アポイントメントはいただいておりませんが」
「横領の疑いがある者に、予告など不要!」
子爵は持っていた杖を床に突き、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「リディア嬢。貴様がこの離宮に入ってから、内装費、被服費、食費……莫大な国費が動いている。エリオット殿下をたぶらかし、贅沢三昧とはいい度胸だ」
彼は懐から一通の告発状を取り出し、テーブルに叩きつけた。
**真紅の封蝋**が、衝撃でパキリと音を立てて砕け散る。
赤い破片が絨毯に散らばる様は、まるで飛び散った血痕のようだった。
私は砕けた封蝋を一瞥し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「贅沢、ですか」
「そうだ! 先日の孤児院訪問で新調したドレス、あれ一着で平民が何年暮らせると思っている!」
「……なるほど。ご指摘、感謝いたします」
私は引き出しを開け、一冊の黒い革表紙の帳簿を取り出した。
ずしりと重い。
この数週間、私が夜なべして記録し続けた「防衛兵器」だ。
私は帳簿を開き、子爵の目の前に滑らせた。
「こちらが、離宮に関する全支出の明細と、その『費用対効果』の算出表です」
「な、なんだこれは……」
「ご指摘のドレス代は、金貨二十枚。しかし、あの視察によって殿下の支持率は前月比で十五パーセント上昇しました。新聞広告を打つ場合の費用換算は金貨三百枚相当。つまり、あのドレスは極めて高効率な『広報費』です」
私はページをめくる。紙擦れの音が、静まり返った部屋に鋭く響く。
「内装費に関しても同様です。殿下が執務に集中できる環境を整えたことで、書類決済のスピードは二倍になりました。これによる行政コストの削減効果は、改修費を既に上回っております」
「そ、そんな馬鹿な……こ、こじつけだ!」
「数字は嘘をつきません、子爵。それとも、貴方の計算能力では理解できませんか?」
私が冷ややかに見下ろすと、子爵は口をパクパクとさせ、顔を朱に染めた。
論理という暴力。
感情論で攻めてくる相手には、無機質な数字が最も効く。
子爵が反論を探して視線を泳がせた時、開け放たれた扉から拍手が聞こえた。
「素晴らしい。私の会計士よりも優秀だ」
エリオット殿下だった。
彼は悠然と部屋に入ってくると、私の隣に立ち、子爵を見据えた。
「グラハム子爵。この監査請求、私が承認した理由がわかるか?」
「えっ……で、殿下が承認を?」
「ああ。私の婚約者が、いかに清廉潔白で、かつ有能であるか。それを君たちの口から兄上に報告してもらうためだ」
エリオット殿下は、テーブルの上の帳簿を指先で叩いた。
「彼女は私利私欲で金を使わない。すべては王家のため、私のために使っている。その証拠がここにある。……これ以上、彼女を侮辱するなら、次は監査局の不正を洗わせてもらうが?」
脅しではない。事実通告だ。
子爵は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、散らばった封蝋の欠片もそのままに、逃げるように部屋を飛び出していった。
* * *
嵐が去り、部屋には静寂が戻る。
「……悪かったね、リディア。不快な思いをさせた」
エリオット殿下が、私を気遣うように顔を覗き込む。
私は首を振った。
「いいえ。殿下が監査を通したのは正解です。隠せば余計に怪しまれますから」
私は床に散らばった赤い封蝋の破片を、靴の爪先で集めた。
これでいい。
金銭のスキャンダル、不正の疑惑。これから王位継承争いはもっと泥沼化していく。
そのすべてを、私が数字と論理でねじ伏せる。
エリオット殿下の手は汚させない。
彼は「清廉な次期国王」として輝いていればいい。
汚れ仕事や、細かすぎる金勘定は、「計算高い悪女」である私の役目だ。
私は帳簿を閉じ、カチリと留め金をかけた。
いつか「本物のヒロイン」が来た時、彼女がこんな無粋な帳簿を見なくて済むように。
私が今のうちに、王家の財布の紐も、敵の口も、固く縛り上げておきましょう。




