第12話 硝子のランタンと、夜にだけ咲く花
泥に汚れたドレスを脱ぎ捨て、湯で体を清めても、昼間の熱狂は肌に残ったままだった。
視察は大成功だった。
私の「聖女」としての評判は、明日には王都中を駆け巡るだろう。
重責を果たした安堵感と、完璧に騙しおおせたという背徳感。
疲れ切ってソファに沈み込んでいた私を、エリオット殿下が再び連れ出したのは、月が高く昇ってからのことだった。
「どうしても、今夜君に見せたいものがあるんだ」
彼の言葉に従い、私はショールを羽織って夜の庭へ出た。
エリオット殿下の手には、アンティーク調の**硝子のランタン**が揺れている。
中の蝋燭が心許なく揺らめき、私たちの足元だけを小さな円で照らし出していた。
暗闇の中、どこへ向かうのか。
私は彼の上着の裾を掴み、遅れないように歩調を合わせた。
ランタンの光が、彼の横顔を下から照らし出す。その表情は、少年のようにわくわくしているように見えた。
* * *
案内されたのは、庭園の奥まった場所にある、小さなガラス張りの温室だった。
昼間、剪定をした時には気づかなかった場所だ。
「ここは……?」
「私の隠れ家だ。……入って」
彼が扉を開けると、むせ返るような甘い香りが漂ってきた。
ランタンを中央のテーブルに置く。
硝子越しに広がる光が、闇の中に浮かび上がらせたのは、幻想的な光景だった。
白い花。
無数の白い花が、青白い月の光を浴びて、妖しく発光するように咲き乱れている。
「月光花……」
思わず名前が口をついて出た。
夜にだけ咲き、朝には萎んでしまう儚い花。栽培が難しく、王都では滅多に見られない希少種だ。
なにより、これは私が前世で一番好きだった花――そして、今の私が「日陰者」として親近感を抱いている花でもあった。
「知っていたのか。よかった」
エリオット殿下が、愛おしそうに花弁に触れた。
「三年前から育てていたんだ。いつか、本当に大切な人をここに招くのが夢だった」
――三年前。
その数字に、私の胸がずきりと痛んだ。
三年前といえば、私と彼はまだ接点すらなかった。
つまり、彼はまだ見ぬ「運命の相手」のために、この花園を準備していたのだ。
王族としての重圧に耐えながら、いつか現れる愛する人と、この静寂を共有するために。
美しい話だ。
けれど、今ここに立っているのは「運命の相手」ではない。
ただの代役だ。
私は、彼が未来の恋人に贈るはずだった特等席を、横取りしてしまっている。
その事実に気づいた瞬間、美しい花の香りが、急に息苦しいものに変わった。
「……素晴らしいです、殿下。未来の妃殿下は、きっと涙を流して喜ばれるでしょう」
私は震える声で、精一杯の賛辞を口にした。
主語を「私」ではなく「未来の妃殿下」にすり替えて。
しかし、彼はランタンの光越しに私をじっと見つめ、静かに首を振った。
「未来の話ではない。今、君が喜んでくれるなら、それでいい」
「え……」
「リディア。君に見せたかったんだ。君に笑ってほしかった」
彼は一歩近づき、私の頬に手を伸ばした。
触れられた肌が熱い。
その瞳は、昼間の演技じみた熱情とは違う、もっと静かで、深い色をしていた。
まるで、本当に私自身を見ているような――。
駄目だ。
錯覚してはいけない。
彼は今、目の前の「婚約者という役割」に対して愛情を注ぐ練習をしているだけだ。あるいは、私があまりに完璧に役割をこなすから、情が移っているのかもしれない。
けれど、それは愛ではない。
私が「断罪された脇役令嬢」でなくなれば、この魔法は解ける。
この硝子の温室と同じだ。外の世界から切り離されたこの場所でしか、成立しない幻想。
私は彼の手に自分の手を重ね、そっと、しかし拒絶の意志を込めて押し返した。
「……光栄です。今のこの瞬間だけは、私がその幸福を享受させていただきます」
「今だけ」。
そう強調すると、エリオット殿下は一瞬だけ傷ついたような顔をした。
ランタンの炎が揺れ、彼の表情が影に沈む。
「……そうか。君はまだ、信じないんだな」
独り言のような呟きは、ガラスの壁に吸い込まれて消えた。
信じないのではない。
信じてしまったら、終わる時に私が壊れてしまうからだ。
硝子のランタンが、チロチロと燃えている。
この灯りが消えれば、私たちはまた暗闇に戻る。
夜にだけ咲く花は美しいけれど、朝日を浴びれば跡形もなく消えてしまう。
私はショールをきつく巻き直し、心の中の壁を厚くした。
ごめんなさい、エリオット殿下。
貴方のその優しさは、私には眩しすぎて毒なのです。
私は花から視線を外し、出口の方へと体を向けた。
この甘い香りから、一刻も早く逃げ出さなければならない。




