第11話 白い日傘と、計算された慈愛
古びた法典のページを繰る感触は、指先からまだ消えていない。
揺れる馬車の中、私は窓の外を流れる王都の街並みを眺めていた。
今日は初めての市街視察。エリオット殿下の隣で、私が「次期王妃候補」として民衆に受け入れられるかを測る、重要なテストだ。
膝の上に置いた**白いレースの日傘**を、きゅっと握りしめる。
この傘の柄は象牙でできていて、滑らかだがどこか冷たい。まるで私の今の立場のようだ。
「……緊張しているかい?」
向かいに座るエリオット殿下が、心配そうに声をかけてきた。
今日の彼は、堅苦しい正装ではなく、動きやすい視察用の軍服姿だ。それがまた、精悍さを際立たせている。
「いいえ。殿下の足手まといにならぬよう、気を引き締めているだけです」
「君が足手まといになることなんてあり得ないよ。……ただ、無理だけはしないでほしい」
彼はそう言って、私の手をそっと包み込んだ。
優しい。けれど、その優しさは「貴重な展示品」を扱う学芸員のそれに近い。
私は微笑みで返しつつ、脳内で本日のスケジュールを再確認した。
目的地は王都郊外の孤児院。
慈愛のアピールにはうってつけの場所だ。
* * *
馬車を降りると、そこには既に大勢の人だかりができていた。
院長先生に案内され、私たちは中庭へと進む。
数十人の子供たちが、目を輝かせてこちらを見ていた。
私は日傘を開き、その影の下で完璧なカーテシーを披露した。
歓声が上がる。ここまでは順調だ。
「おねえちゃん、これあげる!」
不意に、小さな影が飛び出してきた。
警護の騎士が動くより早く、五歳くらいの男の子が私の足元に抱きついたのだ。
手には野花。そして、その小さな手は泥だらけだった。
――あっ。
周囲の空気が凍りつくのが分かった。
男の子の手が、私の純白のドレスの裾を掴んでいる。茶色い土の汚れが、白い生地にベットリと広がっていく。
侍女が悲鳴を上げかけ、院長先生が顔面蒼白で駆け寄ろうとする。
普通の貴族令嬢なら、ここで顔を顰めるか、あるいは悲鳴を上げて子供を突き飛ばすだろう。
だが、それは三流の悪役のすることだ。
私は「慈愛の王太子妃」を演じに来ているのだから。
私は日傘をパッと閉じ、侍女に預けることもせず地面に放り出した。
そして、躊躇なくその場にしゃがみ込み、男の子の目線に合わせた。
ドレスの裾が地面の土に触れるが、そんなことはどうでもいい。
「まぁ、素敵なお花。私にくれるの?」
「う、うん……でも、服、よごしちゃった……」
「いいのよ。お花を摘むために頑張った勲章だもの。とっても綺麗」
私は泥だらけの頭を撫で、にっこりと微笑んだ。
男の子がほっとしたように笑顔になる。
同時に、周囲から「おお……」という感嘆の声が漏れた。
計算通り。
ドレス一枚のクリーニング代で、民衆の心というプライスレスな価値を買えるなら安いものだ。
これでエリオット殿下の評判も上がる。「あんなに優しい婚約者を選んだ第二王子は素晴らしい」と。
「……リディア」
立ち上がろうとした時、背後から強く抱き寄せられた。
エリオット殿下だ。
彼は私が放り出した日傘を拾い上げ、私の上に差しかけながら、もう片方の手で私の肩を抱いた。
「やはり、君だ」
「殿下?」
「君は昔から変わらない。誰に対しても、その優しさは本物だ」
熱っぽい瞳が、至近距離で私を見下ろしている。
昔から?
一瞬、思考が止まる。私たちは学園で何度か顔を合わせた程度のはずだ。
ああ、そうか。きっと彼は「原作のリディア」の設定を言っているのではなく、私が演じている「理想の聖女像」に、過去の誰か(もしかしたら亡き母君か、初恋の相手か)を重ねているのだろう。
私はその幻想を壊さないよう、慎ましやかに目を伏せた。
「当然のことをしたまでです。殿下の民となる子供たちですから」
「君のそういうところが、たまらなく愛おしい」
彼は日傘を少し傾け、周囲の視線を遮ると、私の額に唇を落とした。
日傘の内側、レース越しに漏れる陽光の中で、二人だけの密室ができる。
子供たちの歓声と、大人たちの拍手が遠く聞こえる。
完璧だ。
この構図、このシチュエーション。
新聞記者がいれば、明日の朝刊の一面は決まりだろう。
『泥汚れも厭わぬ慈愛の女神、第二王子と愛の口づけ』。
私は額に残る熱を感じながら、冷静に成果を分析していた。
彼の「愛おしい」という言葉は、私の演技力に対する最高の賛辞だ。
これなら、法改正のための世論作りも十分に狙える。
* * *
帰りの馬車の中、私は汚れたドレスの裾をハンカチで隠した。
「新しいドレスを手配させよう。いや、いっそ君専用のデザイナーを雇うべきか」
エリオット殿下は上機嫌で、未来の計画を語っている。
私は窓の外へ視線を投げた。
遠ざかる孤児院。手を振る子供たち。
あの日傘の下で感じた安心感は、確かに心地よかった。
けれど、それは傘を閉じれば消えてしまう、一時的な影に過ぎない。
私は彼に向き直り、完璧な「共犯者」の顔で頷いた。
「ええ、お願いします。次はもっと、民衆受けのするデザインがよろしいかと」
はい、と返事をする彼の笑顔が眩しい。
貴方のその輝く未来のために、私は今日も泥を被り、そして綺麗に笑ってみせましたよ。
レースの日傘はもう畳まれている。
次にこれを開く時は、もっと強い日差し――政治という名の嵐の中かもしれない。




