第1話 断罪の広間と、差し出された手
シャンデリアの眩い光が、網膜に焼き付いて離れない。
私は大きく息を吸い込み、震えそうになる膝をドレスの裾で見えなくした。
「リディア・アルフェン! 貴様のその陰湿な性根、もはや看過できん!」
学園の卒業パーティー会場、その中心で響き渡った怒声。
声の主は、私の婚約者である第一王子ウィリアム殿下だった。彼の隣には、本来のヒロインである愛らしい男爵令嬢が寄り添い、怯えたように彼の上着を掴んでいる。
ああ、やっぱりここだったのね。
私は扇の親骨を、指が白くなるほど強く握りしめた。硬い感触だけが、今の私を現実に繋ぎ止めている。
頭の中に流れ込んできた膨大な「記憶」によれば、ここは乙女ゲームの断罪イベントだ。私は悪役令嬢ですらない、単なる当て馬の「脇役令嬢」。
本来なら、ここで私は無様に泣き喚き、身の潔白を叫んで、結果として王家への不敬で修道院送りになる。それがシナリオだ。
けれど、今の私は違う。
騒ぎ立てれば実家に迷惑がかかる。王位継承権争いの火種にもなるだろう。私が選ぶべき最善手は「沈黙」と「恭順」だ。
私はゆっくりと扇を閉じ、静かに頭を垂れた。
自分を守るための、精一杯の礼儀作法。
「……ウィリアム殿下のお言葉、重く受け止めます」
「なっ、なんだその態度は! 反省の色が見えんぞ!」
殿下がさらに激昂し、一歩踏み込んでくる。
周囲の貴族たちが息を呑む気配が肌に刺さる。怖い。逃げ出したい。でも、ここで動けば終わりだ。
私がぎゅっと目を閉じた、その時だった。
「――そこまでになさい、兄上」
喧騒を切り裂くように、凛とした、けれど穏やかな声が響いた。
驚いて顔を上げると、私の目の前に背の高い人影が立っていた。
色素の薄い金髪に、知的な碧眼。
第二王子、エリオット・ルーヴェン殿下。
彼は私とウィリアム殿下の間に割って入ると、私を背に庇うようにして立った。その背中は広く、洗練された香水の香りがわずかに鼻腔をくすぐる。
物語上、彼は攻略対象の一人だが、ヒロイン以外には興味を示さない「高嶺の花」のはずだ。なぜ、こんな脇役を庇うの?
「エリオット、退け! これは私の婚約者の問題だ」
「いいえ。公衆の面前で、証拠もなく令嬢を怒鳴りつけるのは王族の品位に関わります。それに、リディア嬢は一言も反論していない。これ以上の追及は、周囲に兄上の狭量さを示すだけですよ」
エリオット殿下の声は冷静で、理路整然としていた。
ウィリアム殿下は顔を赤くして何か言い返そうとしたが、周囲の貴族たちが冷静さを取り戻し、訝しげな視線を向け始めていることに気づいたようだ。
「……ふん、今日のところは見逃してやる。行くぞ」
捨て台詞を残し、第一王子とその取り巻きたちは会場を去っていった。
嵐が去った後のような静寂が、広間に満ちる。
「……大丈夫ですか、リディア嬢」
振り返ったエリオット殿下が、私に手を差し伸べた。
その瞳は、ゲームで見たどんなスチルよりも優しく、深い色を湛えていた。
「立てますか?」
「は、はい。ありがとうございます……エリオット殿下」
私は震える手で、その大きな手を取った。
温かい。
物語では決して触れることのなかった、選ばれないはずの王子の体温。
「ここでは目立ちすぎます。少し、場所を変えましょう」
彼は私の手を引いたまま、従者に目配せをして人の波を割った。
人々の視線を背中に感じながら、私は彼に導かれるまま、煌びやかなホールを後にした。
* * *
夜風が、火照った頬を撫でていく。
連れてこられたのは、人影のない王宮のバルコニーだった。
私は手すりに寄りかかり、乱れた呼吸を整える。
エリオット殿下は私の様子を気遣うように、少し距離を置いて立ってくれた。
「驚かせてすまなかった。兄の暴挙は、私の監督不行き届きでもある」
「いえ、そんな……! エリオット殿下が謝られることではありません。助けていただき、本当に感謝しております」
私は再び深く頭を下げた。
彼はふっと柔らかく微笑むと、手すりに肘をついて夜空を見上げた。
「リディア嬢。単刀直入に言おう」
空気が変わる。
彼は視線を夜空から私へと移し、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「私と、婚約してほしい」
……え?
言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
「こ、婚約、ですか? 私と?」
「ああ。兄上からの婚約破棄は、明日にも正式に通達されるだろう。そうなれば君の立場は危うくなる。傷物として社交界で噂されることになる」
それは、その通りだ。
断罪は回避しても、「王子の婚約者失格」の烙印は消えない。
「だが、私がすぐに君を新たな婚約者として迎え入れれば、その噂を封じることができる。『兄には合わなかったが、弟がその価値を認めた』という形にすれば、君の実家の面目も保てるはずだ」
エリオット殿下の言葉は、あまりにも合理的だった。
そして同時に、私の中でひとつの「納得」が生まれた。
そうか、そういうことか。
彼は今、王位継承権争いの渦中にいる。第一王子派閥に対抗するためには、足場を固める必要がある。
けれど、彼はまだ「運命の相手」に出会っていない。
だから、とりあえずスキャンダルを逆手に取って、扱いやすい私を「仮の相手」として配置するつもりなのだ。
私は政治の道具。
断罪された令嬢を救う「慈悲深い第二王子」という演出のための、舞台装置。
胸の奥が少しだけちくりとしたけれど、すぐに納得が上書きした。
それでいい。むしろ、それがいい。
愛だの恋だのといった不確定な感情より、利害の一致の方がよほど信用できる。
「……私で、お役に立てるなら」
私は扇を胸元に押し当て、慎重に言葉を選んだ。
「謹んで、お受けいたします」
エリオット殿下の表情が、ぱっと明るくなったように見えた。
まるで、ずっと欲しかったものを手に入れた子供のような――いや、それは私の見間違いだろう。彼は演技も上手なのだ。
「ありがとう、リディア。君ならそう言ってくれると信じていた」
彼は一歩近づき、私の右手を取ると、その甲にうやうやしく口づけを落とした。
唇の感触に、心臓が跳ねる。
これは契約だ。政治的な握手だ。そう言い聞かせても、熱が集まるのを止められない。
「これからよろしく頼む。……必ず、君を守るから」
その低い声に、嘘はないように聞こえた。
ええ、わかっています。貴方は誠実な方だから、ご自分の「役割」を完璧にこなすでしょう。
だから私も、期待に応えなければ。
私は扇を持つ左手に力を込め、密かに決意を固めた。
いつか現れる「本当のヒロイン」にその席を譲るその日まで、私は貴方の完璧な「代役」を務めてみせます。




