七話 当直表に赤線を引く日
医療テントを出ると、砦の中庭はさっきより静かになっていた。
敵の強襲は退けた。
追撃に出たアルズたちはまだ戻っていない。
その間にも、砦は動いている。
負傷者の運び出し。壊れた柵の仮修理。次の食事の準備。
――そして、夜になればまた当直が回ってくる。
(ここで何も言わなかったら、同じことがもう一度起きる)
ヘンリー伍長の言葉が、頭から離れなかった。
『二晩連続で当直に入ってた奴らから、順番に狙われた』
疲れ切った兵士は、敵から見れば“狙いやすい標的”だ。
味方の都合だけじゃない。“疲労”そのものが戦力の穴になる。
(……だったら、そこにまず赤線を引く)
俺は当直表の貼られていた兵舎の壁へ向かった。
*
板の前では、さっきまで夜警に出ていた兵士たちが集まっていた。
「今夜の当直、やっぱり俺か」「お前、昨日もだったろ」「でも他にいねえしな」
そんなやり取りの真ん中に、指揮官ハロルドの背中があった。
「ハロルド指揮官」
声をかけると、彼は振り返った。
「監査官か。医療テントは見てきたか?」
「見てきました。……ヘンリー伍長とも話しました」
「そうか」
ハロルドは短く息をつき、板に貼られた当直表を顎で示した。
「今夜の割り振りを見直していたところだ。
“いつも夜目が利くから”って理由で、同じ顔に頼りすぎていたのは認めよう」
「“頼りになるやつから先に壊れる”のは、どこの職場も同じです」
俺は板の前まで歩み寄り、文字の列を追った。
ヘンリーの名前。
その隣の時間帯。
前の晩、その前の晩。
「……この三日間の当直表の写しを、もらえますか」
「もう写しは作ってある」
ハロルドは厚紙数枚を差し出してくる。
「お前が来た時点で、“言われるだろうな”とは思っていたからな」
「話が早くて助かります」
俺は紙を受け取り、兵舎の壁を背にして広げた。
名前。
時間帯。
持ち場。
数字に置き換えると、見えてくるものがある。
「……ヘンリー伍長、一晩ごとに“見張り台の位置”変えてるんですね」
「敵に癖を読まれないようにな。本人も、“同じ場所だと眠くなる”って言ってた」
「それは理解できます。……ただし」
俺は紙に指を置いた。
「“夜明け前当直”だけは三晩連続です。
しかも、その前の日中も訓練や雑務で埋まっている」
ハロルドが眉をひそめる。
「“夜明け前”が何か違うのか?」
「人間にとって、一番眠気と戦いづらい時間帯です。
前線に出る前、王都の医師たちが作った資料に、そうありました」
会計局時代、疲労と事故率の資料に目を通したことがある。
夜明け前と明け方――そこは特に、判断ミスや転落事故が多い。
「まして、“二晩連続で夜明け前の見張りに入っている兵士”が柵の同じ辺りを歩いていたら、敵から見れば……」
「“そこから崩せる”か」
ハロルドの表情が険しくなる。
「……“癖を読まれないように”ってやっていたつもりが、“時間帯のほうで癖を作っていた”わけか」
「俺も、言われてみてようやく気づいたところです」
自分一人で気づけたわけじゃない。
ヘンリーの言葉、当直表、医療テント――全部合わせて、ようやく見えた穴だ。
*
「労務局としての“是正案”を出しても?」
そう言うと、ハロルドは腕を組んだ。
「聞こう。だが、“人が足りない”って前提は変わらんぞ」
「分かっています。だから、“今すぐできる範囲”で考えます」
俺は紙に指を走らせた。
「まず一点目。“夜明け前当直は、連続一回まで”。
二晩連続で同じ兵士に入れない。三晩目は絶対に外す」
「……代わりがいない場合は?」
「“夜明け前当直を免除されてるほど偉い人”なんて、この砦にいますか?」
「……俺だな」
「指揮官が一晩くらい柵の上を歩けば、“上も同じようにやっている”って兵の士気も上がると思います」
周囲の兵士たちから、抑えきれない笑いが漏れた。
ハロルドは、しばし無言で俺を睨み――やがて、ふっと口元を緩めた。
「言うじゃないか、監査官」
「仕事なので」
「いいだろう。“緊急時を除き、同じ者を二晩連続で夜明け前に立たせない”。
これは明文化しておく」
ひとつ、赤線が引かれた。
「二点目。“夜勤二回に一回は、翌日の訓練か勤務を軽減する”。
完全に休みにできなくても、せめて“荷運びだけ”とか、“事務的な雑務だけ”に減らす」
「そんな贅沢が……」
兵士の一人が思わず呟きかけ、すぐ口を押さえた。
ハロルドは、しばらく当直表と訓練計画表を見比べ、それから大きく息を吐いた。
「……一部の班なら、できるかもしれん」
「全員一気にやろうとしないで結構です。
まずは“夜明け前当直が続いた者”と、“負傷明けの者”から優先して。
“疲れているやつを一番きつい場所に突っ込む”やり方は、もうやめたほうがいい」
ヘンリー伍長の顔が浮かぶ。
あれを“仕方ない”で済ませ続ければ、いつか砦ごと折れる。
「三点目は、“当直表の見える化”です」
「見える化?」
ハロルドが渋い顔をする。
「今の当直表は、“その日当番の者”しか見ていません。
“誰がどのくらい夜勤をしているか”を、もっと分かりやすくします」
俺は懐から小さな板を取り出した。
「板を三枚用意してください。“今月の夜勤回数”を書く表です。
それを飯場と兵舎の出入口、それから指揮官殿の部屋の前に貼る」
「……そんなものを貼って、意味があるのか?」
「“あいつ、今月もう四回当直に入ってるぞ”って、誰の目にも見えるようになります。
それを見て、“じゃあ次は俺が代わるか”って空気を作るのも、現場の力です」
兵士たちの間に、ざわめきが走る。
「そんな贅沢、言っていいのかよ」「でも、あいついつも当直だよなってのは、前から思ってた」「口に出しづらかっただけで……」
ハロルドはしばらく板を睨み、やがて小さく笑った。
「……面白い。お前、本当に役人か?」
「会計局上がりの労務局です。数字を見て人を守るのが仕事なので」
「よし、その“見える化”とやら、やってみろ。
その代わり、文句が殺到したらお前がまとめて聞け」
「それこそ、労務局の本業です」
俺は頷いた。
*
簡易な材料を集めて、当直回数表を作るのに、さほど時間はかからなかった。
板に格子を刻み、名前と日付を書き込む。
今日までの分は、記録係から当直記録を借りて書き足していく。
「ヘンリー伍長、今月五回目ですか……」
「やっぱ多いな」「あいつ、文句言わなかったもんな」「言えねえだろ、伍長だし」
兵士たちが、板を見ながら口々に言う。
(そうだ。“言えない立場”のやつほど、回数が積み上がる)
労務も戦場も、その点は変わらない。
「よし、貼るぞ」
リシアが板を抱えて、飯場の入り口に打ち付けた。
もう一枚は兵舎の扉へ。
最後の一枚は、ハロルド自らが自分の部屋の前に打ち付ける。
「これで、“指揮官の目にも毎日入る”な」
ハロルドが鼻を鳴らした。
「文句を言う者も出るだろうが、そのときは一緒に考えるさ。
“誰か一人に押し付けないやり方”をな」
「それが、“戦場の労務”の一歩目です」
俺は板を見上げた。
まだ、ただの線と名前の集合だ。
だが、その線が少しずつ変われば、砦のリズムも変わる。
*
「――で、監査官殿。“是正勧告”ってやつは、どう書くんだ?」
夕刻、簡易な机を借りて報告書を書いていると、ハロルドが覗き込んできた。
紙の上には、既にいくつかの見出しが並んでいる。
『一.当直割り振りにおける連続夜明け前当番の禁止』
『二.夜勤後の勤務軽減に関する暫定措置』
『三.当直回数の見える化と自発的な交代制度の試行』
「“勧告”というと、もっと偉そうな文章だと思っていたが」
「偉そうに書いたところで、現場が動かなければ意味がありませんからね」
俺はペンを走らせながら答えた。
「“現場で既にやっていること”“今ここで決めたこと”を、一旦紙に残しておく。
これを王都に持ち帰って、他の砦や部隊にも流せる形に整えます」
「他所にまで広げるつもりか」
「ええ。“ここだけのいい話”で終わらせるつもりはありません」
ハロルドは少しだけ目を細めた。
「……十年前、会計局のガキに“人の数を数字みたいに扱うな”って怒鳴ったことがある」
「それはきっと、正しい怒鳴り方です」
「そのガキが、今度は“数字を見て人を守る”って言いに来るんだから、歳を取るもんだな」
しみじみと言いながら、ハロルドは机から離れた。
「勇者一行が戻ってきたら、もう一度当直表を見直す。
そのときも顔を出せ、監査官」
「もちろんです」
扉が閉まる音を聞きながら、俺は最後の一行を書き込んだ。
『――以上の是正案は、前線中継拠点における“疲労を理由とする戦力低下”の抑止を目的とする。
同時に、“敵にとって狙いやすい穴”の縮小を目指すものとする』
インクが乾くのを待ちながら、ペン先を見つめる。
(これが、最初の一枚目か)
勇者パーティー一つに是正勧告を出したあの日から、少しだけ歩を進めた一枚。
まだ、世界はほとんど変わっていない。
でも、砦の当直表には、もう赤い線が引かれている。
*
その夜、砦の外で小さな喧騒が起きた。
「勇者一行、帰還!」
見張り台からの声に、俺は反射的に外へ飛び出した。
門の向こうから、疲れた足取りの一団が戻ってくる。
アルズ、ガロン、エルミア、騎士たち。
泥と血にまみれているが、全員、自分の足で歩いていた。
「おかえりなさい」
門の前で立ち止まると、アルズがこちらを見た。
「ただいま。砦は……持ったようだな」
「当直表に赤線を引きました」
「は?」
意味の分からない顔をする勇者に、俺は簡単に説明する。
夜明け前当直を連続で入れないこと。
夜勤後の勤務軽減。
当直回数の見える化。
アルズは最後まで聞いてから、小さく笑った。
「なるほど。“こっちが魔王軍を追い払っている間に”、お前はこっちの穴を埋めていたわけか」
「どっちの穴も塞がないと、世界は持ちませんから」
「……いいな、その言い方」
アルズは頷き、肩の荷物を下ろした。
「じゃあ、こっちは“魔王軍の働き方”について、少し話がある。
向こうも向こうで、なかなかのブラックぶりだったぞ」
「それはぜひ、詳しく」
俺は胸の記録札に手を当てた。
人間側の当直表。
魔王軍の前線拠点。
どちらにも、“変えるべき働き方”が詰まっている。




