五話 初めての戦場と、倒れる前に止めるということ
夜明け前の空は、まだ墨を流したように暗かった。
砦の中庭に集められた一行の吐く息が、白く揺れる。
焚き火の橙色と、東の空のかすかな青だけが、世界の輪郭をかろうじて照らしていた。
「行軍前点呼、始める!」
ハロルド指揮官の声が、冷たい空気を裂いた。
勇者パーティー。
同行する歩兵十名。
弓兵五名。
護衛騎士リシアと、その小隊。
そして、王立労務局監査官一名。
……最後の一つを、自分で数えて、小さく苦笑する。
「レオン、大丈夫か?」
隣でリシアが声をかけてきた。
「顔色が少し悪い」
「初めての前線行きなんですよ。顔色ぐらい悪くもなります」
「それもそうか」
リシアは短く笑い、俺の胸元の護符を指で軽く弾いた。
「その護符と、その頭でどうにか乗り切れ」
「頭のほうが先にダメになりそうですがね」
軽口を返していると、前方からアルズの声が飛んだ。
「出発だ。目標は黒鉄山脈手前、“第七前線拠点”周辺の偵察。
基本は接触回避、必要に応じて排除。いいな?」
「了解!」
兵士たちの声が重なる。
俺も小さく息を吸い込み、鞄の肩紐と盾のベルトを締め直した。
――監査官も、歩かなければ現場は見えない。
*
砦を出てしばらくは、街道沿いの緩やかな丘だった。
馬車の轍がまだ残る土の道。
枯れかけた草を踏む音。
朝露の冷たさ。
やがて道はだんだんと細くなり、岩の多い獣道へと変わっていく。
「足元に気をつけて。こっから先は“魔王軍がよく使う抜け道”だ」
先頭を行くガロンが振り返り、低く告げた。
「特にあんた、レオン。書類は踏んでも破けねえけど、この斜面は踏み外したら腕の一本じゃ済まねえぞ」
「ありがたい例えですね」
言いながら、俺は足元に意識を集中させる。
石。根。泥。
普段なら何でもない凹凸が、全身装備をした今はやけに重く感じられた。
(これで“普通の荷物”扱いなら、荷運び要員はどれだけ大変なんだか)
セリーヌの背負っていた荷袋を思い出す。
魔道書と杖だけでなく、薬草や補給品、場合によっては味方の遺品まで詰め込まれることもあると聞いた。
「息、上がってきてない?」
後ろから、白い法衣の気配が近づいた。
「エルミアさん」
「前に出すぎると危ないから、あまり無理はしないでくださいね。
勇者様は“監査官だからって特別扱いする必要はない”って言ってましたけど」
「勇者様の“普通”は、たぶん世間の“普通”じゃないので」
エルミアが小さく笑う。
「……それは、わたしも最近ようやく分かってきました」
そう言って、彼女は腰のポーチから小瓶を取り出した。
「魔力回復薬と一緒に、“疲労軽減用”の簡易ポーションも持ってきています。
兵士たちにも配りますけど、レオンさんも限界が近いと思ったら遠慮なく言ってください」
「“限界を自覚する”のが、一番難しいんですがね」
「だから周りが声をかけるんです」
エルミアの静かな言葉に、ふと胸の奥が軽くなる。
――「声をかける」ことが、昔は誰もしてくれなかった。
そして、自分もしてこなかった。
それを、今は自分の仕事にしているのだと思うと、少しだけ足取りが軽くなった気がした。
*
正午を少し過ぎた頃、一行は小さな谷に差し掛かった。
岩肌が剥き出しになった斜面と、細い川。
その向こうには、黒鉄山脈の始まりを告げる黒いシルエットが連なっている。
「一旦ここで休憩だ」
アルズの号令で、一行は腰を下ろした。
「休憩、何刻ですか?」
思わず口から出た問いに、アルズは少しだけ驚いた顔をした。
「……昔だったら、“必要ない”って言ってたな」
「今は?」
「三分の一刻。……いや、半刻にしておくか」
周囲の兵士たちが、ほっとしたように息を吐く。
リシアが小声で囁いた。
「半刻も取るなんて、勇者殿も変わりましたね」
「労務局の是正勧告の効果だと考えておきましょう」
「まだ出してないでしょう」
「予告編ということで」
軽口を交わしながら、俺は木陰に腰を下ろした。
水を一口飲み、鞄から小さな板を取り出す。
歩兵たちの顔色。汗の量。足取り。
簡単なメモを走り書きする。
(出立からここまで、約四刻。休憩は一回だけ。
前線行きが日常になれば、これが当たり前になる……か)
数字だけ見れば、“最悪”ではない。
だが、“もう少し楽にできるはず”という感覚も、頭のどこかにある。
「――黙って見てるだけってのも、難しいもんだな」
ぽつりと呟いたつもりが、近くの耳まで届いていたらしい。
アルズが水袋を口から離し、こちらを見る。
「最初から全部変えようとするな。
少しずつ、“ここなら変えられる”って場所からやれ。そうじゃないと、現場はついてこない」
「勇者に現場の説得方法を教えられるとは思ってませんでした」
「俺だって学んでるところだ」
アルズは遠くの山を一瞥した。
「……あそこに、“変えられないやつら”もいるんだがな」
黒鉄山脈の向こうには、魔王軍の本隊がいる。
彼らは、条文も是正勧告も知らない。
あるのは“命令”と“結果”だけだ。
そこにどうやって、“労務”なんて概念を持ち込むのか。
それはきっと、今すぐの話ではない。
「とりあえず今日は、“人間側”の範囲から始めますよ」
「それでいい。……ああ、そろそろだな」
アルズが立ち上がる。
その瞬間だった。
谷の向こう側、岩陰から何かが閃いた。
「――伏せろ!」
反射的に叫んだのは、ガロンだった。
次の瞬間、空気を裂く音。
俺の頬の横を、黒い何かが駆け抜ける。
ばしん、と背後で音がした。
振り返ると、さっきまで座っていた岩に、黒光りする棘状の矢が突き刺さっていた。
「インプの投槍だ! 敵――!」
叫ぶより先に、アルズの剣が抜かれていた。
「各自、散開! 弓隊、上を押さえろ!」
瞬く間に、世界が戦場に変わる。
岩陰から飛び出してくる小鬼たち。
黒い皮膚と、ぎらついた目。
その手には短い槍や、粗末な弓。
「リシア!」
「分かってる!」
リシアが俺の前に飛び出し、迫る槍を弾いた。
金属がぶつかる甲高い音と共に、火花が散る。
盾越しに伝わる衝撃で、腕が痺れた。
「大丈夫か!」
「……生きてます!」
胸元の護符が、かすかに熱を帯びている。
さっき頬をかすめた投槍の、断片的な衝撃を受け止めてくれたのだろう。
(これが、“現場の一撃”か)
机の上の数字では、絶対に伝わらない重さだった。
「集中しろ! 監査官だからって死んでいい理由にはならん!」
「言われなくても!」
俺は盾を握り直し、リシアの背中にぴったりと付いた。
アルズの剣が炎の軌跡を描き、小鬼たちを薙ぎ払う。
エルミアの祈りの声と共に、光の壁が矢を弾く。
弓兵たちが素早く弦を引き、一体ずつ敵を地に落としていく。
数分も経たないうちに、谷には静寂が戻った。
「敵、撃退。負傷者は?」
「歩兵二名、中程度の傷! 応急処置を開始します!」
伝令の声が飛び交う。
俺は思わずその場にへたり込みそうになった。
膝が笑っている。
手のひらは汗で濡れ、盾の革が変な匂いを放っている。
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど鳴り続けていた。
「レオン、大丈夫?」
エルミアが駆け寄り、そっと肩に手を置く。
「すぐに治療が必要な怪我は……なさそうですね」
「……自尊心ぐらいですかね、傷ついてるの」
「それなら治療対象外です」
エルミアが、冗談めかして微笑んだ。
微笑みに救われるとは、こういうことを言うのだろう。
*
負傷した二人は、エルミアと同行の衛生兵によって応急処置を受けた。
「こいつは深いな。今日の偵察には連れていけねえ」
ガロンが一人の足を見て顔をしかめる。
槍が脛をかすめ、骨までは届いていないものの、動かすたびに痛みが走るらしい。
「歩けないことはないっす。大丈夫っすよ」
本人は強がって笑うが、その額には脂汗が浮かんでいる。
ハロルドではなく、今回の同行部隊長が険しい顔をした。
「戦力が減ると、偵察の安全度が下がる。どうする、勇者殿」
アルズは少しだけ考え込み、それから短く首を振った。
「置いていく。戻りの護衛部隊に合流させろ」
「ですが――」
部隊長が歯切れ悪く言いかけた瞬間、俺は一歩前に出た。
「“ですが”ではありません」
視線が一斉にこちらに向いた。
「この状態で前線偵察に連れていけば、“ただ歩くだけの荷物”になります。
危険を避けるために戦力を割く必要が出て、その分、全体の安全度が下がる」
俺はあえて淡々と言葉を重ねた。
「それに、この状態で連れていけば、“負傷者を行軍に使った前例”ができます。
次も、その次も、“やろうと思えばできる”と判断されるかもしれない」
部隊長の眉間に皺が刻まれる。
「……現実を知らねえ理屈に聞こえるな」
「現実を知らない理屈なら、俺はここに来ていません。
“数字だけ”見ているほうがよほど楽でしたから」
鞄の中の記録札を軽く叩く。
「ここで一人の戦力を諦めることで、残り全員が帰って来られる確率が上がるなら、そのほうが“合理的”です。
労務局としても、“怪我人を偵察に連れ出した”という記録は、好ましくありません」
最後の一文に、アルズがわずかに口角を上げた。
「監査官の“是正勧告予告”ってやつだな」
「予告を出しておけば、“二度目”は減りますから」
「……分かった」
アルズは負傷兵の肩に手を置いた。
「お前はここまでだ。戻りの部隊に任せる。
“戦場で生き残ること”も、立派な仕事だ」
兵士の目がかすかに揺れ、次の瞬間には涙が滲んでいた。
「……了解しました、勇者様」
その姿を見て、部隊長も渋々と頷く。
「一人減る分、警戒線を少し縮める。弓隊の配置を変えろ」
命令が飛ぶ。
“無理をさせない”決断をした分、どこかを調整しなければならない。
そこから先が、現場の腕の見せ所だ。
――これが、“倒れる前に止める”ということだ。
*
谷を抜け、さらに半刻ほど進んだところで、景色がまた変わった。
黒鉄山脈の裾野に近づくにつれて、地面は黒ずんだ岩や焦げ跡が目立つようになる。
ところどころに、崩れかけた木製の柵や、焼け焦げた旗が突き刺さっていた。
「ここで一度、全員止まれ」
アルズが手を上げる。
「この先は、魔王軍の偵察も頻繁に出てくる。声を抑えろ」
ささやき声だけが、風と一緒に流れる。
俺は息を殺しながら、足元の焦げ跡に目を落とした。
(……ここで、誰かが焼かれたんだろうな)
数字にも、報告書にも載らない、“名前のない誰か”。
その痕跡を踏みしめながら、自分が何をしに来ているのか、もう一度胸の中で確認する。
(“誰が、どこで、どれだけ無理をしているのか”を見に来たんだ)
それが分からなければ、机の上でいくら条文をこねくり回しても意味がない。
*
「見えてきたぞ」
先行していた偵察兵が戻り、小声で告げた。
アルズたちが屈みながら岩陰へと進み、そのあとを俺たちも続く。
岩の隙間から覗いた先――そこに、魔王軍の前線拠点があった。
黒い木材と骨で作られた柵。
棘だらけの見張り台。
青白い炎を灯した魔道具のランタン。
その周りを、角や翼を持つ魔族たちが忙しなく行き交っている。
「……思ったより、大きいな」
リシアが息を呑む。
「これが、“噂レベル”でしか上がってきていなかったのか」
「人間側の偵察隊がここまで近づけること自体、少なかったからな」
アルズが低く返す。
「今のうちに、見えるものは全部見ておく。交代のタイミング、見張りの人数、魔道具の配置――」
その言葉を聞きながら、俺も記録札にそっと魔力を通した。
魔族の動き。
柵の高さ。
拠点の奥にちらりと見える、大きな影。
(……あれは、“魔力炉”か?)
魔力を大量に集め、前線に供給する施設。
暴走事故を起こせば、それだけで周囲を焼き尽くす危険な代物だ。
同時に、そこでもきっと“誰か”が働いている。
(魔王軍にも、いつか労務局が口を出せる日が来るんだろうか)
まだ現実味の薄い未来を想像しながら、今は人間側の仕事に集中する。
「……そろそろ戻るぞ」
ハロルドが時間を確認し、小さく頷いた。
「滞在は予定通り一刻。これ以上は危険だ」
「帰りも警戒を緩めるな。途中で待ち伏せを仕掛けられる可能性がある」
アルズの言葉に、皆が静かに頷いた。
*
帰路は、往路よりも早足だった。
魔王軍の拠点を実際に目にしたことで、全員の緊張が一段階上がっている。
「足、速すぎませんかね」
小声で漏らすと、前を行く兵士が苦笑した。
「“さっさと帰りたい”って気持ちは、誰でも同じだよ、監査官殿」
「それは理解しますけど、“帰り着く前に倒れたら”意味がないんですがね」
「それを考えるのが、あんたの仕事なんだろ?」
「ええ。だから、帰ったら“行きと帰りのペース配分”も報告書に書きます」
「そんなもんまで……ご苦労なこった」
言葉とは裏腹に、その声には少しだけ期待が混ざっていた。
*
そんな中、空気が変わったのは、砦まであと一刻という地点だった。
先頭を行く偵察兵が、急に手を挙げて止まる。
「足跡がある」
ガロンが前に出て、地面を確認する。
「さっきはなかったな?」
「ああ。しかも、数が多い」
土に残された蹄と、裸足の足跡。
さっきまでなかったそれが、砦の方向へと伸びている。
「……魔王軍の別働隊か?」
リシアの声が低くなった。
「数は?」
「ざっと見て二十以上。もっと多いかもしれん」
ガロンが顔を上げる。
「しかも、足跡の深さからして“走って”いやがる。
このまま放っておけば――」
「砦が先に襲われるな」
アルズが言葉を継いだ。
全員の喉が同時に鳴る。
「ハロルド指揮官。どうしますか」
リシアが問う。
ハロルドは短く息を吸い、即答した。
「追う。ここで敵の尻を叩いておかなければ、砦が危ない。
勇者一行と先鋒で足を速める。後続は体力と相談して付いてこい」
その判断は、軍人としては正しいのだろう。
だが――労務局の監査官としては、別の警鐘が鳴っていた。
(ここから“全力疾走”なんてしたら、戻ってからの体力が完全にゼロになる)
その先に待っているのは、おそらく全員参加の防衛戦。
夜通しの戦闘になる可能性もある。
「……指揮官殿」
思わず声が出た。
「何だ、監査官」
「追撃自体に異議はありません。ただ一点だけ、提案があります」
ハロルドと、アルズと、リシアと。
複数の視線が俺に突き刺さる。
「“全員”で全力で追うのではなく、“足の速い者と、今の時点で余力のある者”に絞って追撃隊を編成してください。
残りは“砦に先回りして防衛準備”に回したほうが、全体としての持久力が上がるはずです」
沈黙。
ややあって、ガロンが口を開いた。
「……たしかに、全員で走り切って、全員ヘトヘトの状態で砦防衛ってのは、一番危ないかもしれねえな」
「俺たち勇者一行は、足を速めても問題ない。魔力もまだ余力がある」
アルズが自分の胸に手を置く。
「だが、歩兵たちは既にかなり削られている。
“追撃組”と“先回り防衛組”に分ける、ってのは悪くない案だ」
ハロルドはしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。
「……よし。追撃隊は勇者一行+騎士隊から選抜した五名。
残りは急ぎ砦へ戻り、迎撃準備に入れ」
命令が飛ぶ。
兵士たちの顔に、緊張と安堵が同時に浮かんだ。
「監査官。お前はどっちに付く?」
問われて、答えは決まっていた。
「――追撃隊に。現場を見に来たので」
ハロルドが、わずかに口角を上げる。
「死ぬなよ」
「それは今日、何度目の忠告ですかね」
「足りないくらいだ」
そのやり取りに、周囲から苦笑が漏れた。
*
追撃隊は、荷物を最小限にまとめ直し、足を速めた。
地面を蹴る音。
呼吸の音。
心臓の鼓動。
胸元の護符が、またわずかに熱を帯びる。
(ここから先は、“働き方を変える”なんて悠長なことを考えていられる状況じゃないかもしれない)
それでも、その「変えられない状況」がどこから始まるのかを、目で確かめたい。
倒れる前に止めるために。
倒れたあとで悔やまないために。
初めての戦場は、まだ序章に過ぎなかった。




