四十八話 魔王勤務表、どこまで譲れるか
翌朝。
魔王城の空は、
薄い雲に覆われていた。
外から見れば、
いつも通りの「不穏な」曇天。
だが客間の板の前で、
光と闇の「板の人たち」は、
妙に落ち着かない顔で最後の確認をしていた。
《魔王労務監査 暫定報告骨子》
1.現状把握
2.問題点
3.提案
4.結論への問い
その下に、
昨夜のうちに書き足された一行。
《※本報告は『命令』ではなく『裁定案』。
受け入れるかどうかの決定権は陛下にある》
「――よし」
レオン・グラハムは、
小さく息を吐いてチョークを置いた。
「これ以上いじると、
ただ『『怖くなって字を増やした』板』になる」
「もう十分怖いと思いますけどね」
ヨアナ・バルクが、
半分冗談、半分本音で言う。
「『『魔王勤務表』なんて言葉、
ここでしか聞きたくないです」
「聞きたいです、私は」
ナナがひょいと手を挙げた。
「『『一日三回、湯気の立つ飯』欄、
絶対に削らせませんからね」
「料理長のロビー活動が
うまく行くといいが」
アレクが肩を竦める。
「問題は、
そこにたどり着くまでに
誰がどこで噛みついてくるか、だな」
「『『噛みついてくる』人たちは、
大体想像がつきます」
ギルゼン・ヴァルナが
黒髪を整えながら言った。
「『『陛下の覚悟を侮るな』と叫ぶ者たちと、
『『魔王の権威を削ぐな』と叫ぶ者たち」
「そちら側の味方じゃないですか、その人たち」
フィルが目を丸くする。
「『『魔王の権威』を守るほうが
闇側の得じゃないんですか」
「短い十夜だけの話なら、そうでしょう」
ギルゼンは、
わずかに肩を竦めた。
「『『十年』で見るなら、
『『陛下一人の肩に全部積み上げた黒板』は
いつか折れる。
その先の十年を考えるなら、
我々の得はどこにあるか――」
「『『魔王が十年持つかどうか』、ですね」
レオンが引き取る。
「では、
そろそろ行きましょう」
魔王の「今日ここまで」に
線を引く提案を持って。
*
魔王城・執務室前。
昨日と同じ黒い扉の前に、
近衛が二人立っていた。
封印の紐で
武器を縛られた勇者庁一行と、
書類と板を抱えた労務局、
そして闇側の兵站局。
奇妙な顔ぶれに、
近衛たちは
どう表情を作るべきか迷っているようだった。
扉が開く。
中から漏れ出すのは、
今日もまた
紙の擦れる音、ペンの走る音。
「入れ」
低い声が、
中から響いた。
*
執務室の中の光景も、
やはりほとんど変わっていない。
書類の山。
地図。
棚。
その真ん中で、
魔王は立って一行を迎えた。
昨日より
少しだけ顔色が良いように見えるのは、
朝の儀式が終わったばかりだからか、
それとも気のせいか。
「――さて」
魔王は、
机の端に片手を置いた。
「『『異世界労務局は魔王にも裁定できるのか』。
今日は、その答えを
持ってきたのだろう?」
「『『答え』ではなく、『『案』です」
レオンは一歩前へ出た。
「『『命令』ではなく、
『『陛下の裁定を仰ぐための案』として
お持ちしました」
魔王の紅い瞳が、
じっとレオンを見つめる。
「聞こう」
*
執務室の片隅に、
臨時の白い板が立てられた。
《魔王労務監査 暫定報告》
レオンは、
いつもの監査のように淡々と
読み上げていく。
「現状把握」――
朝晩の儀式。
日中の決裁。
夜間の呼び出し。
食事と休憩の実態。
「問題点」――
『『魔王の欄』不在。
『『止める声』を守る仕組みの欠如。
「提案」――
『魔王勤務表試案』。
『補佐官(労務担当)』新設。
『『今日ここまで』欄の導入。
「結論への問い」――
『『魔王の働き方は誰の責任か』を
『『誰がどこまで持つか』に変える提案。
魔王は、
黙って聞いていた。
途中、
護衛や側近たちが
何度か顔をしかめるのが
視界の端に入ったが、
陛下自身は
何も言わなかった。
ただ、
腕を組み、
時折目を細めるだけ。
レオンが
最後の一文を読み上げ、
一礼して一歩下がったとき――
「……面白い」
魔王は、
ぽつりとそう言った。
「『『魔王勤務表』とはな」
その一言に、
護衛たちの何人かが
目を剥く。
「陛下!」
「そんな戯言――」
「黙れ」
魔王の声が、
その場を一瞬で凍らせた。
大声ではない。
だが、
部屋の空気が
ぴん、と張り詰める。
「『『戯言』かどうかを決めるのは、
お前たちではない」
側近たちは、
慌てて口を噤んだ。
魔王は、
再び板に目を戻す。
「――ギルゼン」
「は」
「お前は、
これをどう見る」
問われたギルゼンは、
黒いマントの裾を整えて一歩進み出た。
「『『現状のまま』では、
陛下の十日は
十年持ちません」
部屋の空気が、
別の意味で固まった。
「『『十夜』ではなく、
『『十年』を見たとき――
『『誰かが全部背負っている黒板』は
いつか折れます」
「ギルゼン!」
副官が低く制止の声を漏らすが、
ギルゼンは首を振る。
「『『魔王陛下の働き方』を
変えさせられなかった責任は、
まず我々闇側の板の人間にあります。
――だからこそ、
今ここで
『『責任を分け合う案』を
提示している者たちを
無下にはできません」
魔王は、
じっと彼を見つめていた。
その瞳に
怒りの色は薄い。
むしろ――
どこか諦めと、
わずかな期待が混ざっているように
レオンには見えた。
*
「勇者庁の意見は?」
魔王は、
今度はアレクに視線を向けた。
「『『敵』の板に
自分の一日を載せられる気分は、
どうだと思う」
「正直に言っていいなら」
アレクは、
息を吸ってから答えた。
「『『気分は悪い』けど、
『『それでもやったほうがマシ』です」
側近たちがざわめく。
「お前……!」
「勇者の分際で――」
「『『分際』の話なら、
勇者なんて一番分際の悪い立場ですよ」
アレクは、
さらりと言い放った。
「『『『世界のために働け』って言われて、
『『『お前が全部背負え』って
人に言うための肩書き』ですから。
――でも、
『『十日間全部前線に出てろ』って言われたら、
俺は板の前で頭抱えながら
全力で止めます」
その言葉に、
魔王の唇が
わずかに動いた。
笑ったのか、
息を吐いたのか、
判然としない。
「『『勇者庁が魔王の働き方に口を出す』――
面白い世になったものだ」
「光側の王様の分も
練習させてください」
アレクは肩を竦めた。
「『『王様の勤務表』も
いつか作らなきゃいけないんで」
宰相が聞いたら
卒倒しそうな台詞だが、
ここは王都の謁見の間ではない。
魔王城の執務室だ。
魔王は、
あえてそこを咎めなかった。
*
「――よかろう」
しばしの沈黙のあと、
魔王は言った。
「『『魔王勤務表』とやらを、
見せてみろ」
レオンは頷き、
手元の紙を前に差し出した。
それは、
昨夜皆で頭を抱えながら作った
「魔王の一日」試案だった。
《魔王勤務表(試案)》
【朝】
・継ぎ目補強儀式(必須/魔王)
・儀式後休憩(必須/邪魔禁止)
【午前】
・優先度A決裁(魔王+ふるい役)
・その他決裁の一部委任
【昼】
・食事(必須/三十分以上)
・短時間の謁見(必要に応じて)
【午後】
・各局からの報告聴取
・長期案件の検討
【夕刻】
・継ぎ目補強儀式(必須)
・儀式後の最低限の執務
【夜】
・呼び出し上限:一晩二回まで
・緊急以外の案件は翌日に繰越
欄外には、
いくつかの注記が小さく並んでいる。
《※『『一日三回、湯気の立つ飯』×2(食堂欄と連動)》
《※『『休んでください』と言える補佐官職の設置》
《※『『呼び出し上限』を板に載せ、破った者の記録を残す》
魔王は、
紙を受け取り
しばらく黙って目を通していた。
やがて――
「……『『呼び出し上限二回』?」
最初に引っかかったのは、
そこだった。
「夜間呼び出しについては、
これまで『『随時可』でしたね」
レオンが補足する。
「『『いつ呼ばれてもよい』という状態は、
『『本人が覚悟しているから』ではなく、
周囲がそれに甘えている結果でもあります」
「甘え?」
側近の一人が
思わず声を荒げた。
「『『陛下の覚悟』を甘えと呼ぶのか!」
「『『覚悟』に全部乗っかるのを
『『甘え』と呼んでいます」
ヨアナが、
きっぱりと言い返す。
「『『陛下が望まれたから』と
『『全員が望んだ』を混同して、
『『止める声』まで潰したのは
誰ですか」
厨房で聞いた話を思い出し、
ナナも一言足す。
「『『ちゃんと食べてください』って言った人、
ここで叩かれたって聞きました」
料理長の視線と溜息が
目に浮かぶ。
「『『陛下の負担を減らしたい』って言っただけで
『『覚悟を侮るな』って怒鳴られて。
そういうのも、
ぜんぶ『『甘え』です」
側近たちの顔色が
さっと変わる。
魔王は、
紙から目を離さずに
ぽつりと呟いた。
「……そんなことがあったな」
その声には、
わずかな苦味があった。
「『『あれは、
私が止めるべきだった』」
ギルゼンが
眉をひそめる。
「陛下――」
「だが、
止めなかった」
魔王は、
紙から顔を上げた。
「『『自分の覚悟』に
他人を乗せたままにしておくほうが、
手っ取り早かったからだ」
その告白に、
部屋の空気が
重く沈んだ。
レオンは、
静かに頷いた。
「――だからこそ、
『『魔王の働き方は誰の責任か』という問いに
『『陛下だけの責任ではない』と書きました」
板の伝える文字が、
視線を集める。
《本人の信念》
《周囲の美談》
《仕組みの欠如》
「『『三つとも』、です」
レオンは続ける。
「『『魔王の十日』を
十年に伸ばすためには、
『『本人の覚悟』も、
『『周囲の態度』も、
『『仕組み』も
全部少しずつ
動かす必要があります」
*
「質問がある」
魔王は、
紙を指でとんとん叩いた。
「この『『魔王勤務表』――
『『全部』今日から
やれと言うのか?」
「いいえ」
レオンはすぐに首を振った。
「『『全部』ではありません。
そして『『今日から全部』でもありません」
板の下に、
新しい行が書き足される。
《※導入は『試行』から。
『『一日分』から始める》
「『『一日だけ』、です」
レオンは言う。
「『『魔王勤務表の一日』を
試しにやってみていただきたい。
そのうえで――
『『どこが無理で、
どこなら譲れるか』を
陛下自身に
線を引いていただきたいのです」
「『『どこまで譲れるか』を決めるのは、
あくまで陛下ご自身」
ギルゼンも補う。
「我々は、
線の候補を
板の上に見せているだけです」
魔王は、
紙から視線を外し
窓の外を見た。
厚い雲。
遠い山々。
その向こうに、
光側の王都がある。
そこで、
やはり王の勤務表を持たない王が
同じように
十日十年を抱えているのだろう。
「……『『一日』か」
魔王は、
ゆっくりと言った。
「『『十夜』でも『『十年』でもなく」
「はい」
レオンは頷いた。
「『『一日』です。
『『今日ここまで』を
一度だけ試してみる。
――その結果を、
板に残させてください」
視線が交錯する。
魔王とレオン。
魔王とギルゼン。
魔王とアレク。
そして、
執務室の隅っこで固まっている側近や護衛たち。
料理長が
厨房で鼻を鳴らしている姿まで
目に浮かぶ気がした。
*
長い沈黙のあとで――
「よかろう」
魔王は、
短く答えた。
「『『一日だけ』だ。
『『一日だけ、
この『『魔王勤務表』とやらに
世界の継ぎ目と
私の肩を預けてみよう」
側近たちが
一斉に声を上げかける。
「陛下、それは――」
「うるさい」
魔王の一言が、
それを押しとどめた。
「『『世界の継ぎ目』を
一日だけ預けるくらいで
崩れるようなら、
とっくに終わっている」
その言葉には、
自信とも諦めとも違う、
不思議な静けさがあった。
「条件がある」
魔王は続けた。
「『『一日』の終わりに、
今日の板を見ながら
『『どこまで譲れたか』『『どこがまずかったか』を
お前たちと一緒に
話す場を作ること」
「もちろんです」
レオンは即答した。
「『『魔王勤務表』は
陛下の裁定の結果によって
書き換えられるべきものですから」
「二つ目」
魔王は指を二本立てた。
「『『この『『一日』の記録』は、
光側と闇側の板の人間で
共有すること」
「承知しました」
ギルゼンが頭を下げる。
「『『陛下の十日』を
どちらか片方の黒板だけに閉じ込めるつもりは
はじめからありません」
「三つ目」
魔王は、
最後の条件を告げた。
「――お前たちの王にも、
同じことをさせろ」
レオンは、
予想していた言葉を
改めて胸の奥で受け止めた。
「……はい」
「『『魔王の十日』に
『『今日ここまで』を作れと言うなら、
『『王の十日』にも
同じ欄を作らねば
筋が通らん」
魔王は、
薄く笑った。
「『『世界を背負う者』が
どちらも同じように
板の外に立っている世界は、
退屈ではあったが
さすがにそろそろ
飽きた」
アレクが
思わず吹き出しそうになる。
「……返す言葉もないですね、これは」
「帰ったら、
王都の板の前で
同じ喧嘩をしてこい」
魔王の言葉に、
レオンは深く一礼した。
「必ず」
*
「では――」
魔王は、
執務室の壁を一瞥した。
「板がないな」
レオンたちは
慌てて持参の小さな白板を運び込む。
文字通り、
ここに「最初の一枚」を立てるために。
魔王は、
チョークを受け取ると
少しだけ、
楽しんでいるような顔をした。
「『『魔王が板の前に立つ』か」
「光側では、
なかなか見られない光景だと思います」
アレクが小声で言って
ナナに脇腹をつつかれた。
白い板の上部に、
魔王の手で文字が刻まれていく。
《魔王勤務表 一日目(試行)》
その下に、
今日の日付。
さらに、
魔王自身の字で
最初の欄が書き込まれた。
『朝:継ぎ目補強儀式(済)』
そして――
わずかな間のあとで、
もう一行。
『儀式後休憩:これから取る』
その文字を見た瞬間、
レオンは胸の奥が
じん、と熱くなるのを感じた。
(――『『魔王の今日ここまで』が、
今、
板の上に書かれた)
世界の継ぎ目を押さえつけていた片手が、
ほんの少しだけ
板のほうへと伸ばされた。
それは、
十夜でも十年でもなく、
「一日」のための動き。
*
執務室を辞すとき、
料理長が
廊下の陰からこっそり声をかけてきた。
「おい」
「はい?」
「『『一日三回、湯気の立つ飯』、
本当に板に載ったか」
ナナは、
にやりと笑った。
「『『二回』までは、
ほぼ確実だと思います」
「三回は?」
「三回目は……
今日の『『ここまで』の話し合い次第です」
「――そうか」
料理長は、
口の端を上げた。
「なら、
鍋をひとつ
多めに温めておくか」
*
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、
「魔王の働き方」を
『『覚悟』と『『美談』だけで語っていた世界に、
『『魔王勤務表(一日目・試行)』という
小さくて妙に具体的な板が
魔王城の一室に
立てられてしまった分だけ。
そして、
その板のいちばん上の欄に
『『儀式後休憩:これから取る』と
魔王本人の字で
書き込まれてしまった以上――
『『異世界労務局は魔王にも裁定できるのか』という問いは、
もう単なる思考実験ではなく、
「今日」という一日分の現実として
誰かの板に
記録されてしまった限りは。




