四十五話 中立地会合、板の人たちが顔を合わせる
王都から半日ほど東へ。
光と闇の境界線から
ぎりぎりどちらの軍旗も見えない、
小さな丘の上に、
石造りの古い砦がひとつあった。
かつては交易路を見張るための砦。
いまは正式には「廃砦」と呼ばれ、
どちらの地図にも
色が塗られていない。
――その「色のついていない場所」が、
今日だけは
ひとつの会合のために
仮の色を帯びることになっていた。
*
砦の中庭には、
無造作に板が二枚立てられていた。
ひとつは、
王立労務局の標準の仕様で作られた
白木の板。
もうひとつは、
闇の谷で使われているのと同じ黒い板。
その間に
大きめの丸テーブル。
――そして、
テーブルの片側には、
光側の代表として
レオン・グラハムとヨアナ・バルク。
反対側には、
闇側の代表として
ギルゼン・ヴァルナと、
黒衣の副官が一人。
それぞれ、
少しだけ距離を空けて座っていた。
背後には、
最低限の護衛だけ。
腰に下げた武器には
封印の紐が括られ、
砦の門には
双方の旗ではない、
真っ白な布が掲げられている。
*
最初に口を開いたのは、
ギルゼンだった。
「――まずは、
このような場を設けていただいた
あなた方の王と宰相に、
礼を言うべきなのでしょうな」
声は低く、
よく通る。
レオンは、
軽く頭を下げた。
「こちらこそ。
『総力戦十日間』の情報の一部を
闇側と共有した件については――
正直なところ、
国内でも賛否が分かれましたので」
それはお互い様だ、と
ギルゼンは目だけで笑った。
「そちらの勇者庁が送ってきた
通信札の文言には、
随分と頭を抱えましたよ。
『『焚き火○』だの
『『十日目のあと』だの」
「それは失礼」
レオンも笑う。
「こちらとしては、
『『闇焚き火○』だの
『『黒の雨』だのという言葉を
真顔で使ってくる通信札を読んで
同じくらい頭を抱えていました」
互いに、
一拍置いてから笑い声を漏らした。
空気が、
わずかに和らぐ。
*
「――さて」
レオンは、
持参した皮の手帳を開いた。
「今回の会合の名目は、
『総力戦十日間における
双方の労務運用の情報交換』。
建前としては、ですね」
「『建前としては』、ですか」
ギルゼンが片眉を上げる。
「ええ」
レオンは素直に認めた。
「本音としては――
『『板の前に立っていた人間同士で、
一度顔を合わせておきたい』」
ギルゼンの目が、
少しだけ細くなった。
副官が何か言いかけたが、
片手で制される。
「……ほう」
ギルゼンは、
背後の黒板に視線を流した。
「『『こちらの板の前にいた人間』と
『『そちらの板の前にいた人間』を、
同じ場所に座らせる』、と」
「お嫌でしたか?」
「いいえ。
むしろ、
歓迎しています」
ギルゼンは、
黒板から視線を戻し
レオンを見た。
「『『こちらの十夜』のあいだ、
何度かこちらの黒板に
妙な影が差し込んでいたのですよ。
『『向こう側』にも
『『数字の向こう側の顔』を
見ている誰かがいる』ような気配が」
「それは――
勇者庁から送られた
粗雑な広報文のせいかもしれませんね」
レオンは苦笑する。
「『『世界はまだ少しだけマシだと思いたい』などと
情緒的な文言を
公式通信に紛れ込ませたのは、
我々労務局ではなく、
勇者庁広報院のほうです」
「察していましたよ」
ギルゼンは、
眼鏡の位置を直すような仕草で
指先をこめかみに当てた。
「『『あの手の文言』を書く人間は、
どこの陣営にもいるものです。
――私の黒板の端にも、
似たような言葉が
書き足されていましたから」
そう言って、
副官に目配せする。
副官が黒板に近づき、
布を一部外した。
黒板の隅。
薄く消し跡の残るところに、
小さな文字が見えた。
《※『『次の十夜』がいつ来るかは分からないが、
『『十夜目まで』しか書かれていない黒板』には戻らない》
ヨアナが、
思わず息を呑むのが聞こえた。
「――それは」
「七夜目のあとだったか、
闇焚き火○の翌朝だったか。
記憶は曖昧ですが」
ギルゼンは、
あくまで淡々と言う。
「『『十夜目のあと』の欄』を
黒板に残したままにする決定は、
それまでの我々のやり方からすれば
かなり思い切ったものでした。
――あなた方の板にも、
似たような欄があったはずでしょう?」
レオンは、
自分の手帳から紙を一枚抜いた。
そこには、
総力戦板の右端のコピーが
写されている。
『十日目』の隣に、
小さな『それから』の欄。
《レオン・グラハム
『一日寝る』
『板を一枚減らす』
『それから、今日までの板を取っておく』》
「……この欄を残すかどうかについては、
局内でも少し揉めましてね」
レオンは肩を竦める。
「『『総力戦』と銘打った板に
『『それから』などという甘えた欄』を残すな、と」
「甘え、ですか」
ギルゼンは、
わずかに口元を歪めた。
「こちらでも
似たような反応がありましたよ。
『『黒の雨十夜目』の欄の隣に、
『『再編』などという欄』を残すのかと」
彼は、
黒板の別の場所を指さす。
そこには、
こう書かれていた。
《再編
※十夜目終結時点で、
『再編に回せる影』
当初想定より+二割》
「『『十夜目まで』という線と、
『十夜目のあと』という欄。
それを両方残しておきたいと
考えた人間が、
こちらにもそちらにもいた、
ということですな」
「――どうやら」
レオンは、
素直にうなずいた。
「『『板の前の人』というのは、
どこの陣営でも
似たようなため息をついているらしい」
*
少しのあいだ、
板と黒板の間に
静けさが流れた。
レオンは、
その沈黙を破るように
ひとつ問いを投げる。
「……ギルゼン殿。
ひとつ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「闇焚き火○――
あれは、
誰の発案だったのです?」
ギルゼンは、
ほんの少しだけ目を細めた。
副官が身じろぎする。
が、
すぐに肩の力を抜き、
答えた。
「半分は、こちら。
半分は――
光側の焚き火○の報告書を
読んだ副官の暴走です」
「暴走」のところだけ、
わずかに苦味が混じる。
「『『戦果計上対象外の時間』を
黒板に載せるなど、
正気の沙汰ではない』と
最初は思いましたがね」
「こちらでも、
同じことが言われましたよ」
レオンは笑う。
「『『十日間総力戦』と言いながら、
六日目と七日目に
『『数字にならない焚き火○』をやるなど、
正気か』と」
「正気ではなかったのかもしれませんな」
ギルゼンも、
同じように笑った。
「ですが――
『『数字にならない夜』を一晩挟んだ結果、
十夜目に
『二割多く『再編』に回せる影』が残った。
それが、
こちらの黒板に刻まれた数字です」
「こちらも似たようなものです。
『『焚き火○に参加した兵』と
『参加しなかった兵』で、
十日目に前線に立てた割合に
差が出た」
レオンは、
板のコピーの別の欄を示した。
《※六日目焚き火○参加者:
十日目前線参加率 当初想定+一割》
「『『十日目まで』を見ながら
『『十日目のあと』の欄』を作る。
そのためには、
途中で『数字にならない夜』を
挟まざるを得なかった」
「……なるほど」
ギルゼンは、
興味深そうに顎に手を当てた。
「あなた方の王は、
よくそのやり方を
受け入れましたね」
「陛下というよりは、
宰相と勇者庁と――
長屋のおばちゃんたちの支えが
大きかったかもしれません」
レオンは冗談めかして言う。
「『『鍋』『靴』『桶』の欄を
板の隅に作ることを許してくれたのは、
むしろ街側ですから」
「鍋と靴と桶……」
ギルゼンは呟き、
黒板にちらりと視線を投げた。
黒板の隅にも、
似たような欄がある。
《弾薬》《毒》《影の疲労度》
通りは違えど、
どちらも「壊したくないもの」を
数字にしようとした痕跡。
(――『やはり似たようなことをやっている』)
レオンも、
同じことを思っていた。
*
しばし、
板と黒板の記録を
互いに見せ合う時間が続いた。
もちろん、
機密に関わる部分は伏せられている。
だがそれでも、
『前線四日まで』『十夜目再編』
『焚き火○』『闇焚き火○』
そこに書かれた
線の位置と、
その線の上を歩いた人間の名前は、
驚くほど似た匂いを
漂わせていた。
「――こうして見ると」
ヨアナが、
小さな声でぽつりと言った。
「『『光側の板』と『闇側の黒板』って、
根っこは
そんなに違わない気がしますね」
副官が、
鋭い視線を向けかけた。
が、
ギルゼンに目で止められ、
小さく息を吐く。
「違うのは、
『『どちらの数字を優先するか』だけですよ」
ギルゼンが補うように言った。
「『『こちらの兵』と『そちらの兵』。
『『こちらの街』と『そちらの街』。
『『どちらの『今日ここまで』を守るつもりか』――
その線の引き方が違うだけで」
「ええ」
レオンもうなずく。
「『『誰かの十日』を守るために
『別の誰かの十日』を削ることがあるのは、
こちらも同じです。
――だからこそ、
『『総力戦十日間』のあとの
『『次の十日』をどうするか』という話を、
一度は
互いにしておきたいと思っていました」
「『次の十日』、ですか」
「はい」
レオンは、
ペンを取り出して
真っ白な紙の上に
小さな枠を描いた。
『十日目』の右隣に、
また小さな欄。
《次の十日》
「『『次の十日』が来ないと
誰が言い切れるでしょうか。
――ですが、
次の十日が来たとき、
『『今回とまったく同じ板』しか手元にない』のか、
それとも
『『前回の板の右隣に
もう一枚別の板を用意している』のか」
レオンは、
自分の言葉を噛みしめるように続けた。
「その差は、
案外、大きいかもしれないと
思うのです」
「……『『今回の十日』を、
『『次の十日』のための資料』にしておく、ということですな」
ギルゼンは、
黒板の右端に指先を滑らせた。
副官が、
そこに小さく枠を描き足す。
《次の十夜》
「あなた方の王が
その考えに乗ってくれるなら――
こちらとしても、
『『次の十夜』のための黒板の準備』は
しておきましょう」
「王は、
『板を一枚減らせ』とは仰いましたが」
レオンは苦笑した。
「『『全部捨てろ』とは
仰いませんでした。
――そこに、
少しだけ
次への余地があると思っています」
*
会合は、
想定よりも穏やかに、
しかし内容の濃いまま
数刻続いた。
互いの板と黒板の使い方。
兵だけでなく、
長屋や地下街、
商人や影たちの「今日ここまで」。
どこまで数字にし、
どこからを数字にしないか。
――最後に。
ギルゼンは、
ふと表情を引き締めた。
「ひとつ、
こちらからも提案があるのですが」
「提案?」
「ええ」
ギルゼンは、
背後の黒板を一度振り返り、
再びレオンを見る。
「『『十日間の板の前に立っていた人間同士』で
顔を合わせた。
これは、
確かに有意義な一歩でしょう」
そこまでは
いつも通りの淡々とした口調。
だが、その先――
「次は、
『『十日間の間
板の外にいた者』にも、
同じことを
してみてはどうでしょうか」
レオンは、一瞬だけ
意味を掴みかねて黙った。
ヨアナも、
眉をひそめる。
「『板の外』……?」
「『『前線』でも『長屋』でもない」
ギルゼンは、
視線だけで
どこか遠くを見る。
「『『総力戦十日間』のあいだも、
『『黒板の外』にいた者がいる。
――我らにとっては、
魔王陛下がそうです」
テーブルの空気が、
わずかに張り詰めた。
「『『魔王本人』は
十夜のあいだ、
黒板の外に立っていました」
ギルゼンの声は、
静かだった。
「『『十夜目まで持ちこたえろ』という
命令を出し、
『『十夜目のあと』に
『『再編』の欄』を残すことを許し――
――だが、
自分自身の
『『今日ここまで』を
黒板に載せることはしなかった」
レオンは、
息を呑んだ。
(――板の外にいる、
最も重い存在)
彼の脳裏に、
王都の王城で
自らの欄を持たない王の姿が浮かぶ。
王立労務局の板には、
王の勤務表は載っていない。
それは「畏れ」と
「遠慮」と
「仕組みの限界」の混ざった結果だ。
「……あなたは、
魔王陛下に
黒板の前に立ってもらいたい、と?」
レオンは、
慎重に言葉を選んだ。
「『『今日ここまで』の欄を
持たないままの者』が
『『世界の十日』を
背負い続ける状況を、
いつまで
放置するおつもりなのか――と」
ギルゼンは、
わずかに口元を歪めた。
「『『闇の側』の人間に
そう問われる日が来るとは
思っていなかったでしょう?」
「確かに」
レオンは、
苦笑するしかなかった。
「――しかし、
こちらからも
まったく同じ問いを
自国の王に投げかけたことがあります」
王の「今日ここまで」。
王の「焚き火○」。
王の「十日目のあと」。
どれもまだ、
板には載っていない。
(――それを載せるためには、
おそらく
『板の人間』だけでは足りない)
レオンは、
胸の内でそう結論づけていた。
だからこそ――
「そこで、です」
ギルゼンが
わずかに身を乗り出した。
「『『魔王本人の『今日ここまで』』を
黒板に載せるための
『労務監査』を行いたい。
その際――
『『光側の板の人間』にも
立ち会ってもらいたいのです」
テーブルの上の空気が、
一瞬、完全に止まった。
ヨアナが
小さく息を呑む音だけが響く。
「……今、
何と仰いましたか」
「聞き違いではありませんよ」
ギルゼンは、
穏やかに微笑んだ。
「『『異世界労務局は魔王にも裁定できるのか』。
――私は、
一度試してみたいと思っているのです」
レオンは、
自分の中で何かが
静かに音を立ててひっくり返るのを感じた。
(――この問いを、
他ならぬ『闇側の板の人間』から
投げかけられるとは)
総力戦十日間。
『前線四日』『焚き火○』『闇焚き火○』
『十日目のあと』『再編』『それから』。
そのすべての線の向こう側。
板にも黒板にも
書かれていない場所に、
もう一枚、
もっと大きな板を
立て直さねばならない場所が
確かに存在するのだということを、
嫌でも思い知らされる。
「……一つだけ、
先に確認しておきたい」
レオンは、
深く息を吸い込んだ。
「それは、
『『魔王を倒すため』の場ではなく――
『『魔王にも『今日ここまで』と言わせるため』の場だと、
そう理解してよろしいのですね?」
ギルゼンの目が、
わずかに愉快そうに細められた。
「ええ。
『『魔王を辞めさせる』意味での裁定』は、
こちらの仕事です。
――ですが、
『『魔王に『今日ここまで』と言わせる』意味での裁定』なら、
あなた方の出番かもしれない」
*
砦の窓の外で、
太陽が少し傾き始めていた。
光と闇の境界線は、
相変わらず遠くにある。
だが、
そのどちらからも
少し離れたこの「色のついていない場所」で、
新しい問いが
静かに板の上に書かれた。
《※『異世界労務局は魔王にも裁定できるのか』
→中立地監査案:検討》
レオン・グラハムは、
その文字を見つめながら
(――さて)
と、
いつものように胸の内で呟いた。
(『『次の十日』に備える板の隣に、
もう一枚、
『『魔王の十日』の板』を用意する仕事が
今日から始まる、というわけか)
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、
「魔王の働き方」を
誰も板に載せようとしなかった世界に、
『『魔王にも『今日ここまで』と言わせる』という
馬鹿げていて真面目な相談を
光と闇の板の人間が
同じテーブルで交わした一日が
確かに一度、
存在した分だけ。
そして、
その一日の記録が
白い板にも黒い板にも、
小さな文字で
しっかりと刻まれてしまった以上――
『異世界労務局は魔王にも裁定できるのか』という問いに
いつか答えを出さねばならないのだと、
誰もが
どこかで分かってしまった限りは。




