四十話 総力戦十日目、線の先に何を残すか
総力戦十日目の朝。
雲はまだ厚く、
風は冷たい。
けれど、
昨日までと決定的に違うことがひとつあった。
――誰もが、
「今日が最後だ」と知っている。
板の前に立つ者も、
泥の上に立つ者も、
門の前に立つ者も、
闇の中に立つ者も。
十日目の欄に、
まだ何も書かれていないその空白が、
今は「終わり」ではなく
「ここから先を決める場所」のように見えた。
*
王立労務局一階。
巨大な“総力戦板”の前で、
レオン・グラハムは
最後の列に指を触れた。
「十日目」。
その右隣には、
昨日、無理やりこしらえた小さな欄。
《それから》
そこにはまだ、
誰の名前も書かれていない。
「……十日目、いきましょう」
ミーナが、最初の札を握る手を一度きつく握りしめてから、
ゆっくりと読み上げた。
「――灰の谷第一砦より。
『十日目、決戦配置。
第一・第二中隊、
『今までの十日で一番“揃っている”人員を前列へ。
第三・予備中隊、
『『万が一の後退線』と
『負傷者の搬送路』の確保。
――『本日時点で、
『前線四日以上連続』の兵はゼロ。
『七日目までに足を痛めていた兵、
全員、今日は『後ろ二つ目』の列』」
ヨアナが、
前線欄に素早く記入していく。
《十日目 前列:第一・第二(条件満たす者のみ)
後列:第三+休養明け組(退路・搬送担当)》
「……『『一番揃ってる』って言葉、
十日目に聞けるとは思いませんでした」
リシアが、
どこか感心したように呟く。
「『『一番疲れている』じゃなくて」
「八日目に一刻下げて、
九日目に欲張らなかったおかげ、かな」
レオンは、
板の前線の線をそっとなぞる。
「――勇者庁は?」
ミーナが次の札を開く。
「『十日目、
勇者パーティーは灰の谷第一前線にて
『決戦支援+退路の防衛』。
城門番は、
『今日一日、城門を『戻ってくる者のために開けておく』役目。
――『『出ていく者を送り出す門番』ではなく、
『戻ってくる者を迎える門番』として立つ』」
ヨアナが、
勇者欄と城門欄に丸をつける。
《十日目 勇者 決戦前線
門番 迎えの門○》
「『迎えの門』って書き方、
広報院の匂いがしますね」
ミーナが少し笑った。
「『送り出す門』だけだと、
十日目が『片道』になっちゃいますから」
「……いいじゃないか、そういう言葉遊び」
レオンは、
勇者庁から回ってきた簡易報告書に目を落とす。
《※六日目焚き火○の参加者のうち、
十日目前線に名を連ねる者の比率は
当初想定より一割高い》
「『火の前で休んだやつ』ほど、
最後まで前に出たがる」
「『闇焚き火○』でも似たようなこと、
言ってましたよね」
ヨアナが、
闇側からの古い通信札を一枚つまみ上げる。
レオンは、
思わず口元を緩めた。
「――闇側の板は?」
「来てます」
ミーナが、
黒縁の札をそっと広げる。
『――《黒の雨》十夜目。
第一影部隊 前線浸透。
第二影部隊 撹乱・退路切り。
七夜目に闇焚き火○を経験した影、
十夜目の『前に出る』率、やはり高め。
『『十夜目まで』の欄』の右隣に、
『再編』と書いてあったおかげで、
『『今夜全部使え』の声』が
少しだけ静かだ。』
「……向こうも、
『『全部使え』の声』と戦ってるのか」
リシアが、
板の端を見つめる。
「どっち側も、
やることはあまり変わらないんですね」
「『人を数字にし過ぎない』って点では、
な」
レオンは、
深く息を吸い込んだ。
「――十日目。
今日は、『板の線』が
最も濃く、最も細くなる日だ。
『どこまで押し込めたか』より、
『どこまで戻ってこられたか』を
ちゃんと数字にしておく」
*
灰の谷第一前線。
雨上がりの空の下、
ぬかるんだ大地に
十日目の陣形が敷かれていた。
第一・第二中隊の兵たちが
深く息を吐き、武器を握り直す。
その背後には、
第三中隊と予備の兵たちが
「退路」と「運ぶ道」を見ている。
「――よし、
『昨日までの十日』で、
今日立てるやつだけ前にいるな」
ルガル中隊長が、
列の前をゆっくり歩きながら言う。
「『『今日も出たい』って言ってるのに
後ろに回されたやつ』もいる。
『『今日だけは勘弁してくれ』って顔してたやつ』は、
きっちり後ろにいる。
――『板の線』は、
だいたい守られてる」
「中隊長」
若い兵が、
少しためらいながら声を上げた。
「『十日目で全部終わる』って、
本当ですか?」
「『十日目で『この総力戦』が終わる』のは、本当だ」
ルガルは、
一瞬迷ってから、
正直にそう答えた。
「『戦争そのもの』が終わるかどうかは、
俺にも分からん。
――けど、
『今日ここで立っていられた時間』は、
必ずどこかの板に残る」
「……『板』ですか」
「うちの砦の板にも、
王都の労務局の板にも、
たぶん『どこかの闇の黒板』にもだ」
兵たちが、
何となく顔を見合わせて笑う。
「『闇の黒板』って、
ちょっと格好いいですね」
「格好いいかどうかは知らんが――
『向こうの板の前にも、
『『今日で全部使え』って声と
『『それから』を見たい』って声がある』のは、
多分変わらん」
ルガルは、
前線の先に広がる灰色の地平を見据えた。
「――さあ、『十日目の線』を引きに行くぞ。
『明日の欄』を、
誰かが書けるように」
*
勇者庁・前線支援拠点。
アレクたちは、
いつものように簡単な掛け声もなく
淡々と準備を終えた。
剣を握り、
鎧の紐を確かめ、
それぞれの役目を短く確認する。
「――十日目」
ナナが、
半ば自分に言い聞かせるように呟く。
「『『十日目まで』って、簡単に言うけどさ。
『今日倒れたら、
『『それから』の欄に何も書けないんだよね」
「だから、『倒れない範囲で暴れる』」
フィルが、
いつも通り淡々と答える。
「『『十日目だから全部出す』ってやつ』は、
だいたい途中で転ぶ」
「『十日目だから、
『十一日目に筋肉痛になってもいい』くらいを出す」
マリアが、
どこかおどけた調子で付け足した。
「『『十二日目に歩ける』くらいは残しておく』」
「――勇者様」
迎えの門番を担当する兵が、
少し照れくさそうに声をかける。
「『城門の板』に、
今日の欄、『こう書いてきました』」
彼は、丸めた紙を差し出した。
《十日目 門番
『出ていく者を見送る』ではなく、
『戻ってくる者を迎える』ために立つ》
「……いいね」
アレクは、
素直に笑ってその紙を受け取る。
「『戻ってくる者』がいるって前提の言葉、
俺は好きだよ」
彼は腰の袋にその紙をしまい、
剣を抜いた。
「――じゃあ、
『戻ってこれる線』を、
作りに行こうか」
*
王都北区・長屋。
十日目の昼。
共同部屋の板には、
いつもの欄に加えて
昨日からの紙が貼られたままだ。
《十日目が終わったらやること》
『よく寝る』
『足湯』
『新しい鍋を買う』
『靴を直す』
『いっぱいあそぶ』
『旦那を殴る(※やっぱり冗談)』
マルタは、
豆を煮ながらその紙を見上げる。
「……『『終わったら』って欄があるだけで、
スープの味、ちょっと変わるわね」
「『良くなる』って意味ですか?」
エルナが尋ねると、
マルタは肩をすくめた。
「『濃く感じる』ってほうかもね。
『『ここまで』だけ』見てる鍋と、
『『それから』も見えてる鍋』って、
やっぱり違うのよ」
彼女は、
板の「今日ここまで」の欄に
さっと○をつける。
「――十日目だからって、
『今日全部やる』必要はない。
『『今日も生き残る』くらいにしときましょう」
*
闇の谷。
《黒の雨》十夜目。
黒板には、
びっしりと矢印と名前と数字が並んでいた。
《第一影部隊 十夜目 前線浸透》
《第二影部隊 十夜目 撹乱・退路切り》
《七夜目闇焚き火○経験者 前線志願率↑》
その右隣。
《十夜目のあと 再編》
まだ中身は白紙。
だが、その欄が残っていること自体が、
この十夜目の戦い方に影響を与えていた。
「――『十夜目まで持てばいい』って顔、
減りましたね」
副官が、
黒板を見上げながら言う。
「『『十夜目のあと』の欄』、
結構効いてますよ」
「『欄』ってのは、
埋まってなくても効く」
ギルゼン・ヴァルナは、
冷静に答えた。
「『『ここに何かを書くかもしれない』って思う奴』は、
『『今夜全部捨てよう』って思いづらくなる。
――光側も、
似たような欄を板に作っているらしい」
「『『板の向こう』も、
だいたい同じことしてますね」
「違うのは、
『何色の雨』を降らせているかくらいだ」
ギルゼンは、
黒板の隅に小さくこう書き足した。
《※十夜目、『全部使え』の声に対し
『『それから』を見ているか』を問うこと》
「――前に出る影には、
こう言って送り出す。
『『今夜の線』の先に、
『『それから』を書ける場所を残してこい』と」
*
王立労務局・夜。
十日目の報せは、
日が沈む少し前から
途切れ途切れに届き始めた。
「――灰の谷第一砦より、
『十日目決戦、
『前線、昼過ぎまで維持。
『敵、日没前に後退。
『第一・第二中隊、
『『即時死亡』ゼロ。
『重傷者あり。
『退路・搬送路、
『第三中隊と補給部隊により確保。
――『十日目終了時点で、
『兵員生存率、
当初最悪想定より
『一割五分高』」
ミーナの声が、
少し震えた。
「『一割五分』……」
ヨアナが、
自分の計算していた数字と見比べる。
「『『四日目まで』『七日目焚き火○』『八日目前線後退』『九日目圧力抑制』……
あのあたりで削った『今日の前進分』が、
この『一割五分』になってます」
「『『今日あと一歩』を、
毎日ちょっとずつ諦めた結果、か」
レオンは、
前線欄に丸をつけながら
ゆっくりと言った。
「――勇者庁は?」
「『十日目、
勇者パーティー、
『前線支援と退路防衛』を完了。
『城門、
『『戻ってくる者のための門』として
『日没まで開扉。
――『『六日目焚き火○』参加者、
全員生存。
『『『それから』の欄に何を書くか、
それぞれ迷っている模様』」
ミーナが最後の一文を読んだとき、
部屋に小さな笑いが起きた。
「……『迷っている模様』って、
広報院の観察ですね」
リシアが目を細める。
「『『迷えている』ってだけで、
だいぶ贅沢なことなんだけど」
「――闇側は?」
「来てます」
ミーナが札を掲げる。
『――《黒の雨》十夜目。
『十夜目、
『前線浸透・撹乱、予定どおり実施。
『七夜目闇焚き火○経験者の生存率、
『経験なしの影よりわずかに高い。
――『十夜目終結時点で、
『『再編』の欄に名前を書ける影が
『『当初想定より二割多い』』
「……二割、か」
ヨアナが小さく息を吐く。
「『『闇焚き火○』一晩で、
そんなに変わるもんなんですね」
「『火』そのものより、
『『戦果計上対象外』って一行』と、
『『十夜目のあと』の欄』の効果かもな」
レオンは、
板の端に新しいメモを書いた。
《※『『それから』欄の有無』と
『十日目生存率』》
そして、
通信札に返事を書き始める。
『――総力戦十日目。
こちらでも、
灰の谷の前線は日没前に落ち着いた。
『即時死亡ゼロ』という報せは、
十日分の板の前に立ってきた者への
ささやかな報酬だと思いたい。
『六日目焚き火○』に参加した者も、
『八日目に前線を一刻下げる』と決めた者も、
『九日目に圧力を抑える』と踏みとどまった者も、
『十日目に立つ線』の中に
静かに混ざっていた。
――そちらの黒板でも、
『七夜目闇焚き火○』と
『十夜目のあと・再編』の欄が、
『『当初想定より二割多い生存』という数字に
変わったと聞く。
「総力戦十日目、線の先に何を残すか」という問いに、
今のところ、
『『ここまで押し上げた線』と同じくらい、
『ここまで戻ってきた丸』を残したい』と答えておく。
光でも闇でも、
『『今日の全部』を線の先に捨てる』のではなく、
『『それから』を書ける者を
少しでも多く板の前に残す』ことが出来ているうちは、
世界は、まだ少しだけマシだと思いたい。』
*
総力戦十日目の夜。
灰の谷第一砦では、
中庭の焚き火の前に
「十日目まで」の当直表が一枚、
静かに外された。
代わりに貼られた紙には、
こう書かれている。
《『ここまで立った者たちへ』
『明日からの当直表は、
『今日ここまで』のあとで考える》
勇者庁の裏庭では、
六日目と同じ場所に
小さな焚き火の跡が残り、
そのそばの板の隅に
『十日目のあと』という欄が
新しく描き足された。
《『家に帰る』
『報告を書く』
『長屋のスープを飲みに行く』》
王都北区の長屋では、
共同部屋の板から
「総力戦特別欄」の紙が一枚ずつ外され、
代わりに、
いつもの「今日ここまで」が
少しだけ軽い筆づかいで書き込まれた。
闇の谷では、
黒板の「十夜目」の欄の下に
『再編』の名前が少しずつ増え、
闇焚き火○の跡には
今夜は火を起こさないことに決まっていた。
――「『数字にならない夜』は、
また今度でいい」と。
そして、王立労務局の板の上では。
十日分の列のすべてに
丸と線と小さな文字が埋まり、
その右隣に描かれた「それから」の欄に、
初めて一つだけ文字が書き込まれた。
《レオン・グラハム
『一日寝る』
『板を一枚減らす』
――『それから、
次の板のために
今日までの板を取っておく』》
レオンは、
チョークを置き、
板から一歩離れる。
十日間、
この板の前で線を引き続けてきた足が、
少しふらついた。
「……お疲れさまでした、レオンさん」
ヨアナが、
深く頭を下げる。
「『十日目の丸』、
ちゃんとつきましたね」
「『全部きれいな丸』ってわけじゃないけどな」
レオンは、
板のあちこちに残る擦れた線と
消し跡を見やった。
「――でも、
『引きっぱなしで終わった線』は、
多分、ない」
ミーナが、
そっと窓を開ける。
外の空気は冷たいが、
雨の匂いはもう薄い。
「……総力戦、終わりましたね」
「『この十日間』はな」
レオンは微笑んだ。
「『次の十日』が来ないなんて、
誰にも言えないけど――
『『十日で全部終わらせろ』って声』に、
全部を渡さずに済んだだけでも、
少しは上出来だろ」
*
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、
「総力戦だから」と言えば
人も物も火も板も全部「使い潰していい数字」としてしか
見ていなかった世界に、
『今日ここまで』と書かれた板と、
『焚き火○』と、
『闇焚き火○』と、
『十日目のあと』『再編』『それから』の欄が、
光側にも闇側にも
確かに残った分だけ。
そして、
そのどれかの前に立って
線を引いたり丸をつけたりする誰かが、
「世界は、まだ少しだけマシだと思いたい」と
本気で書き続けている限りは。
――物語は、まだ、続く。




