四話 前線キャンプと、穴だらけの当直表
王都を出て三日目の夕暮れ、前線キャンプが見えた。
土塁と木柵で囲まれた小さな砦。
魔王軍との主戦場である黒鉄山脈の手前、いわば“中継地点”だとリシアは説明してくれた。
「ここから先は、偵察と小競り合いの繰り返しだ。今回はその一つ、ってわけだな」
アルズが肩越しに言う。
言葉とは裏腹に、その横顔には疲れと警戒が同時に浮かんでいた。
門の上から見張りの兵がこちらを認め、慌てて鐘を鳴らす。
「勇者様ご一行、ご到着だー!」
耳慣れた歓声とざわめきが、砦の中からこちらへ押し寄せてくる。
その中に、ひときわ固い声が紛れた。
「勇者一行と、労務局監査官、それに護衛騎士……だな」
門の内側で待っていたのは、年嵩の軍人だった。
鉄の灰のような短髪に、深い皺。胸元の勲章は、いくつもの戦場をくぐってきたことを物語っている。
「前線中継拠点指揮官、ハロルド・クラインだ」
「王立労務局、監査官のレオン・グラハムです。今回の行軍でお世話になります」
俺が頭を下げると、ハロルドは一秒だけ徽章に視線を落とし、そのままこちらを値踏みするように見た。
「……噂どおり、本当に来たのか。役所の人間が」
「書類だけでは現場が分かりませんので」
なるべく柔らかい口調で返すと、ハロルドは鼻を鳴らした。
「まあいい。中を案内する。勇者殿はいつもの宿舎で構わんか?」
「ああ。場所も流れも分かってる」
アルズが頷き、俺たちは砦の中へ足を踏み入れた。
*
中は雑然としていた。
簡易テントと木造の barrack〈兵舎〉がひしめき合い、行き交う兵士たちの顔には疲れが刻まれている。
それでも、俺が王都で見た“過労で倒れた兵士たち”に比べれば、まだマシに見えた。
(……少なくとも、今この瞬間は)
現場が本当にどう回っているかは、時間帯ごとに見ないと分からない。
「まずは全体の配置を頭に入れておけ」
ハロルドは歩きながら、最低限の説明をよどみなく続けた。
「あの一角が歩兵隊、その奥が弓隊。東側の柵の向こうが偵察部隊の出入口だ。医療テントは中央。飯場はその隣だ」
俺は頭の中で簡単な見取り図を描きながら、ふと一枚の板に目を留めた。
兵舎の壁に打ち付けられた、手書きの表。
「これは……当直表ですか?」
「そうだ。見張りと巡回の割り振りだな」
ハロルドは立ち止まり、腕を組んだ。
「人手が足りん。だから無駄は一つもない」
板には、兵の名前と持ち場、時間帯がびっしりと書き込まれている。
ぱっと見では分からないが、少し視線を滑らせれば、いくつかの“穴”が見えた。
同じ名前が、短い間隔で何度も出てくる。
“休み”と書かれた欄がほとんどない者もいる。
「……この“ヘンリー伍長”、三日連続で夜明け前の見張りに入っていますね」
「夜目が利くからな。適材適所だ」
「その分、昼の休みを増やしてある、ということはなく?」
「昼間も人手は要る。誰かが倒れれば、その穴を埋めるために誰かが動く。そういうもんだ」
淡々とした口調だった。
そこには悪意はない。ただ、“それ以外のやり方を知らない”だけだ。
(……これが、“今までの普通”か)
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、俺は板から目を離した。
「当直表の写しを取らせてもらっても?」
「好きにしろ。邪魔にならん範囲ならな」
ハロルドはそれだけ言って歩き出す。
背中越しに、ぽつりと付け足した。
「――あまり、“理想論”だけで殴らんでくれよ」
「理想だけで現場は回らないことくらい、会計局時代に嫌というほど学びました」
俺は短く返した。
「だからこそ、“今すぐ変えられるところ”と“時間をかけて変えるしかないところ”を分けて考えます。そのために来ました」
ハロルドは何も言わなかった。
ただ、わずかに歩幅が緩んだ気がした。
*
勇者パーティーの宿舎は、砦の中でも状態のいい barrack の一つだった。
「ここが俺たちの寝床だ。まあ、“寝る暇があれば”って話だがな」
ガロンが苦笑しながらベッドを指さす。
アルズとエルミアも、自分の持ち場を確認している。
俺とリシアには、隣室の空きスペースが割り当てられた。
藁を詰めた簡易ベッドと、小さな棚。それだけだが、雨風がしのげれば十分だ。
「まずは荷物を置いて、全体のブリーフィングだな」
アルズが腰の剣を外しながら言う。
「日没までに今日の偵察計画を詰める。監査官、お前も来い。どこまで見せるかは、こっちで決めるがな」
「感謝します」
俺は素直に頭を下げた。
現場の作戦会議に監査官が同席できるのは、大きい。
そこで“どこに負担が集中しているか”の仮説を立てられるからだ。
*
指揮テントの中には、簡易の机と大きな地図、それからいくつもの駒が並べられていた。
ハロルド、アルズ、リシア。
それに偵察隊長や魔術師隊からの代表もいる。
俺は一歩引いた位置に立ち、記録札にそっと指先を触れた。
(記録開始)
淡い光が一瞬だけ札の表に走る。
これで、ここで交わされた言葉と魔力の流れは簡易的に保存されるはずだ。
「――今回の目的は、黒鉄山脈手前の“第七前線拠点”の偵察だ」
ハロルドが地図の一点を指で叩く。
「魔王軍の新しい陣地構築の噂があるが、確認が取れていない。
アルズ一行には、いつものように最前列での索敵と、必要に応じての陽動を頼みたい」
「了解した」
アルズが即答する。
「偵察の規模は?」
「勇者パーティー+歩兵十名+弓兵五名。予備として後方にもう一隊控えさせる」
その瞬間、偵察隊長が少しだけ眉をひそめた。
「十名では薄すぎるのでは?」
「人員に余裕がない。ここから兵を引けば、別の持ち場が薄くなる」
「……しかし、“勇者パーティーに何かあれば”と考えると」
やり取りを聞きながら、俺は地図を覗き込んだ。
距離、地形、既知の魔物の出現情報。
それらを簡単に頭の中で組み立てる。
(距離的には片道半日。往復と索敵で、丸一日。
問題は、帰ってきたあとだな)
偵察から戻ってきたあと、アルズたちがどれだけ休めるか。
それとも、そのまま夜襲に備えて詰めさせられるのか。
前線での“働き方”は、その辺りに現れる。
「労務局として、意見はあるか?」
不意にハロルドに振られて、少し驚いた。
「……現時点では、作戦自体に口を出すつもりはありません」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、前回までの記録があれば拝見したい。
偵察→帰還→次の出撃までの間隔。
勇者一行と同行部隊の休息時間と、実際の行動内容を」
「ああ、そこは後で記録係から資料を出させる」
「ありがとうございます」
相手が“最初から完全拒否”ではないことに、少しだけ安堵する。
ハロルドは続けた。
「一点だけはっきり言っておくぞ、レオン・グラハム」
「なんでしょう」
「ここは、書類の上では王国領かもしれんが、実質的には“戦場”だ。
“誰がどこまで働くべきか”の線引きを決めるのは、最終的には俺の役目だ」
「承知しています」
「お前は“違う”と思ったら、何度でも言え。それが仕事だ。
だが、どこまで折り合いを付けるかは、こっちに決めさせろ」
それは、宣戦布告であり、同時に信頼の表明でもあった。
「こちらも、“どうしても譲れない線”は示します。その上で話し合いましょう」
俺は頭を下げた。
アルズが、そのやり取りを黙って見ていた。
炎のような瞳は、以前より少しだけ柔らかくなっている気がする。
*
会議が終わる頃には、テントの外はすっかり暗くなっていた。
砦のあちこちに灯がともり、夜の番の兵たちが持ち場につき始める。
「今夜の見張り当番表は?」
宿舎に戻る途中、俺はリシアに尋ねた。
「勇者一行は“休養扱い”だ。明日に備えて、今夜は基本的にフリー」
「“基本的に”?」
「緊急時は全部隊起こされる。前線ではよくあることだ」
リシアは苦笑する。
「あなたも、横になれるときに横になっておきなさい。
“監査官だから夜勤は免除”なんてルールはないんだから」
「それはそうだな」
とはいえ、寝る前にどうしても見ておきたいものがあった。
*
砦の外周を回る夜警に同行を申し出ると、最初は渋い顔をされたが、「邪魔はしない」と約束してなんとか許可をもらった。
月明かりの下、土塁の上を歩く兵士たち。
槍を肩に担ぎ、決められた歩幅で歩き続ける。
「何刻ごとに交代しているんですか?」
「今は二刻ごとだ。人が足りねえから、一晩で二回回ってくる」
「一人あたり、夜勤は週に?」
「……運が悪いと、三回はあるな」
兵士は苦笑する。
「ま、魔王軍は夜目が利く奴が多いからな。こっちが気を抜けば、一発で柵まで来られちまう」
「昼の訓練もあるでしょうに」
「昼に寝ればいいだろ?」
軽口のように言いながら、その目の下にはしっかりと隈があった。
(この調子だと、“誰かが倒れてからやっと枠を空ける”パターンだな)
記録札にそっと触れ、今のやり取りを保存しておく。
「“理想”を言えば、一晩に一回がいいんですがね」
「気持ちはありがてえけど、現場はそうもいかねえよ」
兵士は肩をすくめる。
「でも、“そうもいかねえ”って言ってばかりでも仕方ねえ。
――あんたが上に何か言って、ちょっとでも楽になるなら、期待くらいはしてる」
その声は、冗談半分、本気半分だった。
「全員分いきなりは無理でも、“怪我明け”とか“疲労が溜まってる奴”から順番に暇を回すとか、やりようはあると思います」
「それを考えてくれんのが、あんたらの仕事なんだろ?」
「ええ。そのために来ました」
月明かりに照らされた土塁の上で、俺は小さく頷いた。
*
夜半前、ようやく自分の寝床に戻ってきた。
藁の軋む音。
隣の部屋から聞こえる、巨漢がかくいびき。
遠くで時を告げる鐘の音。
胸元の護符に触れると、微かにあたたかな感触が返ってきた。
(……現場は、思っていた以上にギリギリだな)
勇者パーティーだけではなく、支える兵士たちも含めて。
“誰かが倒れるまで回し続ける”やり方を、どこかで変えなければならない。
だが、どこから手を付けるか。どこまでなら現実的に回せるか。
それを決めるためには、まだ材料が足りない。
「明日の偵察で、もう少し見えるか」
呟いたところで、扉が軽くノックされた。
「レオン、起きてるか?」
アルズの声だ。
「起きてますよ。どうぞ」
扉が開き、赤毛の勇者が顔を覗かせる。
「少し、いいか」
「こちらこそ、何か?」
アルズは部屋に入り、壁にもたれるように立った。
昼間の鎧は外しているが、肩の力はまだ抜けきっていない。
「……さっき、外周を歩いていたそうだな」
「見張りの様子を見に行きました。記録も取っています」
「ハロルドが、“理想論をぶつけられる覚悟はしている”って笑ってた」
アルズは小さく息を吐く。
「俺は、正直に言えばまだ、お前が何をどこまで変えようとしているのか、掴み切れていない」
「俺自身も、まだ掴み切れていませんからね」
「だろうな」
少しの沈黙。
やがてアルズは、夜の闇の中でぼそりと言った。
「――セリーヌの件は、俺の落ち度だ」
予想していなかった言葉に、思わず息を飲んだ。
「いや、“修行だから”って言い訳を、一番最初に口にしたのは俺だ。
“魔王を倒さなきゃ世界が滅びる”って言い続けて、周りもその気にさせて……。
本人が“ついていきたい”って言ってるのをいいことに、制御を怠った」
拳が、ぎゅっと握られる音が聞こえた気がした。
「だからといって、今さら全部の責任をかぶるつもりもないが……“自分だけは正しい”って顔で、お前と向き合う気にもなれない」
「……それを俺に言う必要はないですよ」
「俺が言いたかったんだ」
アルズは俺を見た。
「お前が見てきた“現場の数字”が、どれだけ重いかは、少し分かってきた。
だから、明日からの偵察で、遠慮なく見てくれ。
俺たちがどこで無理をしていて、どこで手を抜けるかを」
「“手を抜けるか”なんて、勇者の口から聞くとは」
「世界を救うために必要なのは、“無茶”じゃなくて“最適化”だって、最近ようやく理解してきたところだ」
アルズが自嘲気味に笑う。
「……セリーヌにも、“ちゃんと休みながら強くなる方法”を見せてやりたいしな」
胸の中で何かが少しだけほどける音がした。
「分かりました」
俺は頷いた。
「明日は、“理想論ではないライン”を探します。
勇者と兵士と、監査官が全部ギリギリで立っていられる、その境目を」
「無茶な注文だな」
「世界を救うためですから」
言い返すと、アルズはふっと笑い、部屋を後にした。
扉が閉まる音がしたあと、俺はあらためて藁の上に横になった。
明日は、前線での初仕事だ。
勇者の背中と、兵士たちの足元と、見えない疲労の線を、全部この目で見なければならない。
目を閉じると、遠くで夜鳥の鳴き声がした。
それに重なるように、砦の見張り台からの掛け声が聞こえてくる。
――回れ右、持ち場交代。
その声が、いつか“無理のないリズム”に変わる日を想像しながら、俺は浅い眠りに落ちていった。




