三十八話 総力戦八日目、雨は誰の板も読まない
総力戦八日目の朝。
ようやく――と言うべきか、
とうとう――と言うべきか。
空から、本物の雨が落ちてきた。
最初は、石畳を斑点にする程度の細い雨。
やがてそれは、
土を粘土に変え、
荷車の車輪を重くし、
兵のマントをじわじわと冷やしていく。
ここ一週間「来るぞ来るぞ」と
空だけが脅していたものが、
ついに足元を掴みに来たかのようだった。
*
王立労務局一階。
巨大な“総力戦板”の前で、
レオン・グラハムは、
いつもより少し早くチョークを握っていた。
窓の外の雨音が、
板の前の沈黙を細かく叩く。
「――灰の谷第一砦より。
『第三・予備中隊、前線連続三日目。
本日、本来ならば交代の日。
ただし、
“砦と前線を結ぶ道がぬかるみにより半ば寸断。
『交代部隊の到着に遅延発生見込み。
――『前線勤務を四日目まで延長するか、
『一時的に前線を一刻分短縮するか、
判断を求む』」
ミーナが読み上げる声にも、
僅かに緊張が混じる。
「……来たか」
レオンは、
灰の谷第一の欄に書かれた文字を見つめた。
《連続前線四日まで》
板に最初に引いた線が、
雨ひとつで試される。
「『四日目まで延長するか』って選択は、
まだ板の内側ですよね」
ヨアナが確認するように言う。
「『五日目に突っ込む』話じゃない。
『三日→四日』か、『三日で切るために前線を一刻下げる』か」
「……『三日で切る』って、
言いづらいですよね」
リシアがぽつりと漏らした。
「『道が悪いから一刻下がります』って、
前線に居る人に言うのは」
「『雨のせい』って言ったところで、
矢は降ってきますからね」
ミーナが、窓の外を一瞬見やる。
「……まずは、道のほうを見ましょう」
レオンは、
板の一番下――
昨日から数字が入り始めた「道」の欄を指で叩いた。
《灰の谷街道 状態:泥濘・荷車速度半減》
《橋梁B 安全度:△(増水時注意)》
そして、
新しい札を一枚取る。
「――統一輸送本部からの報告は?」
「来てます」
ミーナが、別の水晶札を読み上げる。
「『灰の谷街道、
昨夜からの雨により
『荷車一台あたりの往復時間が一刻以上増加。
『馬の疲弊、昨日の二倍速で進行中。
『――人間の『前線四日まで』を守るための
荷車の『当直表』、
本日中に一段きつくする必要あり』」
「……『板に載る損耗』が、
『板に引いた線』を押し返してきましたね」
ヨアナが、
自分のメモにさらさらと書き込む。
「『道の悪化』って欄、
昨日までは『遠い話』っぽかったのに」
「『道の都合で前線を下げる』。
――多分、
この十日間のどこかで一度は通ると思ってたけど、
八日目で来ましたか」
レオンは、
意識して深く息を吸った。
「――砦とつないでくれ」
*
灰の谷第一砦。
雨に濡れた石壁の上で、
中隊長たちが
泥だらけの街道を見下ろしていた。
「……馬が半分、
脚を取られてるな」
「荷車も、
今日中に辿り着けるのは半分でしょう」
兵站係が、
濡れた紙を庇いながら言う。
「『前線との交代』を予定どおりやるなら、
――『前線の半分だけ』、
『一刻遅れ』で交代、とか」
「『半分』は、一番危ない」
第一中隊長が、
即座に首を振った。
「『三日立ったやつ』と『今日来たばかりのやつ』を
同じ列に並べると、
どこかで足が揃わなくなる。
『雨の日の隊列』でそれをやったら、
真ん中がちぎれる」
「『四日目まで我慢する』か、
『一刻分下がる』か、か」
そこへ、
砦の中庭から兵が駆け上がってくる。
「――王都労務局より、
『板の人』と通信繋がりました!」
中隊長たちは、
顔を見合わせてから、
砦の小さな通信室へ向かった。
雨脚が、
背中を叩くように強くなる。
*
砦の通信室。
『――こちら、王立労務局監査官レオン・グラハム。
第一砦・前線担当の方、聞こえますか』
「こちら、第一砦・第一中隊長、ルガル。
……『板の人』、
こっちは『板の外』が泥だらけだ」
中隊長の声には、
疲労と皮肉とが同居していた。
『――見えます。
『道』の欄が、
今朝から真っ黒になりかけていますので』
「『真っ黒』って言うか……
こっちは『真っ茶色』だがな」
余計な冗談を挟める余力が残っているだけ、
まだ救いはある。
『――前線は、
今、どんな様子ですか』
「『三日立ったやつ』が、
『やっと今日で交代だ』って顔をしてる。
『道がこんなだから、
『自分らがもう一日出るか』って言えば、
多分、出る」
ルガルの声には、
ほんの少しの誇りと、
それ以上の迷いが混じっていた。
「『一刻分下がる』って案もある。
『ここまで押し上げた線を一刻分戻す』。
『後ろに下がれば、
敵も『雨の道』を歩かざるを得なくなる』。
――『口では分かるが、
『板に引いた線』を自分の手で後ろにずらすのは、
気持ちのいいもんじゃない』」
『……分かります』
レオンは、
自分の前の板の「第一前線」の線を見た。
《ここまで押し上げ。撤退線A》
それを一刻分、
後ろにずらす――
紙の上の話ですら、
眉間に力が入る。
『――確認させてください。
『四日目まで延長』した場合、
その中隊の『八日目以降』の勤務はどうなりますか』
「『九日目と十日目の前線からは、
ほぼ外れる』だろうな。
『雨の日に四日目まで出たやつ』を、
『十日目の決戦』にそのまま立たせるのは、
俺でも躊躇う」
『――『一刻下がる』ほうを選んだ場合、
『十日目』に立てる人間の数は?』
ルガルは、
しばらく無言で紙の上を指でなぞっていた。
前線の地図。
兵の数。
道の状態。
「……『今日、一刻分下がる』なら、
『十日目に前に出せる中隊』が、
最低でも一つ増える。
『今日、四日目まで出る』なら、
『十日目に立てる中隊』が、
確実に一つ減る」
『――では』
レオンは、
板の前線欄を見ながら、
あえて静かに言った。
『雨は、
『板の線』を読みません。
『道』の欄も、
『撤退線A』の文字も、
気にせずにぬかるみを作ります。
――だからこそ、
『人間のほう』が、
『どこで下がるか』に責任を持つしかありません。
『今日、一刻分下がった』という記録は、
『十日目に立てる一列』として、
ここに残します』
レオンは、
板の「第一前線」の線を、
ほんの少しだけ後ろに描き直した。
そして、
その横に小さく書きこんだ。
《八日目 雨天により一刻分後退。
その代わり、
十日目の前線に立てる中隊+一》
『――ルガル中隊長。
これは、
『今日の雨』と
『十日目の空』のどちらを選ぶか、という話です。
『今日の雨の中で前に立つ時間』を一刻減らして、
『十日目の夕暮れまで前に立てる人間』を
少しでも増やすかどうか。
――板のほうでは、
『後ろにずらした線』の横に、
『十日目+一』って書いておきます』
通信の向こうで、
ルガルが短く笑った。
「……『雨の日に後ろに下がった』って、
きっと誰かに陰口叩かれるぞ」
『そのときは、
『十日目にもまだ前に立っていた』やつが、
『いいから黙ってろ』って言ってくれるはずです』
しばしの沈黙の後。
「――分かった。
『一刻分、下がる』」
ルガルの声には、
まだ苦味は残っていたが、
決意はあった。
「『四日目まで出させてくれ』って言うやつもいるだろう。
それでも、
『板の線』を一度後ろにずらした以上、
今日は『ここまで』だ」
*
その頃、
統一輸送本部。
雨に濡れた荷車の図と数字が、
帳場の板にびっしり並んでいた。
「――労務局から入った『新しい順番』、
本当にやるのか?」
「やるしかないだろう。
『壊れた荷車』を戻すより、
『負傷兵』を戻す。
『片輪が怪しい車』は、
『今日ここまで・この村まで』」
中年商人が、
自分の板に書き込んでいく。
《馬 B群 二日連続走行後・一日休養》
《荷車 C群 灰の谷街道への出入り禁止》
「『雨は誰の板も読まない』が、
『板を読んでいる人間』は、
今日から少しだけ変わる」
そう言って、
彼は自分の欄にも小さく書き足した。
《本日 『壊れた商売』より『生きて帰る客』を優先》
*
王都北区・長屋。
昼過ぎには、
屋根を叩く雨音が会話の隙間をうめていた。
共同部屋の板には、
新しく「天気」の小さな欄ができている。
《晴/曇/雨/嵐》
今日は、
『雨』に太い丸がついていた。
「……『雨の日の『今日ここまで』、
ちょっと変わりますね」
エルナが、
洗濯物の籠を見つめながら言う。
「『外に干せない』ってだけで、
『今日はここまで』の基準が勝手に変わる」
「『天気は板を読まない』からね」
マルタが、
火の弱い竈に鍋をかけながら笑う。
「『板のほう』が、
『雨の日はここまで』って言ってやらないと。
――ほら、
『床の拭き掃除』の欄、
今日は×にしておきなさい」
「……いいんですか」
「『雨の日の床』は、
どうせすぐまた濡れる」
マルタは、
躊躇するエルナの手を取って、
板の「床」の欄に×をつけさせる。
「『今日ここまで』って言えないと、
『明日も明後日も』しんどいのよ。
――『前線』も、『家』も、『道』も」
*
闇の谷。
《黒の雨》八夜目。
外の雨音は、
洞窟の中にはほとんど届かない。
だが、
影たちは知っていた。
「地上がぬかるみになっている」ということを。
「――『八夜目は、
『雨を利用して一気に攻める』って案もありましたよ」
副官が、
黒板の前で言う。
「『泥に足を取られた光側を突く』って」
「『泥に足を取られる』のは、
こちらも同じだ」
ギルゼン・ヴァルナは、
冷静に返す。
「――黒板を見ろ」
黒板には、
《第一影部隊 前線活動 五/六》
《第二影部隊 交代準備》
そしてその端に、
昨日書き足された一行。
《七夜目 闇焚き火○(戦果計上対象外)→実施済》
「『七夜目の闇焚き火○』をやった影は、
『八夜目、前に出る』って自分から言い出した。
――『雨だから一気に行け』って言うなら、
『七夜目に火に当たったやつ』からだ」
「……『休んだからこそ出る』、か」
副官は、
少しだけ笑って首を振る。
「『黒の雨』って名前、
最初に考えたやつ、
今どんな顔してるんでしょうね」
「『雨は誰の板も読まない』って顔だろう」
ギルゼンは、
黒板の隅に小さくこう書き足した。
《※八夜目、『雨による前線位置の変動』あり。
『前に出られない夜』も、『板の一部』》
*
王立労務局・夜。
雨音がまだ続く中、
レオン・グラハムは
八日目の丸を埋めていた。
「――灰の谷第一前線、
『雨天により一刻分後退』。
『連続三日で交代』、
ギリギリ維持。
『十日目に立てる中隊』、
見込み+一。
輸送本部、
『馬』『荷車』の当直表、
雨天仕様に修正。
長屋、
『雨の日の今日ここまで』欄、
『床掃除』×多数」
ヨアナが、
隣でくすりと笑う。
「『床掃除』まで板に載るんですね」
「『靴の穴』が載るくらいですからね」
リシアが肩を竦める。
「――勇者庁は?」
ミーナが、水晶の札を確認する。
「『八日目、
前線支援+補給、予定どおり。
雨天により足元不良だが、
『六日目に焚き火○をしたおかげで
『足が上がる』という苦情あり。
『翌日、筋肉痛』とも」
「……それは、
『別の板』に書いてもらいましょう」
レオンは、
思わず吹き出しそうになった。
「――闇側からは?」
「来てます」
ミーナが札を広げる。
『――《黒の雨》八夜目。
地上、雨。
『七夜目に闇焚き火○をした影』の一部が、
『八夜目の前線』に自ら志願。
『『雨だから一気に』という声もあったが、
『『前に出られない夜』も板の一部』と
黒板に書いたところ、
『では、『前に出られる夜』に備えて
『足を洗っておく』か』と
意味の分からぬ冗談を言う影あり。』
「『足を洗う』って、
向こうにもそういう言い回しあるんですね」
ヨアナが、
くすくすと笑う。
「――返事は?」
レオンは、
少し考えてからペンを取った。
『――総力戦八日目。
こちらでも、
雨が板の文字を容赦なく濡らしに来た。
『三日で交代』の線と、
『ここまで押し上げた前線』の線が、
ぬかるみの中で同時に揺れた。
――その結果、
『今日、一刻分後退した前線』の横に、
『十日目に立てる中隊+一』という文字が
新しく書き込まれた。
「総力戦八日目、雨は誰の板も読まないか」という問いに、
今のところ、
『雨は確かに板を読まないが、
『雨の日にどの線をずらすか』を決めるのは
板の前の人間だ』と答えておく。
光でも闇でも、
『前に出られない夜』や
『後ろに下がる日』を
『板の一部』として書き込めているうちは、
世界は、まだ少しだけマシだと思いたい。』
*
総力戦八日目の終わり。
砦では、
前線が一刻分下がった分だけ、
ぬかるみに足を取られる兵の数が
ほんの少し減った。
馬屋では、
「今日は走らない馬」の欄に○がつき、
「明日まで走れる馬」が
かろうじて残された。
街道では、
壊れかけた荷車が
村の外れに置き捨てられ、
その代わりに、
負傷兵を乗せた荷車が
ぬかるみをゆっくり戻ってきた。
長屋では、
床の泥を見てため息をつきながらも、
「今日はここまで」の×を
少しだけ軽い気持ちでつける手があった。
闇の谷では、
闇焚き火○の灰を踏んで
前線に戻る影たちが、
雨音を聞き分けながら歩き出した。
そして、王立労務局の板の上では――
初めて、
「前線の線」が後ろにずれた日付と、
その横に書かれた
「十日目+一」の文字が、
静かに乾き始めていた。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、「雨だから仕方ない」と言って
ひたすら前に押し出すだけだった世界に、
「雨の日に下がる線」と
「その代わりに十日目に立つ丸」が、
一本ずつ増えた分だけ。




