三十四話 監査官の焚き火はどこにあるか
総力戦四日目の朝も、雲が低かった。
砦では、第一・第二中隊がようやく三日の前線から戻り、
代わりに第三・予備中隊が前へ出る準備を始めている頃。
王都では、勇者庁の裏庭の隅に
「六日目・焚き火○予定地」と小さな杭が打たれた頃。
そして、王立労務局では――
「――今日は、来るな」
開庁時間きっかりに現れたレオン・グラハムを待ち構えていたのは、
入口で仁王立ちするバルド局長だった。
「……いやいやいや。
総力戦四日目ですよ? 板がいちばん忙しい日ですよ?
ここに監査官がいないとか、冗談にしても――」
「冗談じゃない」
局長は入口から一歩も退かない。
「お前、自分で言ってたろ。
『前線に四日以上立たせるな』『板の前にも倒れてはいけない者がいる』って」
「倒れてませんよ。ほらピンピンしてます」
「その“ピンピンしてる顔”を、
三日目前線から戻った兵の顔と見比べてから言え」
バルドは窓際の簡易勤務表をあごで示す。
《王立労務局・総力戦中・勤務表》
レオン・グラハム
一日目 戦況把握・調整 ●
二日目 戦況把握・調整 ●
三日目 戦況把握・調整 ●
四日目 焚き火○(完全休養)
その横に、ヨアナの細い字がある。
《※本人の意思にかかわらず厳守》
「……なんですかこの※印」
「現場の総意だ」
背後には、にこにこ笑うリシア。
「昨日の夜、ミーナとヨアナと三人で書きました。
“レオンが今日休まないと、この先『休ませろ』って言うたびに説得力がなくなる”って」
「そんな民主主義いらないんだけど」
「民主主義じゃなくて、多数決だ」
局長は肩をすくめた。
「――四日目、お前は“板の外”に出ろ。
午前はうちで回す。
午後からは広報院と商会の数字屋を借りる手筈もつけた」
「抜け目ないな、局長……じゃあせめて午前だけ――」
「ダメです」
ミーナが前に出て、ぴしゃりと言う。
「『完全休養』って、レオンさんが勇者庁に言ったんですよ。
“誰か一人でも仕事を始めたら、その日は完全休養じゃなくなる”って」
「……言ったね」
「だから入口を一歩でも越えたらアウトです」
ミーナは、小さな板を取り出す。
《本日 レオンさんが仕事をしそうになった回数》
今は「0」。
「ここから先、これが『1』になったら、
今日の“焚き火○”は消えます」
「新手の脅しだな……」
レオンはため息をついた。
「……分かったよ。四日目、“板の前”からは下がる。
その代わり、何かあったら――」
「局長か私を通してください」
ヨアナが横に立つ。
「前線の急信も撤退線の相談も、
今日は“レオン以外が受ける練習”の日です」
バルドが最後に言う。
「――安心しろ。
お前の引いた線は、一日ぐらいお前が見てなくても消えん」
その言葉で、レオンはようやく肩の力を抜いた。
「……じゃあ、“板の外”の焚き火を探してきます」
「ちゃんと火のそばで飯食ってこいよ」
三人分の声が背中に飛んできた。
*
王都の街は、総力戦四日目にしては意外と“普通”だった。
品薄の市場、街路にちらつく兵の影――
それでも生活は続いている。
レオンは北区へ向かいながら、ふと思う。
(……どこに行くか)
思い出したのは、兵士の妻たちの板。
まだ設置して数日しか経っていない長屋の共同部屋。
(……あそこなら、“火”ぐらいはあるだろ)
生活の火。
湯気の火。
声の火。
板の前に立つばかりで、忘れかけていたものだ。
*
長屋の共同部屋は昼前なのに賑やかだった。
洗濯物の音、子どもの笑い声、
鍋をかき混ぜる木杓子の音。
中央に、例の“家庭版板”が立てかけられている。
朝・昼・夕の欄、
家ごとの名前、
「配給」「子どもの世話」「看病」「内職」「今日ここまで」。
隅には新しい欄も増えていた。
《総力戦中・旦那に言いたい一言》
『ちゃんと帰れ』
『靴下は自分で脱げ』
『手紙の返事を書け』
「――あら。“板の人だ」
振り向けば、洗濯物を肩にかけたマルタ。
「お久しぶりね、レオンさん。
……それとも今日は“某監査官”のほう?」
「今日は“休戦中の某監査官”でお願いします」
レオンは苦笑して頭を下げる。
「板の前を追い出されたので、“板の外の焚き火”を探しに」
「あら、うちの火でよければいくらでも」
マルタが竈を指す。
豆と野菜のスープが煮えていた。
「今日は配給の干し豆が多かったから、
“総力戦四日目記念・全部ぶち込んだスープ”よ」
「記念にしては質素ですね」
「記念日だから豪華にできる時代じゃないのよ」
マルタは笑った。
「でも、“みんなで食べる”だけで味は良くなるわ」
エルナが板を指す。
「見てください、『今日ここまで』の欄」
朝の分だけ小さな×と○が並んでいる。
「○は『終わったから今日はここまで』、
×は『残ってるけど今日はここまでにしたい』」
「『やらない勇気』の練習です」
「……なるほど」
レオンは、家庭板をじっと見る。
砦の板とは違う。
ここには、“生活の戦場”だけがある。
「レオンさん、今日は?」
マルタが聞く。
「あなたの欄は、“今日ここまで”どうなってるの?」
レオンは紙を取り出す。
《レオン・グラハム 本日》
朝 労務局に行こうとして入口で止められる(×)
昼 どこかで飯を食う(○予定)
夕 どこかで火を見る(○予定)
「……入口で止められたのは書いた覚えはないけど」
「それ、“誰か”が書いたんでしょうね」
マルタが笑う。
「“自分の欄に自分で×をつけられない人”って、
どこにでもいるものよ」
「ぐさっと来るな……」
「じゃあせめて、昼の○と夕方の焚き火○は埋めてくださいね」
「約束します」
マルタはスープをよそいながら言った。
「“『板の外で休めた監査官』って噂は、
前線の兵にも効きますから」
*
豆スープは驚くほどおいしかった。
豪華さはないが、
温かかった。
「……うまい」
レオンが漏らすと、マルタは鼻を鳴らす。
「“そりゃそうよ。
“『今日ここまで』に○つけてから煮てるんだから。
“まだこれも、あれもって思いながらかき回す鍋と、
“ひとまず今はこれでいいって思ってかき回す鍋じゃ、味が違うのよ」
レオンは苦笑する。
「……忘れてた気がします。
板ばかり見てたから」
*
昼食後、
長屋を出たレオンは川沿いへ向かった。
火は焚けないが、
陽光と風と静けさがあった。
干しパンをかじっていると――
「レオン!」
広報院のマリア・ロウがやって来た。
「こんなとこで何してるんです?
前線から逃げてきたんですか?」
「追い返されました」
レオンは苦笑する。
「今日は“監査官の焚き火○”の日だそうで」
「広報院にも通達来ましたよ。
“監査官は完全休養”って」
「通達されてるのか……」
「ええ。
瓦版に『監査官も休む世界』って書こうかと思ったけど、やめました」
「正しい判断だと思います」
二人で笑い合う。
マリアが隣に腰を下ろす。
「――どうです? “板の外”は」
「正直、怖いですね」
レオンはつぶやく。
「自分が見てない間に、線が踏み越えられてないか……とか」
「十日全部、自分一人で見張るつもりだったんでしょう?」
「……まあ」
「だから今日、強制的に外に出されてるんですよ」
レオンは、小石を投げて波紋を眺める。
「……板を信じる練習ですね」
「板? それとも、人?」
「両方でしょうね」
マリアはふと思い出したように言う。
「さっき報せが来ましたよ。
“灰の谷の砦、中庭に『仕事の話をしない焚き火』を置いた”って」
「やったか……あの中隊長」
「瓦版の見出し候補には、
“《総力戦中、中庭の焚き火で兵がサボっている件》”ってのもありましたけど」
「それはやめてください」
二人で笑う。
「でもね」
マリアは川を見つめた。
「“サボり”と“休み”――
どっちの字を広めるかで、
総力戦後の空気は変わるんですよ」
「噂の板にも線を引く気ですか」
「もちろんです」
マリアは悪戯っぽく笑う。
「“休んだやつだけが、また立てる”――
この十日のあいだに、一回は広めておきたいんです」
レオンは本気で「頼もしい」と思った。
*
夕刻、労務局に戻ると、
入口の脇の板に新しい紙が貼られていた。
《本日・労務局勤務状況》
局長 ●(戦況把握)
ヨアナ ●(急信対応)
ミーナ ●(通信)
リシア ●(雑務・止め役)
レオン ○(焚き火・外出)
その横に小さく――
《※本日、レオンは入口を越えず 0回》
「0回って?」
「“仕事しそうになった回数”です」
ミーナが胸を張る。
「呼び戻されないか心配でしたけど」
「……まあ、ギリギリでしたね」
レオンは自分の○印を見つめる。
本日の焚き火は、
長屋の竈の火であり、
川辺の陽光であり、
この三人の顔でもあった。
「どうでした? “板の外”は」
リシアが尋ねる。
「……ちゃんと火はありました。
前線の中庭にも、
勇者庁の裏庭にも、
家庭の竈にも。
そして……労務局の外にも」
三人を見回し、レオンは笑った。
「ありがとう。
今日一日、板を守っていてくれて」
「こちらこそ」
ヨアナが微笑む。
「“休め”って言ってくれる板も、悪くないでしょう?」
「……うん」
本心からの頷きだった。
*
その夜遅く。
通信水晶が光る。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
レオンは札を開いた。
『――《黒の雨》四夜目。
こちらはまだ“闇焚き火○”の日ではない。
部下たちは七夜目に本当に休めるのかと疑い始めている。
だから今日、黒板の自分の欄にこう書いた。
『四夜目――現地視察(板の外)』
部下は笑った。
“監査官が板の外に出るのか”と。
――そちらの“某監査官”の欄はどうなっていた?』
レオンは微笑しながら返す。
『――総力戦四日目。
こちらの“某監査官”の欄には、
『四日目――焚き火○(完全休養・板の外)』
と書かれていた。
入口で追い返され、
兵の妻たちの板の前で豆スープを食べ、
街外れの川で噂の線引き役と並んで水面を眺めていた。
――“監査官の焚き火はどこにあるか”という問いに、
今のところこう答えておく。
『板の前ではなく、
“今日ここまで”と誰かが言ってくれる場所すべて』』
そして一行を添える。
『――光でも闇でも、
板の前に立つ者が一度は板の外に出て火に当たれるうちは、
世界はまだ少しだけマシだと思いたい。』
*
総力戦四日目の終わり。
砦では、中庭の焚き火の周りで、
「明日の陣形の話をしない時間」が一刻分守られた。
勇者庁では、六日目の裏庭焚き火○の準備が整い、
闇の谷では、七夜目の“煙の出ない火”が半分ほど完成した。
長屋では、“今日ここまで”の○をつける手が、
昨日より少し軽く動いた。
そして、王立労務局では――
監査官の欄にも、ようやく一つ、
「焚き火○」の印が
消されずに一日を終えた。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、“休めと言う側”が
自分の欄にも「今日ここまで」と書けた分だけ。




