三十三話 焚き火の丸は誰のものか
三日目の朝も、曇り。
ただ、砦の上に立つ兵たちの顔色は、
さすがに初日とは少し違ってきていた。
興奮は削れ、代わりに「続けるための緊張」が、
じわじわと筋肉と骨に残り始める頃だ。
*
王立労務局一階。
巨大な“総力戦板”の前で、レオン・グラハムは今日もチョークを握っていた。
「――灰の谷第一砦より。
『第一・第二中隊、前線連続三日目。
本日、予定どおり刻四つ目で第三中隊と交代開始。
日没前には砦に戻れる見込み』」
「三/4、ですね」
ヨアナが、小さく数字を書き足す。
《灰の谷第一砦 第一・第二中隊 3/4》
「――第三前線より。
『足を痛めた兵十五名のうち、七名、痛み軽減し歩行可能。
ただし、本日も前線復帰は見送り。
自分たちで「休」の印を消したがるので困っている』」
ミーナがくすっと笑いながら読み上げた。
「『休ませるって決まったから、ちゃんと休め』って返したそうです」
「良い隊長だ」
レオンは第三前線の欄に
「休(二/三)」と書き込み、軽く頷く。
「板の『休』の丸を自分で消したがるのは元気な証拠だ。
それを止められる大人がいるうちは、まだ大丈夫だ」
そのとき、別の通信水晶が柔らかく光った。
「――勇者庁より、勤務状況報告」
ミーナが新しい札を取る。
「『三日目、勇者パーティーは“支援・治癒中心+準備日”。
前線への出撃はなし。
灰の谷奥砦にて、負傷兵への治癒と作戦会議のみ』」
「『のみ』って言うほど軽くありませんよね」
ヨアナがぼそりと言う。
「一日中、怪我人と数字と顔を突き合わせるんですから」
「だからこそ、今日みたいな日を“前線戦闘”扱いにしない線を引いたんだ」
レオンは、勇者欄に丸をつけていく。
支援・治癒――●
準備・作戦会議――●
前線戦闘――空白。
「六日目の“焚き火○”も、そのままですね?」
ヨアナが板の端の印を確認する。
《六日目 勇者パーティー 完全休養(裏庭焚き火○)》
「変える理由はない」
レオンはきっぱり言った。
「前線がどれだけ慌ただしくても、“休む日”を予備扱いし始めた瞬間に全部崩れる」
「じゃあ、本当に六日目は焚き火なんですね」
「……ああ」
レオンはうなずきつつ、自分の勤務表を見る。
総力戦用・簡易勤務表(労務局)
一日目 戦況把握・調整 ●
二日目 同上 ●
三日目 同上 ●
四日目 レオンの焚き火○(予定)
――だが、その○印は、まだどこか他人事のように見えた。
*
その頃、灰の谷第一砦。
夕刻の冷たい風が砦の石壁を撫でていく。
一〜二日目と前線に出ていた第一・第二中隊が、
ようやく砦へ戻ってきたところだった。
「――おかえり!」
門番が大声で迎える。
泥と血と汗まみれの兵たちは、
それでもどこかほっとした表情で門をくぐった。
「三日目にちゃんと戻ってこれるなんて、夢みたいだな」
「夢じゃない。“板”のおかげだ」
中隊長が肩を回しながら笑う。
砦の中庭の板には
《第一・第二中隊 3/4》と大きく記されている。
「――隊長殿」
兵站係の兵が駆け寄る。
「前線勤務あとの“晩の使い道”、どうします?
今日は他の当直が詰まってますし、全部“自由時間”でよろしいですか?」
「全部自由にしたらどうなると思う?」
中隊長はにやりと笑った。
「半分は勝手に当直手伝いに行く。
残り半分は酒と喧嘩を始める」
兵たちが苦笑する。
「じゃあ、こうしよう。
今夜、中庭に“焚き火○”をひとつ立てる」
「焚き火○?」
「ああ。板の上ではなく、“地面の上”にだ。
《前線明けの晩は、ここにいる間“仕事をしない”》
って場所を作る」
一瞬、ざわつきが起こる。
「仕事をしない……?」
それはこの数カ月、ほとんど聞いたことのない言葉だった。
「もちろん、酒があるわけでも、女がいるわけでもない。
あるのは火と、湯と、薄い毛布と――
同じ中隊の顔だけだ」
中隊長は言葉を区切り、続けた。
「――それでも、
『ここでは仕事の話をしなくていい』って場所は、
前線帰りには必要だ」
若い兵がおそるおそる手を挙げる。
「“仕事の話禁止”って、
明日の陣形とかも駄目ですか?」
「駄目だ。
どうしても話したいなら、焚き火の外へ出てから話せ。
ここだけは“板の外の時間”にする」
その晩。
砦の中庭の片隅に、
いつもより少し大きめの火が焚かれた。
木箱と毛布が置かれ、薄いスープの鍋が煮える。
「うわ、本当に“仕事の話禁止”なんですね」
若い兵が火に手をかざす。
「『明日の当番どこだ』って聞いただけで上官に睨まれた」
「そうだ。
ここだけは、今日の飯の味と、昔の馬鹿話だけだ」
「贅沢な命令ですね、隊長」
焚き火の周りに、火の粉のような笑いが跳ねた。
砦の板には“焚き火○”の欄はない。
だがこの夜、土の上には確かに
炎の色で小さな丸が描かれていた。
*
一方その頃、勇者庁。
三日目の業務を終え、
資料に埋もれかけた若い官吏が裏庭の図面を前に頭を抱えていた。
「……本当に“焚き火”、やるんですか」
「やるよ」
アレクがさらっと答える。
横でフィルが薪の数を書き込み、
ナナが指先で図面をなぞる。
「『大きな火ひとつ』じゃなくて、『小さな火を三つ』ですね」
「勇者パーティーと、戻ってきた兵と、古い仲間と――
距離を置けるほうが話しやすいからね」
「門番たちが覗ける位置にも一つ欲しいな。
“当番が見てた”と文句言われたら困るけど、
『今度当番明けに来い』と言えるように」
「……仕事増えてる自覚はあります?」
官吏が泣き笑いになる。
「『完全休養』って、本来なら“紙に黒丸つけて終わり”でいいんですからね」
「でもその黒丸に、ひとつ“火の丸”を混ぜたいんだ」
アレクの言葉に、官吏ははっとした顔になる。
「……“『仕事としてじゃない丸』にするんですね」
「うん。
俺、自分が勇者だってこと――
焚き火の前だけは忘れてもいい気がするんだ」
官吏はふっと肩の力を抜いた。
「じゃあ、その丸、ちゃんと“仕事じゃない丸”にできるように準備します」
図面の端に、
小さく「焚き火○」と書かれた印が増えていく。
*
闇側。
谷間の洞窟に設けられた“統一兵站局・仮本部”でも、
奇妙な準備が進んでいた。
「……本気でやるのか、これ」
影兵が黒板を見て顔をしかめた。
《黒の雨・影部隊 七夜サイクル》
一〜六夜:交代前線活動
七夜目:闇焚き火○
ギルゼン・ヴァルナは腕を組み、黒板を見上げていた。
「不満か?」
「不満というか……“闇焚き火○”って名前が恥ずかしい」
洞窟にくつくつ笑いが走る。
「名前はどうでもいい。
七夜目には、六夜働いた影を
全部“火の届く場所”に集める。
武器を置き、飯を食い、
“次の標的”の話をしない――それだけだ」
「そんな甘やかしをしたら牙が鈍る」
別の幹部が言う。
「光の勇者は十日のうち六日も前線に立つらしいぞ。
こちらが七夜に一度休むなど――」
「六日も立つからこそ、四日の休みが要るんだろうが」
ギルゼンは遮った。
「牙を鈍らせるのは休みじゃない。
“限界を越えろ”を何度もごまかしに使うことだ」
黒板の端には、
小さく注釈が書かれている。
《七夜目は“闇に紛れたまま休む日”。
誰かが火の色を見てしまったら、それは仕事の時間》
「……火の色を見たら?」
「光を浴びた瞬間から“目撃者”になる。
だから七夜目の火は“外から見えない火”にする」
洞窟の奥では、煙の出ない魔法の火と、
暗闇でも見えるスープが煮えはじめていた。
(――“板の外に置くべき火”は、光でも闇でも大して変わらない)
*
三日目の夜。
王都。
労務局の窓から、街の灯りが点々と見える。
酒場の灯り。
教会のランプ。
家庭の竈の火。
レオン・グラハムは総力戦板の前で、
三日目の丸をつけ終えた。
「――三日目終了。
灰の谷第一砦、第一・第二中隊3/4。
第二前線、撤退線A維持。
勇者庁、支援・治癒+準備。
焚き火○は前線と勇者庁で準備中」
ヨアナがくすっと笑う。
「前線は“中庭の焚き火○”、
勇者庁は“裏庭の焚き火○”。
闇側は……『闇焚き火○』でしたっけ」
「名前のセンスは見なかったことにしてくれ」
レオンも笑う。
「でも、“焚き火の丸”を紙に書くだけじゃなく、
実際に“火の形”にしてくれている人たちがいるのは悪くない」
「レオンの焚き火○は?」
リシアが机をつつきながら言う。
「四日目のやつ。
ちゃんと火の形にするんでしょうね?」
「……そのつもりだよ。
板の前で『誰も倒れるな』と言ってるやつが、
最初に倒れたら洒落にならないからな」
三人は同時にうなずいた。
――それが半分“監視”の意味なのを、レオンは理解しつつ。
*
総力戦三日目の夜。
灰の谷の砦では、中庭に一つ、
“仕事の話をしなくていい焚き火”が灯った。
王都の勇者庁では六日目の裏庭焚き火○に向けて準備が始まり、
闇の洞窟では七夜目の“煙の出ない火”が試しに灯された。
どの火も、戦況を変えるほど大きくはない。
敵陣を焼くことも、夜空を照らすこともない。
ただ――
凍えそうな誰かの指を温め、
張り詰めた誰かの顎の筋肉を緩め、
沈黙しか出ない喉に、少しだけ声を戻すための火。
板の上の「○」と、
地面の上の「炎」が、
少しずつ重なり始めていた。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、“総力戦だから”と言えば
すべての焚き火を“狼煙”としてしか見られなくなっていた世界に、
「誰かのための焚き火○」が光側にも闇側にも一つずつ増えた分だけ。




