三十二話 撤退線は誰が見るか
二日目の朝も、空は薄曇りだった。
王都の人々にとっては、昨日とさほど変わらない朝。
ただ、砦の鐘の数と、瓦版屋の声の調子と、
兵の妻たちの板の黒丸が一つ増えていることだけが、
総力戦が進んでいる証だった。
*
王立労務局一階。
巨大な“総力戦板”の前に、今日もレオン・グラハムが立っていた。
昨日より、わずかに肩が重い。
「――灰の谷第一砦より。
『一日目の交戦にて負傷軽傷あわせて三十七。
戦闘続行可能者は当直表どおり残留。
二日目も第一・第二中隊が前線』」
ミーナが札を読み上げる。
「連続前線・二日目、ですね」
ヨアナが灰の谷第一の欄に
「2/4」と小さく数字を添えた。
「――第三前線より。
『足を痛めた兵十五名、後方小屋にて休養中。
代わりに予備兵十名を前線交代要員に充当。
本日、前線第一列を一刻早く交代したい』」
「……まだ“板の意味”を覚えててくれてるな」
レオンは、わずかに安堵した。
「『前線四日まで』の線は、
一日目に守れたからこそ、二日目にも効いてくる」
「こっちは“素直なほう”ですね」
ヨアナが次の札を取ろうとしたその時、
別の通信水晶が強く光った。
赤い縁取りの札。
「――灰の谷第二砦より、急信」
ミーナの声色が変わる。
「『第二前線突出部にて敵右翼の崩れを確認。
今追撃すれば、灰の谷一帯の敵前線を
大きく後退させられる見込みあり。
ただし、予定していた“撤退線A”を越えての追撃となる。
当中隊長としては、兵に無理をさせてでも行く価値ありと判断。
労務局の線を一時的に無視してよい許可を請う』」
「……来ましたね、“線を踏み越えたい人”」
ヨアナが苦笑した。
灰の谷第二前線――今回はじめて
“撤退線A”という“安全弁”を紙で明記した場所だ。
「宰相と軍務卿が見たら
『やっぱり書かなくてよかった』って言いそうですね」
「だからこそ、“一回目”が大事なんだ」
レオンは深く息を吸った。
「板の線が“無条件の鎖”なのか、
それとも“踏めば分かる目印”なのか。
ここで間違えたら、
この先ずっと“言い訳紙”になる」
ミーナが中継を繋ぐ。
「――こちら、王立労務局監査官レオン・グラハム。
第二前線中隊長、聞こえますか」
雑音のあと、息の混じった声が返る。
『――第二前線・第三中隊長、エルノート・ハイン。
前線の風は、そちらより冷たいぞ、労務局』
「ええ。だからそちらへ行かずに、板の前で線を引いてるんです」
レオンは静かに続ける。
「状況を、もう少し詳しく」
『敵右翼が崩れかけている。
うちの中隊は連続前線二日目だが士気は高い。
ここで一気に押し込めば、
灰の谷一帯の戦が“三日は楽になる”』
三日楽になる――甘い響き。
「兵の損耗見込みは」
『……うちの中隊の半分が明日立てなくなるかもしれん。
だが敵もそれ以上の傷を負うだろう』
ミーナが息を呑む。
「局長」
レオンが視線を向けると、
バルド局長は腕を組んだまま、静かに見守っていた。
「お前の線を試しに来たな」
「……はい」
レオンは“第二前線”の欄を指でなぞる。
《連続前線四日まで》
《撤退線A:損害●%以上で一度後退》
《撤退線越え時は「誰が」「どこまで」「いつ戻るか」を紙に残す》
「――エルノート中隊長」
『急げ。敵が下がり切る前に決めたい』
「決意は分かりました。
ですが、これは“あなた一中隊”の話では済みません」
レオンは淡々と告げた。
「あなたが撤退線Aを越えて追撃した場合――
その後の四日間、あなたの中隊は
一切、前線に立てなくなります。
足を痛めた兵と同じように、丸ごと後方送りです」
『ふざけるな。
そんなことをしたら灰の谷の防衛線が――』
「だから、
どうしても行くなら“本当に”行ってください。
その代わり、板の上には
『前線連続二日+追撃一日』の丸と、
そのあと四日間の大きな“休”を刻みます。
灰の谷全体の当直表は、こちらで組み直します」
中隊長の呼吸が変わった。
『……本気か、労務局』
「本気です。
板の線を“形だけ”にはしません。
越えるなら、その代償と帰還の道も刻みます」
沈黙。
きっと中隊長は、
敵の乱れ、兵の顔、自分の足、数字――
全部を天秤にかけている。
『……一つ、聞かせろ』
「どうぞ」
『今ここで押し込まず、撤退線Aの手前で止まったら――
“好機を逃した”ことは、板の上でどう記す?』
レオンは短く目を閉じた。
「こう記します。
『第二前線第三中隊、撤退線A手前で追撃中止。
損耗率を低く抑え、四日目以降も前線勤務可能。
その結果、灰の谷全体の“総当直時間”が
十日間で少なくとも一日分増えた』」
『……計算の話か』
「はい。
“好機”は戦況板に任せます。
こちらは“誰がいつまで立てるか”しか見ません」
長い静寂の後――
『……小役人らしい答えだな。
よし、分かった。
撤退線Aで一度止まる』
悔しさと安堵が混じった声。
『“好機を逃した”と笑いたい奴には、
“四日目以降もここに立ってろ”と言ってやる』
通信が切れた。
レオンは力が抜けたようにチョークを置いた。
“第二前線”の欄に、
2/4
撤退線A・維持
と書き込まれる。
*
「……よく止めましたね」
ヨアナが息を吐く。
「『三日楽になる』なんて言われたら、頷きそうでした」
「頷きたかったよ」
レオンは苦笑した。
「でも“頷いちゃう板”は、次から誰も見ない」
バルド局長が低く言う。
「撤退線を引いた意味を、
やっと一つ“証拠付き”で残せたな」
「証拠?」
「“好機を逃した”とは紙に残らん。
代わりに『四日目以降も立ってる中隊』として数字が残る。
板に残るのは、いつだって“そういう形”だ」
レオンは静かに頷いた。
*
そのころ王都北区の長屋。
兵士の妻たちの“家庭板”に新しい紙が貼られた。
《総力戦用・簡易お知らせ》
『――灰の谷の前線では、「四日以上続けて戦わせない板」が張られています。
兵には「今なら押し込める」と思う人もいるでしょう。
それでも、その板の前で「いったん戻ろう」と言った人がいたら――
その人は「今日の勝ち」より、「四日目以降の帰還」を選んだ人です。
皆さんの“家庭板”と同じように、
あちらにも「今日はここまで」の線があります。』
「……誰が引いてるんだろうね、その線」
マルタが洗濯物を畳みながら呟く。
「兵本人? 砦の隊長? 王都の偉い人?」
「偉い人だけじゃなさそうですよ」
エルナが家庭板を見上げた。
「これだって、最初に線引いたの、
偉い人じゃなくて“ここにいる私たち”ですし」
「……そうね」
マルタは笑う。
「向こうの板の前にも、
うちみたいに“文句言いながら線引いてる人”がいるのかもね」
「『今日はここまでよ』って?」
「そうそう」
笑いが広がる。
板の隅の欄《総力戦中・旦那に言いたい一言》に、
マルタはこう書いた。
『――「勝って帰れ」より、「ちゃんと帰れ」。』
*
夕刻。
レオンの懐の水晶が光る。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
『《黒の雨》二夜目。
こちらでも「好機だ、あと三夜だけ攻めさせろ」と言う将がいた。
《撤退線》を指して
“それを越えて得た戦果は誰が数える”と聞いたら黙った。
光側でも似たことが起きているか?』
レオンは板の“第二前線”を見て返事を書く。
『――こちらも撤退線Aを越えて追撃したい中隊長がいた。
三日楽になると言われ、少し揺れた。
しかし「四日目以降も立てるか」という数字で話し、
その中隊長は撤退線手前で止まることを選んだ。
板には“好機を逃した”とは残らない。
代わりに“四日目以降も立っている中隊”として残る。
――撤退線の場所は、地図ではなく、
板の上と、人間の中にある。』
そして一行、付け足した。
『――そちらの黒板の端にも、
小さく一本でいい、“今日はここまで”の線が増えているなら、
世界はまだ少しだけマシだと思いたい。』
*
総力戦二日目の終わり。
砦では第二の撤退線が囁かれ、
勇者庁では“焚き火○”が近づき、
商会では十日分の帳尻を計算し、
農村では荷車の戻りを数え、
家庭板には×と○が増える。
そして労務局の板の前では――
レオンが、二日目の最後の丸を描き込んでいた。
「……総力戦二日目終了。
まだ、線は“生きてる”」
それは戦況とは別の、
板の前だけの小さな勝敗だった。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、“撤退線”が“腰抜け”の罵りではなく、
“戻るための目印”として一本ずつ刻まれ始めた分だけ。




