三十一話 総力戦一日目、板の前にも戦場はあるか
開戦の日の朝は、意外なほど静かに始まった。
王都の空は、薄い雲に覆われている。
遠くで砦の鐘が鳴る音だけが、普段より一つ多い刻を告げていた。
「――四の鐘、確認」
王立労務局一階。
入口脇の“自分たち用・見える板”は、いつもの倍の大きさになっていた。
砦ごと、前線区画ごと、勇者庁、商会、教会、農村――
そして一番上には大きな文字で、こう書かれている。
《対魔王軍大反攻 十日間 総力戦・勤務状況》
板の前に、レオン・グラハムが立っていた。
肩には外套。
手には白と赤のチョーク。
その横で、ミーナとヨアナが通信水晶の札を束にして構えている。
「――灰の谷第一砦より信号。『予定通り、前線部隊出撃準備完了』」
ミーナが、一枚目の札を読み上げた。
「『当直表に従い、第一・第二中隊が前へ。
第三中隊は砦に残り、予備および負傷兵受け入れ担当』」
「よし」
レオンは、灰の谷の欄の一日目に黒い丸を二つ描き込んだ。
《前線四日まで》の小さな文字の横に、
黒い丸が、最初の一つ。
「――王都駐屯隊より。『前線への進発部隊、出立。
後方警備と王都防衛部隊は、当直表通り残留』」
「“王都の守りが薄くなる”って怒鳴ってた将軍、結局折れましたね」
ヨアナが小さく笑う。
「『前線四日以上は出さない』って紙に書かせたら、
うちの兵站係が『今の頭数じゃそれが限界』って言い切ったから」
「兵站係、いい仕事したな」
レオンは王都駐屯の欄に、前線行きの部隊数だけ丸をつけ、
残留の欄にも小さく印をつけた。
――「どこから兵を抜いて、どこに置いておくか」。
総力戦の板は、戦況図と同じくらい、
あるいはそれ以上に、ぎっしりと埋まり始めていた。
*
灰の谷第一砦。
夜明け前から準備していた兵たちが、
ようやく門の外に整列していた。
「――よし、点呼ぉ!」
ひげ面の中隊長が、喉の奥から絞り出すような声で叫ぶ。
列のあちこちから、短く力の入った返事。
冬の冷たい風が吹く。
それでも兵たちの額には汗がにじんでいた。
「……おい、これ本当に“四日で一回砦に戻る”んだよな?」
斜め前の若い兵が、小さく囁く。
「総力戦のくせに休みなんか入れて大丈夫か、とかさ」
隣の古参兵が、鼻を鳴らす。
「前の戦で七日連続で出されて、三日目に膝やったやつ思い出せ。
あいつ今どこにいる?」
「……砦の上で矢を削ってる」
「そうだ。
あいつは三日目までは頼りになったが、七日目には足手まといだった。
四日で一回下がれるんなら、その分“戻ってこれるやつ”が増える」
若い兵は、黙って拳を握り直した。
「……四日分は、ちゃんと走るよ」
砦の門がきしみを上げて開いていく。
見張り台の上で、中隊長がぽつりと呟いた。
「板の前の小役人に、顔向けできるようにな」
その言葉を聞いた兵は誰もいなかったが、
砦の上の板の片隅に記された小さな「四/4」だけが、
その誓いを知っていた。
*
一方その頃、王都では――
勇者庁の前庭に、人だかりができていた。
「勇者様だ!」「アレク様ー!」
子どもの声、商人たちの歓声、兵士たちの「頼んだぞ!」という叫び。
アレクは笑顔で手を振りつつ、
横目で遠くの塔の通信板を見上げる。
(――今日は、“前線戦闘+城門前で士気鼓舞”の日)
自分の欄に書かれた丸を思い出す。
「アレク、そろそろ」
フィルが袖を引く。
「総力戦十日間の初日です。
ここで無理に“大演説”しなくていいからね」
「……分かってるよ」
深呼吸一つ。
アレクは前へ出て、短く宣言した。
「――行ってくる。
十日のうち、全部を俺たちが勝つんじゃない。
でも、十日のうち……どの日も“無駄にしない”」
歓声が上がる。
その裏で、勇者庁の官吏が小さな板に丸をつけた。
――《士気鼓舞(表)》に●ひとつ。
(この時間が“前線戦闘”に横流しされないように)
板の前でも、小さな戦いが始まっていた。
*
王立労務局。
昼前、レオンの机の通信水晶が次々と光った。
「――灰の谷第二砦より。『敵が思ったより早く出てきた。
前線第一線、予定より一刻早く交戦開始』」
「――第三前線より。『夜間行軍で足を痛めた者多数。
予備兵を前に回し、当直を入れ替えたい』」
「ふむ」
レオンはメモを取りながら板に修正線を引く。
「第一線は予定を前倒し。
その分、夕刻前に一刻早く交代。
第三前線は……」
「『足を痛めた兵を今日から“予備”扱いにしてもいいか』」
水晶の向こうが戸惑う。
『明日以降、人数が足りなくなるのでは?』
「足を痛めた状態で前に立たせたら、明日以降“全部”足りなくなります。
傷兵は『治せば戻ってくる人』です。
その線を見誤った結果が“前の戦の灰色の列”でした」
沈黙の後、返事が来る。
『……了解。足を痛めた兵は三日間前線から完全に外す。
予備兵の当直表を組み替え、修正案を送る』
第三前線の欄から、黒い丸が一つ消え、薄い斜線が引かれた。
今日から三日間――《休》。
本人にとっては悔しい線。
だがレオンにとっては「戻れる未来」への橋だった。
*
広報院の一室。
マリア・ロウが板の前でペンを走らせていた。
《総力戦に関する噂・第一日目》
『光の勇者、総力戦へ!』
『兵たち、十日間眠れぬ戦い!?』
『王都がら空き? 商人の不安と期待』
「……“眠れぬ”とか勝手に決めないでほしいですね」
額を押さえるマリア。
「十日のうち二日は“ちゃんと寝る日”って、あちこちで書かせたのに」
そこへ届く労務局の簡易報告。
どの前線・どの砦も、最低限の“空白”が確保されている。
「……ふふ」
マリアは新しい見出しを一行書いた。
『――《総力戦初日、意外とちゃんと寝られている件》』
「怒られますよそれ」
「『寝ててもいい日がある』って噂を流さないと、
“寝られないのが正義”みたいな噂ばかり増えますから。
噂の戦場にも、終業時間は必要なんです」
*
闇の谷。
黒い板の前で、ギルゼン・ヴァルナが腕を組む。
「――第一影部隊、出撃。七夜ごとに交代。
《黒の雨》初夜は『影の矢』のみ使用」
「七夜もあれば王都近郊まで荒らせるものを……」
「七夜“しか”だ」
ギルゼンはそっけなく返した。
「三十夜連続案の紙は?」
「……暖炉に」
「燃やしてよかった」
黒板の隅に小さな印――《七夜目交代》《撤退路》。
「光側は?」
従者が瓦版を差し出す。
『光の勇者、十日のうち六日だけ前線に立つらしい』
「六日も立てば十分だ。
残り四日を“どこでどう息をつくか”。
そこを見誤ったほうが負ける」
黒板に書く。
《光側勇者・6/10・前線》
《残り4日・要観察》
*
総力戦初日の夕刻。
レオンたちは一日の丸を埋め終えていた。
「――灰の谷第一砦、日没前に交代完了。連続前線、一日」
「――第三前線、当直入れ替え完了。
足を痛めた兵は後方へ」
「――王都駐屯、『自分の欄の空白を初めて見た』と複雑な声」
「――勇者庁、予定通り帰還。
士気鼓舞は刻三つで終了。その後は全員執務室へ」
「よし」
レオンは勇者パーティーの欄に最後の丸をつけた。
一日目:
前線戦闘――●
士気鼓舞(表)――●
完全休養――空白
この空白が、残り九日のどこかで「○」になるはずだ。
「……総力戦一日目、最低限の線は守られましたね」
「まだ一日目ですけど」
「一日目が崩れたら、二日目以降は全部言い訳になる」
レオンはチョークを置いた。
「……『それでも書いておいたほうがマシだ』って、今日何回思ったか」
窓の外では王都に灯がともり、
農村は早く寝て、砦は夜番が増える。
板には、黒丸と空白と、まだ白紙の“二日目以降”のマス目が並んでいた。
*
夜遅く。
通信水晶が光る。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
『《黒の雨》初夜。
影部隊は予定通り。
七夜案を惜しむ将もいたが、“初夜に足をくじいた兵が三人”と見せたら黙った。
光側は“勇者が前線で剣を振り、城門で旗を振った”と噂がある。
――その後はきちんと寝ただろうか?
そちらの板には、一日目の丸はどう刻まれている?』
レオンは板を振り返り、返事を書く。
『――総力戦一日目。
砦も前線も完全に計画通りとはいかないが、
“四日以上連続で前線に立たせない”線は守られている。
足を痛めた兵は三日間前線から外した。
勇者パーティーは、一日目に“二つの剣”と“一つの旗”を振り、
今は“焚き火○”を待っている。
――『板の前にも戦場はあるか』という問いには、
今のところ『ある。そして、そこにも倒れてはいけない者がいる』と答えておく。』
自分の“簡易勤務表”を見る。
一日目――●(戦況把握・調整)
二日目――●
三日目――●
四日目――○(レオンの焚き火)
その○だけが、まだ薄い白でそこにあった。
*
総力戦の幕は、静かに上がった。
砦でも。
前線の泥濘でも。
勇者庁でも。
商会でも。
農村でも。
闇の谷でも。
誰かが丸をつけ、
誰かが線を引き、
誰かが「今日ここまで」と囁き、
誰かが「もう少し」と踏み越えようとする。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、「総力戦だから」と消されかけていた「休む」「退く」の印が、
一日目の板の上でまだ消えずに残っている分だけ。




