三十話 勇者の休戦日は誰のためか
対魔王軍大反攻――十日間の総力戦。
その作戦骨子に、「連続前線四日まで」「交代」「撤退線」がねじ込まれてから、さらに数日。
砦でも、商会でも、農村でも、
板の前で誰かが「本当に守れるのか」と眉をひそめ、
そして誰かが「それでも書いておいたほうがマシだ」とペンを走らせていた。
……ただ、一ヶ所だけ、まだ線が引き切れていない場所があった。
――勇者庁。
*
勇者庁の一室。
王都の中でも、ここだけは微妙に場の空気が違う。
飾り気のない会議室だが、壁には勇者一行の肖像画が掛けられ、
廊下の向こうからは、見送りに来ている子どもたちの歓声が微かに聞こえる。
「――では、改めて。
総力戦期間中の勇者パーティーの行動計画案、説明をお願いします」
王立労務局監査官、レオン・グラハム。
その隣には、いつもの護衛兼“止め役”リシア。
向かい側の席には、勇者庁の役人たちと――
当の勇者一行が並んでいた。
金髪の若き勇者・アレク。
治癒術師の少女・フィル。
寡黙な魔導士・カイル。
斥候役の盗賊・ナナ。
そして、その横に、勇者庁の担当官が緊張した顔で資料を抱えて立っている。
「は、はいっ……!」
若い官吏が、やや上擦った声で紙を広げた。
「ええと、総力戦十日のうち、勇者パーティーは――
一日目、開戦の合図として灰の谷・前線に出陣。
二日目、敵前線への側面奇襲。
三日目、灰の谷奥の砦で負傷兵への激励と治癒活動。
四日目、魔王軍側補給線への破壊工作。
五日目、前線中央での決戦支援。
六日目――」
「ちょっと待って」
レオンが、素早く手を挙げて止めた。
「六日目まで全部、“戦うか”“戦ってるところを見せるか”ですね?」
「え、ええと……勇者様は“民心の支柱”でもありますので……」
官吏が汗を滲ませる。
「“総力戦のあいだ、一日でも姿を見せないと不安が広がる恐れがある、と」
その言い分は、ある意味では正しい。
だが――
「勇者さん本人は、どう思います?」
資料から顔を上げると、アレクはどこか居心地悪そうに髪を掻いた。
「……みんな、戦ってる。
俺だけ“休む日がある”っていうのは――
ちょっと、申し訳ないっていうか」
「出た、“勇者病”」
ナナが、足をぶらぶらさせながら呟く。
「全部自分で背負いたがるやつ」
「ナナ」
フィルが、小声で注意する。
「でも、気持ちは分かりますよ。
“総力戦”って言われると、
みんな限界まで頑張らなきゃって思っちゃいますし」
カイルは黙ったまま資料を見ているが、指先にわずかな緊張が見える。
*
レオンは、持参した板を机の上に置いた。
勇者庁用の「簡易勤務表」。
上には“朝・昼・夕・夜”。
左には“前線戦闘”“支援・治癒”“士気鼓舞(表立って)”“準備・作戦会議”“移動”“完全休養”。
「まず、“仕事の種類”を分けましょう」
白い板に、さらさらと線が引かれる。
「勇者庁の案だと、全部“目立つところ”に詰め込みすぎてます。
前線で剣を振るう日も、
傷病兵の前で笑って立ってる日も、
城下の広場で旗を振る日も――
どれも“仕事”ですけど、身体と心の使い方は違う」
フィルが小さく息を呑む。
「……私たちの中では、全部“働いてる日”です。
でも、外から見てる人にとっては、同じようには見えないかもしれない……ということですよね」
「そうです」
レオンは頷く。
「――例えば、“一日中前線で戦ってる日。
これは、身体も心も“前に出っぱなし”です。
板の上では、“前線戦闘”の欄が真っ黒になる」
丸がいくつも描かれる。
「じゃあ、一日中、負傷兵のベッドサイドを回ってる日。
立っている場所は安全でも、
ずっと誰かの痛みと向き合っている」
“支援・治癒”に丸がつく。
「逆に――
午前中は作戦会議、午後は移動だけ、夜は普通に眠るだけの日。
これは、“身体も心も少し前に出て、少し下がってる日」
ナナが指を立てる。
「ってことは――
『戦う日』『戦ってるふりしてしゃべってる日』『書類読む日』『寝てる日』を
いい感じに混ぜて十日分作れってこと?」
「乱暴ですが、だいたい合ってます」
レオンは苦笑した。
「勇者パーティーに関しては“三つの線”を引きます。
一つ目。
連続“前線戦闘”は三日まで。
二つ目。
三日のあいだにも、必ず一コマ分は“準備・作戦会議”か“移動”だけの日を入れる。
三つ目。
十日のうち少なくとも一日は――
“完全休養”の日を作る」
「か、完全休養……」
アレクが露骨にたじろぐ。
「民の前に出るのもなし? 手を振るのもなし?」
「なしです」
レオンははっきり言う。
「その日は、部屋で寝ててもいいし、仲間内でぼーっとしててもいい。
ただし――
《誰か一人でも“仕事”を始めたら》その日は“完全休養”ではなくなります」
「うわ……サボれなくなるやつだ」
「サボりじゃなくて、“意図的な休み”です」
フィルがそっと言い換える。
アレクは腕を組み、考え込んでいたが――
やがて、おずおずと手を挙げた。
「……一日だけ“完全休養”をくれる代わりに。
その前の日の夜、
城の裏庭で、静かに集まれる人だけと飯を食ってもいいですか」
レオンは少し驚いた。
「それは、“士気鼓舞”には入らないんですか?」
「大きな広場で旗振るわけじゃないんです。
昔からの仲間とか、前線から戻ってきた兵とかと――
火を囲んで、飯食って、黙っててもいい時間が、ちょっと欲しい」
それは、ひとりの若者の素直な願いだった。
「いいと思います」
レオンは即答した。
「その代わり――
その集まりに“官吏を一人”だけ混ぜておいてください」
「……なんで官吏」
ナナが眉をひそめる。
「誰か一人、“『これは仕事じゃなくて飯の時間です』と紙の上で言ってくれる人”が必要だからです」
“仕事の線”と“人の線”。
それを分けるのが、労務局の役目だ。
「勇者さん自身の欄には“完全休養”と丸をつける。
その隅に小さく“焚き火○”って書いておきましょう」
アレクは、ようやく少し笑った。
「……はい。誰にも文句言わせません」
*
会議が終わる頃。
板の上には、仮の十日間の“勇者勤務表”が埋まっていた。
一日目 前線戦闘+士気鼓舞(夕方・城門前)
二日目 側面支援+夜は移動のみ
三日目 支援・治癒中心+準備
四日目 前線戦闘
五日目 前線戦闘+作戦会議
六日目 完全休養(裏庭焚き火)
七日目 移動+支援・治癒
八日目 前線戦闘
九日目 前線戦闘+士気鼓舞(灰の谷近くの砦)
十日目 決戦支援
「……すごいですね」
若い官吏が、板をまじまじと見つめる。
「同じ“十日”なのに、
さっきまでの案より“ちゃんと息継ぎ”してる」
「板の上で息継ぎできない計画は、
現場で勝手に“水飲み場”を作られますから」
レオンは肩を竦める。
「最初から書いておいたほうが、素直に息ができます」
フィルが、おそるおそる手を挙げた。
「……あの。
“完全休養”の日、
もし誰かが“不安で眠れないとか、話したい”って思ったら……どうしたら」
レオンはしばし考え――静かに言った。
「そのときは――
“仕事として”じゃなく、“友達として”話を聞く時間なら、
“完全休養”の欄の外に置いていいと思います」
「欄の……外」
「板に描けるのは“仕事の線”だけです。
でも、仲間の間に“仕事じゃない線”があるのは自然です。
そこまで全部“勤務表”に描き始めたら、逆に息ができなくなるから」
フィルはほっとしたように、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
*
勇者庁を出たところで、リシアが言った。
「ねえ、レオン」
「なに」
「あんた、自分の“完全休養”はどこに入れてるの」
図星で、言葉が詰まる。
「……総力戦終わってから、まとめて取る予定」
「出た、“監査官病”」
リシアは、ナナと同じ口調で言った。
「“前線に四日以上立たせるな”って言った人が、
十日間ずっと戦況板に張りついてたら説得力ゼロでしょうが」
ぐうの音も出ない。
「……じゃあ、“総力戦の真ん中あたりで、一日だけ」
「はい。“それ『レオンの焚き火○』って書いておきます」
「どこに」
「ヨアナとミーナの板の隅っこに」
――たぶん、その板を一番熱心に見るのは、自分自身だ。
*
総力戦前夜。
王都に、重い静けさと高揚が混じった夜が訪れた。
砦の当直表。
傭兵団の出撃表。
教会の祈りの時間。
学院の消灯時間。
商会の荷馬車の出発。
農村の収穫と出立。
家庭の小さな板。
どの板にも、いつもより黒い丸が多く、
それでもどこかに小さな“空白”が残っている。
*
その夜遅く。
労務局の執務室で通信水晶が光った。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
レオンは札を開いた。
『――こちらも《黒の雨》作戦の準備が整いつつある。
前線には七夜ごとに交代の“影部隊”が入ることになった。
撤退路についてはまだ文句も出るが、
地図の端に小さく“帰り道”の印はついた。
――勇者の動きについては噂でしか知らない。
《光の勇者は十日のうち六日だけ前線に立つらしい》
《残りの日は城で休んでいるらしい》
と聞こえてきた。
それについてどう思うかと部下に聞かれたので、こう答えた。
『十日のうち六日も前線に立つ?
十分すぎる。
残り四日で、どうか壊れないでいてくれ、と祈る』
――さて、そちらの“某監査官”は総力戦前夜にどこで何をしている?』
レオンは、窓の外の星空を見た。
明日からその下で、多くの火が灯り、消えていくだろう。
ペンを取り、返事を書く。
『――こちらの“某監査官”は、
今夜は板の前ではなく、机の片隅で“焚き火○”の印を眺めている。
十日のうち何日かは、
前線に立つ者たちが“仕事ではない火”を囲めるように――
その印が紙の上だけで終わらないよう祈りながら。
――『勇者の休戦日は誰のためか』という問いには、
今のところ、
“まずは勇者自身のため。
その次に、その背中を見ている誰かのため”
と答えておく。』
*
王立労務局監査官、レオン・グラハム。
砦、暗部、傭兵団、教会、学院、商会、勇者庁、農村、世論、家庭、総力戦。
それら全部が、一本の太い線で“決戦”へと結びつこうとしていた。
紙の上の矢印は容赦なく前へ伸びる。
だが、その途中に、小さな「○」や「休」の印が、消えそうになりながらも確かに残っている。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
少なくとも、“勇者は休んではいけない”という呪いのような言葉に、
“勇者が倒れたら誰が困るか”という問いを、一つ返せるくらいには。




