二十話 監査官にも監査官はいるのか
灰の谷覚書第一号――“戦時労務に関する最低限の原則”が、紙の橋を渡ってから数日。
労務局の午前は、いつもどおり紙とインクと、ほどよい絶望感でできていた。
「――前線砦から、“ちょっと変な報告”が来ました」
ミーナが、一枚の報告書をひらひらさせる。
「“ここ数日、敵の夜間強行偵察が減った。
こちらも“半死人”を前に出さずに済んでいるが、“何か裏があるのでは”と前線兵が不安がっている”」
「裏って言われても……」
俺は思わず天井を仰いだ。
「そっちの同業者が、“夜勤三日連続はやめよう”って言い始めただけだと思うんだけどな」
「“敵が無茶しなくなって不安になる”って、だいぶ末期ですよね」
ミーナが肩をすくめる。
「こっちはこっちで、“紅鷲隊の全休の日に、敵の動きも薄かった”って報告が来てますよ」
ヨアナが、別の紙を机に置いた。
「“お互いに、同じくらい疲れてた”ってことですかね」
「仲良くするところ間違えてる気もするけどな」
苦笑しながら、俺は報告書を重ねた。
砦、王城、暗部、ギルド、傭兵団、教会。
そして今は、国境の両側で、似たような“最低限の線”が引かれ始めている。
(……紙の上だけとはいえ、よくここまで来たもんだ)
そんなことを考えていた矢先――
どすん。
俺の机の上に、分厚い封筒が一つ、無慈悲に落とされた。
「レオン」
バルド局長が、妙にすっきりした顔で立っていた。
「お前、よかったな。ついに“公式のお声がけ”だ」
「嫌な予感しかしない開口一番やめてもらえます?」
封蝋には、王家の紋章ではなく、別の印が押されていた。
天秤と、剣と、羽ペン。
「……王国軍監察総局」
ヨアナが、小さく眉をひそめる。
「“軍と、その周辺機関”を監査する部署ですね」
「そう。“軍を監査する連中”だ」
バルドは、どこか楽しそうに腕を組んだ。
「“監査官にも監査官がいる”ってやつだな」
「全然笑えないんですが」
封を切ると、簡潔な文言が並んでいた。
『――王立労務局監査官 レオン・グラハム殿
灰の谷協定に関連し、“敵対勢力との間に交わされた覚書の存在”について説明を求む。
明後日午前、王都軍監察庁第一会議室に出頭されたし。
なお、本件は“内々の確認”であり、現時点では“査問”の性質を持たぬ。
王国軍監察総局 次長代理 ハロルド・ケイン』
「“査問の性質を持たぬ”って書いてあるときに限って、だいたい半分くらいは査問ですよね」
ミーナが、慣れた調子でため息をつく。
「“内々の確認”って、一番根が暗い言葉ですし」
「もっとオブラートに包めないもんかね」
俺は封筒をひっくり返しながら、バルドを見る。
「局長は?」
「俺? “忙しいからお前行ってこい”」
「せめて“信頼してるから任せる”とか言ってくださいよ」
「信頼してるから任せる」
「棒読みやめて」
ため息をひとつ吐いて、結局、その出頭命令を受け入れるしかなかった。
*
出頭当日。
王都の軍事地区の一角に、“軍監察庁”はあった。
軍務省の塔ほど高くはないが、やけに窓が少なく、石と鉄で固めたような建物だ。
正面玄関をくぐると、書類の匂いと、妙な静けさが鼻と耳を刺す。
「……砦より怖いですね、ここ」
隣で歩くリシアが、小声で言った。
「“敵が襲ってくる気配”はしないけど、“書類が飛んできそうな気配”はするな」
「レオンが一番やられそうじゃないですか」
「やめて縁起でもないこと言うの」
案内の兵に従って通されたのは、“第一会議室”。
中には、すでに三人の人間がいた。
四十代半ばくらいの壮年の男。
鋭い目つきだが、軍服はきちんと着こなしている。
その隣には、眼鏡をかけた痩せぎすの中年。
手元の書類にびっしりメモを書き込んでいる。
そして奥には、一人だけ鎧姿のまま腕組みをしている女騎士。
――“机より前線のほうが似合いそう”な面々だ。
「王立労務局監査官、レオン・グラハムです」
名乗ると、壮年の男が席を立った。
「王国軍監察総局次長代理、ハロルド・ケインだ。
こちらは同じく総局付のエドモンド・セイル。
そして、前線視察担当の騎士団連絡官、イザベル・フロスト大尉」
三人とも、礼はきっちりしている。
“最初から怒鳴りつける気はない”というだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「まず確認しておきたいのは」
ハロルドは、机の上の紙を示した。
「これが、君と魔王軍の監査官が交わしたという“覚書”だな」
そこには、“灰の谷覚書第一号――戦時労務に関する最低限の原則――”と、俺とギルゼンの署名が並んでいた。
「はい。
“灰の谷協定”の本体ではありません。“付属文書”としても、まだ正式には位置づけられていません」
「だが、内容は“両軍に共通する最低限の線”だ」
眼鏡のエドモンドが、書面をめくりながら言う。
「“連続勤務一定時間を超えた者を前線に立たせない”“夜勤明けの高危険度任務禁止”“見せしめの体罰禁止”……
“人間側だけで適用するなら”問題ない。
だが、“敵軍と共同で決めた”となると話は変わる」
視線が、こちらに突き刺さる。
「“敵と結託して兵を甘やかしている”――そう書き立てる輩が、出てこないとも限らん」
「“甘やかす”って言われると、ちょっと腹立ちますね」
リシアが、小さく呟く。
「“倒れる前に止める”のどこが甘やかしなんだか」
イザベル大尉が、腕組みをしたまま口を開いた。
「ただ、“現場の感覚”からすると、分からなくもない」
銀髪を高く束ねた女騎士は、じっと俺を見据える。
「“敵の無茶な突撃が減って、自分たちも助かっている”――
そう感じている兵がいる一方で、“敵が息を整えているあいだに攻める好機を逃しているのでは”と疑う者もいる」
「“休ませたぶんだけ、相手も休んでいるんじゃないか”ってやつですね」
「そうだ」
イザベルは頷く。
「“戦争に“公平な休み時間”があってたまるか”と言う者もいる」
それは、たしかに。
感情としては、分からないでもない。
*
「今日は、“それをどう考えているか”を聞きたい」
ハロルドが、静かに言った。
「“こちらだけが線を引くのは危険だから”“敵側にも同じ線を引かせようとした”――
その発想までは理解する。
だが、“戦場に紙の橋を架ける”という行為は、それ自体が政治的に非常に危うい。
君が“どこまで見通したうえで”やったのかを、知りたい」
「正直に言うと」
俺は、机の上の覚書を見下ろした。
「“そこまで見通してはいませんでした”」
三人が、じっと沈黙する。
「ただ、“こっちだけ線を引いても”“向こうが無茶を続ければ、結局どこかで歪みが出る”のは分かってました。
“うちの砦では夜勤三日で一日休み”にしても、“向こうが夜勤七日を続ければ”――
“疲れ切った魔族”を前に出すか、“疲れ切った人間”を前に出すかの違いしかない」
イザベルが、少しだけ目を細める。
「“敵が無茶をしてくれたほうが、勝ちやすい”という見方もできるが」
「“勝ったあとのこと”を考えたら、“無茶して壊れた敵兵”をどう扱うか、って問題も出ます」
俺は、前線からの捕虜収容所の報告を思い出す。
「“捕虜の九割が過労で寝込み、そのうち何割かは二度と立ち上がれない”状態を、“勝利”って呼んでいいのか。
――それは、“軍監察の仕事”かもしれませんが、“労務局の仕事”ではないと思いました」
「……“勝つこと”そのものより、“勝ったあとに何が残るか”か」
ハロルドが、腕を組んで考え込む。
「君は、“戦争を長引かせたい”のではなく、“戦争が終わったときに“働き手”が残っている状態にしたい、というわけか」
「はい。
“兵士としても”“神官としても”“侍女としても”“冒険者としても”、
どの肩書きも、戦争が終わればほとんどが“ただの人間”に戻ります。
“そのときに“まともに働ける人間がどれだけ残っているか”――
それが、この国にとって一番の“資産”だと思っています」
エドモンドが、眼鏡の奥で目を細めた。
「会計局出身らしい物言いだな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
*
「――とはいえだ」
そこでハロルドが、覚書を軽く持ち上げた。
「“理屈は分かった”。
だが、“現実の政治”には、理屈だけではどうにもならない部分もある」
「“敵と共同で兵を守る取り決めをした”――その一文だけで、“内敵”が騒げる、ということですね」
「そうだ」
ハロルドはあっさり認めた。
「“兵を守るための紙切れ”を、“裏切りの証拠”に変える連中もいる。
“戦場にいる兵の顔”より、“自分の椅子の脚”のほうが大事なやつらだ」
その言い方に、イザベルがわずかに口元を歪めた。
「ですが、“軍監察総局”としては――」
眼鏡のエドモンドが口を開いた。
「“この紙を即座に廃棄し、君を処分する”という選択肢には、今のところ興味がない」
「……ないんですか」
「ない」
エドモンドは淡々と言い切った。
「理由は三つ。
一つ。“すでに現場で“最低限の原則”が使われ始めていること”。
二つ。“魔王軍側にも同様の負担を強いていること”。
三つ。“君自身と君の局の勤務表が、今のところ“真っ黒”ではないこと”」
「最後のが気になりますね」
リシアが小声で言う。
「そこ、何か関係あるんです?」
「大いにある」
ハロルドが頷いた。
「“兵を守れ”と叫ぶやつの自分の勤務表が真っ黒だったら、“まずてめえから守れ”と言いたくなる。
“自分の局の当直表すらまともに管理できていない人間”が、“他人の働き方”に口を出す資格はない」
「ごもっともです」
思わず背筋が伸びる。
「ちなみに」
エドモンドが、別の紙を取り出した。
そこには、見覚えのある格子が描かれていた。
「これ、“労務局の残業回数表”ですね。宰相室からコピーをもらいました」
「宰相、そういうことする……」
思わず額を押さえる。
「“監査官の残業回数”が、ここ三ヶ月でどう動いているか。
“レオン・グラハム”の欄だけ、妙に増減が激しい」
「……」
リシアが、妙に視線を逸らした。
「“暗部とギルドと傭兵団と教会を回って、帰ってきた日に一気に増える”という、美しい山型ですね」
ミーナが見たら喜びそうなグラフだ。
今は全然嬉しくない。
「だからこそ、“監査官にも監査官がいる”って話になる」
ハロルドが、重ねて言った。
「“君と君の局が、今後もこういう紙を勝手に増やし、勝手に敵とやり取りする”なら――
その前に、“君たち自身の働き方”にも線を引かせてもらう」
「……え?」
意外な方向から殴られた気分だった。
「“こちらが君たちを監査する”。
“君たちが兵や神官や侍女や傭兵を守るように”“我々は君たちを“勝手に死なせない”ために監査する」
エドモンドが、静かに告げる。
「“王立労務局監査官の勤務に関する監査”――本日をもって開始する」
「ちょっと待ってください。いつの間に話がそうなりました?」
思わず椅子から腰が浮く。
「だって、レオン」
ずっと黙っていたイザベルが口を開いた。
「前線の砦でも、傭兵団でも、教会でも。
あんた、必ず最後にこう言ってたろ」
彼女は、指で机を軽く叩いた。
「“世界中の勤務表に赤線を引きに行く前に。まずは自分の欄を見ろ”って」
「……うちの言葉、どこから漏れてるんです?」
「現場の酒場」
即答だった。
「“労務局の変な監査官が来てな、最後に一番痛いこと言って帰ってった”って話、けっこう広まってる」
まったく嬉しくない広まり方だ。
*
「安心しろ」
ハロルドが、少しだけ柔らかい声で言った。
「“君を縛るため”だけの監査じゃない。
“労務局という仕組みを、ちゃんと長持ちさせるため”でもある」
「長持ち、ですか」
「砦の当直表も、暗部の勤務表も、ギルドの掲示板も。
――どれも、“最近できた仕組み”だ。
“制度というやつは、最初の数年で壊れるか、形だけになって腐るか、そのどちらかになりやすい」
エドモンドが、静かに続ける。
「“監査が“人殺しの道具”になっていないか”“ただの言い訳になっていないか”。
それを見張る役目も、どこかには必要だ」
どこかで聞いた理屈だ。
“暗部にも当直表が必要だ”と言ったときと、同じ匂いがする。
「……つまり、“うちの局にも“見える板”を増やせ、ってことですね」
俺が言うと、三人は同時に頷いた。
「“残業回数表”だけじゃなく、“どの案件にどれだけ時間を使っているか”“誰がどこまで外回りしているか”。
“それを、他の部署からも見えるようにする”」
イザベルが腕を組み直す。
「“兵を守るための仕事”で倒れたら、笑い話にもならんだろ」
「……ほんと、どこの世界も同じこと言うなぁ」
魔王軍のギルゼンの顔が、ちょっとだけ脳裏をよぎる。
『――お互い、当直表の自分の欄だけは真っ黒にしないように』
あいつも、きっとどこかで同じように“監査される側”になっているのかもしれない。
*
「確認しておきたいのは、もうひとつ」
ハロルドが、最後に書類を閉じた。
「“灰の谷覚書”――この紙に書かれている“五つの原則”を、“君自身は“どこまで守るつもりか”だ」
「どこまで、ですか」
「“敵との約束だから仕方なく”なのか、“正しいと思うから”なのか。
“前線だけの話”なのか、“王都にも適用するつもりなのか”」
それは、考えるまでもなかった。
「“正しいと思うから”です。
“前線だけ”でもありません。
――できることなら、“王都の役所にも”“商会にも”“学校にも”広げたいくらいです」
ぽろっと出てから、“言いすぎたかな”と思ったが、もう遅い。
イザベルが、ふっと笑った。
「“欲張りだな”」
「職業病です」
「よろしい」
ハロルドは、短く頷いた。
「“欲張り”なほうが、“最低限”を守らせる力も強い。
では――
“軍監察総局としては、“灰の谷覚書第一号”を、“技術的覚書”として黙認する。
ただし、“王立労務局については、今後定期的に勤務実態の報告を求める”」
「……了解しました」
言葉に出してみると、思ったほど重くはなかった。
“どのみち、自分たちの板も見ないと”と思っていたところだ。
*
労務局に戻ると、ミーナとヨアナが机の周りで待ち構えていた。
「どうでした?」
「死刑は免れた」
「それ前提で行ってたんですか」
「で、“監査官にも監査官がつく”ことになりました」
「わぁ、やっぱり」
ミーナが、なぜか嬉しそうに手を叩く。
「やっぱりって何」
「“レオンさんたちも“見える板”から逃れられないだろうな〜って」
ヨアナも、小さく笑って頷く。
「実は、軍監察総局から先に連絡があって、“労務局内の勤務状況を“見える形”にしてほしい”って」
「先に言って」
「言ったら逃げそうだったので」
信頼が置かれているんだか置かれていないんだか分からない。
「とりあえず――」
ミーナが、机の下から新しい板を引っ張り出した。
格子で区切られた、“見える板”。
「“労務局版・案件別勤務表”です」
「名前のセンスよ」
「“誰が、どの案件に、どれくらい時間を使ってるか”。
“外回り”“内部調整”“書類作成”“雑用”――ざっくり四つに分けました」
板には、俺の名前の欄もちゃんとあった。
「“灰の谷案件”の欄、真っ黒になりそうですね」
リシアが楽しそうに言う。
「“暗部案件”“ギルド案件”“傭兵団案件”“教会案件”もそこそこ黒いですよ」
「“雑用”が一番白いところだけ見せて、“ほらサボってない”って言い張るか」
「そういう姑息なこと考えない」
ヨアナが容赦なく釘を刺した。
「“この板”、入口の“残業回数表”の横に貼っておきますね」
「またみんなの話のネタが増えますね」
ミーナがにこにこしている。
「“監査官の働き方まで丸見えの局”って、外から見たらけっこう怖いですよ?」
「“怖いけど、ちょっと安心する”ってやつですね」
リシアが肩をすくめる。
「“自分たちのことを棚に上げてない”って意味では」
たしかに。
“誰を守っているのか分からない監査”ほど、不気味なものはない。
*
その日の夕刻。
いつものように机に向かっていると、通信水晶が淡く光った。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
短い文だった。
『こちらでも、“灰の谷覚書”を口実に、“軍規監察院”から“お前の勤務表を見せろ”と言われた。
“自業自得だ”と笑われれば、その通りとしか返せない。
――そちらも、同じ目に遭っていることを願う』
「……願うな」
思わず突っ込んでから、返答用の札を取る。
『――こっちも同じ目に遭った。
“監査官にも監査官はいるか”という問いに、“いる”という答えが返ってきたところだ。
“自分の欄が真っ黒にならないように”という忠告だけは、ありがたく受け取っておく』
札を乾かしながら、ふと笑みがこぼれる。
王立労務局監査官、レオン・グラハム。
灰の谷に紙の橋を架けたら、その橋の両端に、それぞれ“監査官を監査する目”が増えた。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――
――少なくとも、“倒れる前に止めようとする人間”を、誰も簡単には潰せなくなった分だけ。




