十九話 紙の橋は国境を越えるか
王都大聖堂に“沈黙の日”の話を持ち込んだ翌週。
労務局の午前は、相変わらず紙とインクと、ほどよい絶望感でできていた。
「――紅鷲隊からの“第一回・全休報告”です」
ミーナが、どこか誇らしげに一枚の報告書を置く。
「“今月、隊全体として一日出撃を断った。
隊員の不満は思ったほど出なかった。
代わりに正規軍の連中が“いつもこんなに紅鷲に頼ってたのか”と青い顔をしていた”」
「最後の一文いります?」
「“実に有意義だったので、次月以降も続けたい”って締めてますから、たぶん本気です」
紙には、ガルドのぶっきらぼうな署名が躍っていた。
『――“有給”ってやつはまだよく分からねえが、“隊で堂々とサボれる日”ってのは悪くねえ』
「言い方」
思わず笑いながら、報告書を重ねる。
「こっちは?」
「王都大聖堂から、“沈黙の日・第一回”の感想です」
ヨアナが、整った字の報告書を渡してくる。
「“最初は信徒から“祈りが少ないのでは”との声もあったが、“主も七日に一度静まられた”という説教をしたところ、“それも一理ある”と受け入れられた。
昼に寝ていた侍祭を起こそうとしたところ、“今日は沈黙の日です”と言われ、こちらが諭される場面もあった”」
「もう浸透してるじゃないですか」
「“神の名で休ませる”の、やっぱり強いですね」
ミーナが感心したように頷く。
「“労務局が言っていた”じゃなくて、“聖典が言っている”ってところがポイントです」
「だれだ、それを吹き込んだやつは」
「レオンさんです」
「でしょうね」
ヨアナの即答に、肩をすくめるしかない。
砦、王城、地下、ギルド、傭兵団、教会。
あちこちに“見える板”と“線”が増えるたびに、局に戻ってくる報告書も増えていく。
山は減らないが、中身は少しずつ、“倒れた報告”より“倒れずに済んだ報告”が多くなってきていた。
(……問題は、こっち側だけで完結してないってことだよな)
灰の谷での会談からしばらく。
魔王軍側の“同業者”からの通信も、途絶えたわけではない。
そんなことを考えていた矢先――
机の上の通信水晶が、ちりんと澄んだ音を立てた。
「来ましたね」
ミーナが水晶を指さす。
「魔王軍の監査官さん?」
「たぶん」
魔力を通すと、予想どおりの名が浮かびあがった。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
続く文は、いつものように簡潔で、いつものように頭の痛くなる内容だった。
『――こちらでも、前線砦および捕虜収容所、傭兵団、神官部隊において“最低限の線”を引く作業を進めている。
“倒れる者の数”は、わずかながら減り始めた。
ただし、そこで新たな問題が生じた。
――“そちらとこちらで、線の位置が違いすぎる”』
「……はい?」
思わず声が漏れる。
ヨアナが、横からそっと水晶を覗き込んだ。
『“人間側の砦では“夜勤三日で一日休み”になっているのに、
“魔王軍の砦では“夜勤二日ごとに四刻の眠り”としている”――
こうした差異が、“非難合戦”の種になりつつある。
“人間どもは怠けている”“魔王軍は部下を殺す気か”――どちらの声も、ほどほどに愉快だ。』
「……笑ってる場合かな、それ」
『もちろん、笑っていられる話ではない。
そこで提案だ。
――“灰の谷協定・付属文書”として、“人間側と魔王軍側の労務監査課による“最低限の原則”を、紙の上だけでも揃えられないか』
そこまで読んで、思わず顔を上げた。
「局長ー」
思わず呼ぶと、バルドは部屋の向こうから顔だけ出した。
「何だ。書類の山が反乱でも起こしたか」
「魔王軍の監査官さんから、“灰の谷協定の付属文書、一緒に作りませんか”って誘われました」
「……あいつ、どんどん面白いやつになっていくな」
バルドは、にやりと笑う。
「宰相に見せてこい。“頭抱えて笑う”顔が見られるぞ」
「笑うんですか、そこ」
「笑いながら頭抱えるタイプだ」
*
宰相室。
相変わらず、書類の山と地図と魔導通信具で埋もれた部屋の中央で、アーベル・ハインツ宰相は通信文を読み、静かに眉を上げた。
「……“灰の谷協定・付属文書”」
ぽつりと繰り返す。
「“双方の労務監査課による“最低限の原則”のすり合わせ、か」
「“紙の上だけでも揃えませんか”、だそうです」
俺は、少し居心地悪く立ったまま答える。
「“実際の運用はそれぞれの裁量で構わない。ただ、“ここから下はどちらもやらない”線だけは共有したい”と」
宰相は、机の上の別の紙束を一瞥した。
そこには、前線から上がってきた捕虜交換の報告書や、灰の谷周辺の部隊配置が記されている。
「……“捕虜の扱い”でも、“どちらの砦のほうがマシか”が、妙な競争になっているらしいな」
「はい。“魔王軍のほうが寝床がマシだ”とか、“人間側のほうが飯がうまい”とか」
ミーナあたりが聞いたら、「それ、もう観光客の口コミじゃないですか」と言いそうだ。
「“最低限の線”が違いすぎると、現場がやりづらいのは確かでしょうね」
「そうだな」
アーベルは、指で通信文をとんとんと叩いた。
「政治的には、かなり綱渡りだ。
“敵国と労務に関する共同文書を作る”――“内敵”が聞いたら、面白い題材になる」
「“敵と結託して兵を甘やかしている”とか言われそうですね」
「言うやつは間違いなくいる」
宰相は、そこでふっと口元を緩めた。
「……だが、“倒れる前に線を引く”という一点だけ見れば、“人間と魔族”の違いは薄い」
「はい。兵も、神官も、暗部も、冒険者も、だいたい八刻以上無理すると壊れます」
「“壊れる兵を並べて戦って勝てると思うのか”――という話でもあるな」
アーベルは、机の端に置かれた別の板を指さした。
そこには、“王国軍・前線砦における一年間の戦死・戦線離脱者数”が刻まれている。
「“倒れる前に線を引く”のは、“人道”のためだと同時に、“戦力の維持”のためでもある。
――その理屈が通じる相手なら、“多少の紙の橋”くらい架けてもいいかもしれん」
「つまり?」
「“隠れてやれ”」
あまりにもあっさりと言った。
「……はい?」
「“灰の谷協定・付属文書第一号”“両軍労務監査課共同覚書”。
――“条文案のすり合わせは、すべて通信越し。灰の谷での直接署名は、必要とあらば後で”」
「最初は、紙の上でだけ、ってことですね」
「そうだ。
“条約”ではなく、“覚書”。
“王国としての正式な約束”ではなく、“労務監査課同士の“技術的な取り決め”という顔にしてしまえ」
宰相の目が、いたずらを思いついた子どものように光る。
「“技術的な取り決め”は、だいたい誰も最初は真面目に読まん。
だが、“いつの間にかそれがないと現場が回らない”という日が来る。
――そこまでいけば、“後から条約の付属条項に格上げ”すればいい」
「最初から黒いですね、やり方が」
「お前が言うな、“暗部の勤務表を赤く塗ったやつが」
痛いところを突かれて、何も言い返せなかった。
*
労務局に戻ると、ミーナとリシアとヨアナが、すでに机の周りに集まっていた。
「で、“紙の橋”の話はどうなりました?」
「“隠れてやれ”って」
「めちゃくちゃ王国らしい指示ですね」
ミーナが感心したように頷く。
「“表に出せないけどやったほうがいいことは、とりあえず現場で形にしておけ”ってやつです」
「じゃあ、まずは“草案”ですね」
ヨアナが、白紙の紙束をどさりと置いた。
「“灰の谷協定・付属文書第一号(案)”――タイトルから決めます?」
「タイトルは最後でいいよ……」
俺は額を押さえながら椅子に座る。
「まず、“何についての原則か”を決めないと」
「“戦時下における兵と補助戦力の“最低限の扱い”について”とか?」
リシアが、ぽん、と手を打つ。
「長い」
「じゃあ、“戦時労務に関する最低限の原則”」
「まだ長いけど、さっきよりマシですね」
ミーナが、さらさらと書きながら言う。
「中身は、“五つくらい”に絞ったほうがいいと思います。
多すぎると、“半分も覚えてもらえない”ので」
「そうだな。
“どちらの軍でも、酔っぱらった上官が部下を壁に叩きつけながら読む”場面を想像すると、五つが限界だ」
「想像したくない情景ですね」
リシアが渋い顔をする。
*
結局、最初の案は、こうなった。
一、“連続勤務(当直・出撃・祈り等)が一定時間を超えた者を、当人の意に反して前線に立たせないこと”。
二、“夜勤明け・出撃明けの者を、即座に高危険度任務に従事させないこと”。
三、““他者への見せしめ”として肉体的な罰を与えないこと”。
四、“班長・隊長・指揮官の勤務が部下の二倍を超えないよう配慮すること”。
五、“兵・補助戦力が“生命の危険が高い状態にある”と判断した任務を、理由なく連続して命じないこと”。
「だいぶ欲張りましたね」
ミーナが苦笑する。
「これを全部守らせるの、大変ですよ?」
「だからこそ、“最低限”って顔をするしかない」
俺はため息を吐いて、続けた。
「これでも、“兵士を人間扱いしろ”って本音を、ぎりぎりまで薄めた結果なんだよね」
「“兵士を人間扱いしろ”を薄めるの、なんかおかしいですけどね」
リシアが苦々しそうに笑う。
「でも、“魔族側にも通じる言葉”ってなると、これくらいが限界かも」
「そういうこと」
紙を整え、通信文に添えられるようにする。
「じゃあ、この“案”をギルゼンに投げて、“向こうの言葉”に訳してもらおう」
「訳?」
「“同じことを言っているようでいて、向こうでも通用する言い回し”って、現地の人間じゃないと分からないから」
「確かに、“闇の女神への奉仕”とか、こっちじゃニュアンス分からないですもんね」
ミーナが頷く。
「“祈り”ひとつとっても、“光側”と“闇側”で聞こえ方違いそうですし」
*
返信札をしたためる。
『――“戦時労務に関する最低限の原則(案)”を五つにまとめた。
これはあくまで“人間側の言葉”であり、“そちらの実情”や“女神像”には合わぬ部分も多いだろう。
“同じ意味を保ったまま、そちらの言葉に訳す”ことができるなら、それもまた一つの橋になる。
――ひとまず、紙だけ送る。好きなだけ赤を入れて返してほしい』
水晶に挟み込み、魔力を通す。
紙の束が、一瞬光って消えた。
「……さて」
椅子にもたれかかった瞬間、ミーナがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「何」
「“魔王軍の監査官さんに“好きなだけ赤を入れて返して”って言った顔です」
「どんな顔だ、それ」
「“自分も書類に赤を入れるときの顔”ですね」
「ひどい言いがかりを聞いた」
*
返事は、意外なほど早く来た。
翌日の夕刻。
机の上の水晶が、またちりんと鳴る。
『――“戦時労務に関する最低限の原則(案)”、拝読した。
結論から言えば、“ほぼそのまま受け入れ可能”だ。
――“こちらの軍務省が読めば、顔色を変えるだろうが”。
一つ一つに、こちらの“言葉”を添えて返す。』
紙が現れ、机の上に積み重なった。
上から二枚目以降には、見慣れない字形がびっしりと並び、その脇に小さな注釈が書かれている。
「これが……魔王軍側の言い回し?」
リシアが興味深そうに身を乗り出す。
一つ目の原則の横には、こうあった。
『“連続勤務”――“夜明け三つ分以上、武器を手放していない状態”と定義する案。
“魔族の体力は人間より強い”と主張する者への配慮として。』
「……向こうも向こうで、“うちはタフだから”って言い張る人、いるんですね」
「“人間よりタフだからこそ、壊れる時は派手だ”って話なんだけどな」
二つ目の原則、“夜勤明け・出撃明けの高危険度任務禁止”の横には――
『““血が温まっているうちに続けて戦わせたほうが効率がいい”という古い慣習あり。
“血が温まりすぎて冷めなくなる”ことの危険性を、兵站局医務課と連名で説明する必要あり』
「言い回しは違うけど、だいたい同じこと考えてる」
ミーナが、ちょっと感心したように呟く。
「“血が温まりすぎて冷めなくなる”って表現、ちょっと格好いいですね」
「採用する?」
「“こっちの兵が聞いたら“中二病”って言いますね」
「やめて差し上げて」
三つ目、“見せしめとしての体罰禁止”のところには、こんな注釈があった。
『“拷問官ギルド”との調整が必要。
“公務としての拷問”と、“隊内での見せしめ”を、明確に線引きすること。
――後者を“趣味と娯楽”の範疇に押し込もうとする者がいるため、要監視』
「いや待って、いろいろツッコミどころが」
「“拷問官ギルド”って何ですか」
リシアと同時に突っ込んでしまう。
ミーナは、額に手を当ててため息をついた。
「“趣味と娯楽の範疇”って言ってる時点でアウトですよね」
「それをちゃんと“要監視”って注釈してるあたり、ギルゼンさんの胃も相当やられてそう」
四つ目、“指揮官の勤務が部下の二倍を超えないように”の注釈は、少しだけ柔らかかった。
『こちらでも、“隊長が先に倒れると隊が崩れる”事例、多数。
“英雄的な死”として語り継がれる前に、“愚かな例”として記録したいところ』
「“英雄的な死”を“愚かな例”って言えるだけでもすごいですよね」
ミーナがぽつりと言う。
「こっちでも、“無茶して死んだ人”が“武勇伝”になりがちですし」
「向こうもたぶん、“伝説の将軍様”とかいっぱいいるんだろうな」
リシアが、少し遠い目をした。
そして五つ目、“生命の危険が高い任務の連続命令禁止”のところ。
そこだけ、注釈がやけに長かった。
『“生命の危険が高い状態”の定義について、魔王軍内部で議論あり。
“出撃そのものが危険だろう”という意見と、
“生還率五割を切る任務のみを指すべきだ”という過激な意見と、
“敵の勇者が関わるかどうかで線を引くべきだ”という現場感覚と――
結局、“生還率七割を切る任務”を基準とする案を、兵站局としては推したい。
――“それでも“突撃する価値がある”と主張する者たち”との戦いは、これからだ』
「……“生還率五割を切る任務”を基準にしようとするやつ、どこの世界にも一定数いますね」
「“生き残れば英雄”って言いたいんですよ、きっと」
リシアが、あまり楽しそうではない笑みを浮かべる。
「でも、“七割”って線を提示してくれてるだけでも、かなり頑張ってますね」
「こっちも、“危険度A以上の任務”の定義、ギルドと散々揉めたからな」
紙束を眺めながら、しみじみと思う。
――言葉は違う。
――女神の名前も、扱う魔法も、掲げる旗の色も違う。
それでも、“ひどい勤務表を前にして頭を抱える顔”だけは、たぶん似たようなものだ。
*
ギルゼンからの注釈を踏まえ、最終案を練る。
言い回しを少し丸め、ところどころに“両軍の慣習に応じて”という逃げ道を付ける。
ミーナが言ったように、“五つ”に絞ったのは正解だった。
「これ以上増やしたら、“自分たちでも覚えられない”ですよね」
「うちの局長、三つ目くらいで“あとは適当にやっとけ”って言いそう」
「言うな」
ヨアナが咳払いする。
「でも、“最低限の五つ”が紙の上で揃っていれば、現場で“それを盾にできる”人も出てきます」
「“こっちも守ってるんだから、そっちも守れ”って言えるやつですね」
リシアが、腕を組んで頷く。
「戦場でそう言える人が増えたら、“くだらない突撃命令”も減るかもしれませんし」
「そこまで行ければ、御の字だな」
紙を整え、最後にタイトルを書く。
『灰の谷覚書第一号
――戦時労務に関する最低限の原則――』
「……決まりましたね」
ミーナが小さく拍手する。
「“覚書”って響き、いいですよね。
“条約ほど重くないけど、紙には残る”」
「“忘れたふりをしようとしても、紙が残ってる”ってところがポイントだ」
俺は、署名欄に名前を書く。
『王立労務局監査官 レオン・グラハム』
その横に、空欄を残す。
『魔王軍統一兵站局労務監査課長 ギルゼン・ヴァルナ』
「……直接会って署名する日は、来るんでしょうかね」
リシアがぽつりと言う。
「灰の谷で?」
「灰の谷か、もっと先か。
戦争が続いてるうちは、“公式には”難しいでしょうけど」
「まずは、通信越しの紙の橋だな」
俺は覚書を通信水晶に挟んだ。
「“紙の橋が国境を越えられるかどうか”は、向こうの机に乗ってから考える」
魔力を通すと、覚書は光となって消えた。
*
その夜。
労務局の窓の外、街灯の明かりが少しずつ消えていくのをぼんやり眺めていると、水晶が再び明滅した。
短い文だった。
『――署名した。
“この紙切れ一枚で、魔王軍が変わるわけでも、人間どもが優しくなるわけでもない”と揶揄する者もいるだろう。
だが、“それでも、紙は残る”。
“いつか誰かが、“ここにこう書いてある”と指でなぞる日が来る”。
それで十分だと、今は思いたい。
――お互い、当直表の自分の欄だけは真っ黒にしないように』
「最後の一文が一番効くんだよなぁ」
思わず苦笑して、椅子の背にもたれかかる。
「どうしました?」
帰り支度をしながら、ミーナが首をかしげる。
「“魔王軍の監査官から、“残業しすぎるな”って言われた」
「世界狭いですね」
「狭いな」
外の空を見上げる。
灰の谷の向こう、見えない空の下にも、今ごろ紙の束と頭を抱えた誰かがいる。
王立労務局監査官、レオン・グラハム。
灰の谷協定にはまだ載らない、小さな紙の橋。
その上を、“最低限の原則”を乗せた文字が、ひっそりと行き来し始めている。
世界は今日も、ほんの少しだけマシになった――はずだ。




