十五話 暗部にも勤務表はあるのか
“世界一ブラックな職場の覇権争い”なんて物騒な冗談を、局長と交わしてから数日。
労務局の中は、表面上はいつも通りだった。
紙が積まれ、インクが減り、人が嘆きながら仕事をする。
ただ一つ違うのは――入口の壁にかかった“残業回数表”が、じわじわと効き始めていることだ。
「レオンさん、本日も“残:0”ですね」
朝一番、ミーナが板を確認して満足そうに頷く。
「局長も、ここ三日は“1”を超えてません。
“他所からあまり見られたくない板”のはずが、最近じゃ“見せたい板”になってきましたね」
「見せたいのはいいが、“あそこにゼロが並ぶと仕事してないと思われないか?」
「“残業してないやつは働いてない”っていう発想が一番ブラックですから」
「はい、すみません」
反射的に謝ってから、“あ、今のは自分で自分を殴ったな”と気づく。
「そんなレオンさんに朗報です」
ミーナが一枚の書状をひらひらさせた。
「“今日の午後は、外回り”です」
「外回り?」
「“王城宰相室より、労務局監査官レオン・グラハム、王国軍務省地下保全部に関する意見聴取のため出頭を求む”」
軍務省、地下、保全部。
嫌な単語が三つも並んでいる。
「……地下保全部、って」
隣の机で書類を束ねていたヨアナが、小さく眉を寄せる。
「いわゆる、“表に出ない仕事”をする部署ですよね」
「表向きは“軍事機密の保全と情報の管理”。
実際は、“夜中にどこからともなく出てきて、翌朝には何もかも片づけて消える人たち”って噂の」
リシアが、椅子の背にもたれながら肩をすくめた。
「つまり、“暗部”ですね」
「ギルゼンからの通信と、時期が妙に合うな」
魔王軍の“暗部勤務表”の話を受け取ったのが三日前。
それからほとんど間を置かずに、王国側の地下部署から呼び出しが来た。
――偶然と言えば偶然だが、職業柄、偶然という言葉はあまり信用していない。
*
午後。
いつもの正面玄関ではなく、軍務省庁舎の裏手にある小さな扉に案内された。
「ここから入るんですか?」
石造りの壁に埋もれるようにある、小さな鉄扉。
錆び付いてはいないが、やけに目立たない色をしている。
案内役の兵士は、無表情のまま頷いた。
「はい。“地下保全部来訪者用”の入口です」
「“来訪者用”がある時点で、思ったよりちゃんとした部署ですね」
リシアが小声でぼそっと言う。
「“ちゃんとしてない暗部”は、だいたい長持ちしないからな」
俺も同じく小声で返した。
鉄扉をくぐると、ひんやりとした空気が一気に肌を撫でた。
石階段が、地下へ地下へと続いている。
壁には、一定間隔で魔導灯が埋め込まれていて、淡い光を放っていた。
「……意外と明るいですね」
「“暗いほうが雰囲気出る”とか言って灯りを減らした結果、階段で転ぶやつが続出してだな」
先を歩いていた兵士が、ぼそっと漏らした。
「“まず自分の部署から是正しろ”って、上から怒られたんだと」
「どこの世界にも、似たような上司がいるな……」
心の中でバルドの顔がよぎる。
*
地下二階。
“来客用控え室”と書かれた扉の前で案内が止まった。
「こちらでお待ちください。すぐに保全部の者が参ります」
そう言い残し、兵士は階段を戻っていく。
扉を開けると、簡素な机と椅子が三組、壁際には茶器と水差し。
窓はないが、魔導灯の光は柔らかく、圧迫感は思ったほどない。
「地下にしては、居心地いいな」
「“地下勤務の生産性が落ちる”って文句が出て、環境を整えたらしいですよ」
リシアが、淹れたての水を一口飲む。
「暗部なのに、妙なところで労務改善済みですね」
「全部が全部、マシな方向にいってるわけじゃないんだろうけどな」
そう言ったところで、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、黒い軍服に身を包んだ男だった。
年の頃は三十代半ばくらい。
背は高くも低くもなく、顔つきも“人混みに紛れたら絶対に思い出せそうにない”タイプだ。
――だが、歩き方だけは妙に滑らかだった。
足音が、ほとんどしない。
「王立労務局監査官、レオン・グラハム殿ですね」
低く静かな声。
「軍務省地下保全部副長、カイル・アードマンと申します。本日は、わざわざお越しいただき感謝します」
「こちらこそ。労務局が地下に呼ばれる日が来るとは、思ってませんでしたよ」
握手を交わすと、カイルと名乗った男は一瞬だけ目を細めた。
「手が、紙の匂いだ」
「職業病です」
「こちらは、鉄と油と血の匂いだと言われます」
淡々とした言葉の中に、ごく薄い自嘲が混じっている。
――なるほど。“自分の部署がマシではない”と分かっている顔だ。
*
「単刀直入に申し上げます」
控え室の椅子に座るなり、カイルは真っ直ぐこちらを見た。
「我々は、“労務局に監査される覚悟”をしたわけではありません」
「なら、どうして呼んだんです?」
「“内部告発”をされる前に、自分たちで火を消したいのです」
その一言で、大体の事情が見えてきた。
「誰か、倒れましたか?」
「倒れました」
躊躇なく返ってくる。
「先週、“連続勤務七日目”の者が、任務復帰前の点呼で倒れました。
幸い、死には至りませんでしたが、“このままでは死者が出る”と、局長――保全部長が判断しました」
「局長さんは?」
「今、上に呼ばれて“怒られ中”です」
カイルは、そこでようやく少しだけ口元を緩めた。
「“まず自分の部署から是正しろ”と。
――宰相閣下からの直命です」
「やっぱりあの人か」
王城宰相アーベル・ハインツの顔が浮かぶ。
「つまり宰相は、“王城の侍女棟と一緒に、地下の暗部にも線を引く気”ってわけですね」
「“王国で一番ひどい当直表がどこか、そろそろ目を背けるのをやめよう”――宰相閣下の言葉です」
どこかで聞いたようなフレーズだ。
ギルゼンからの通信文の最後にも、似た匂いの文言があった。
『――お互いに、“一番ひどい場所”から目をそらさぬよう』
(……本当に、世界は変なところでシンクロしてるな)
*
「で」
カイルが、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、びっしりと名前と日付と“任務”の欄が並んでいる。
「これが、“倒れた者の勤務表”です」
見た瞬間、頭が痛くなった。
“任務:王城周辺監視”。
“任務:魔法通信傍受”。
“任務:夜間潜入”。
横に走る日付欄は、ほとんど休みなく埋まっている。
「日勤、夜勤、日勤、夜勤、夜勤、日勤、夜勤……」
リシアが思わず顔をしかめる。
「これ、連続七日どころじゃない日もありますよね?」
「あります」
カイルは、淡々と認めた。
「地下保全部の任務は、“仕事があるときは一気にある”“ないときはひたすら待機する”という性質を持っています。
そのせいで、“あるときに詰め込みすぎる”習慣が染み付いてしまった」
「“仕事が来てるときに休むのは罪悪”ってやつですね」
「ええ。まさに」
カイルは、あくまで静かな声で続けた。
「それに、“暗部の者は人並み外れた耐久力があるべきだ”という意識も、部内に根強くあります。
“七日徹夜しても動けて当然”“十日寝なくても頭は冴えるべき”と」
「無茶言い過ぎだろ」
思わず素で突っ込んだ。
「考えてみてください。
七日徹夜した暗部が、“王の寝室の前に立っている”状況を」
カイルの顔に、初めてはっきりとした苦味が浮かぶ。
「“敵より先に、こちらの腰が砕けます”」
その言葉に、思わず笑いそうになって、笑えなかった。
――自分で自分を殴っている人間の冗談は、笑いにくい。
*
「前置きが長くなりました」
カイルは姿勢を正した。
「我々が労務局に求めるのは、“地下保全部の勤務表に、どこまで線を引けるか”という相談です」
「どこまで、ね」
魔王軍の“暗部勤務表”の話が、頭の中に重なる。
夜勤七日。
休息期間“任務完了まで”。
ギルゼンは、“まず自分たちから是正する覚悟”を固めようとしていた。
(こっちも、腹を括らないと釣り合いが取れないな)
「……分かりました」
俺は、勤務表の紙を指先で軽く叩いた。
「ただし、“今日は診断だけ”です」
「診断?」
「この勤務表を見て、“ここをこのままにしておいたら死ぬ”って場所に印をつける。
そこから先、“実際にどう変えるか”は、保全部の中で考えてください」
「なぜ?」
「“外から来たやつに全部決められた”って言い訳を、最初から封じるためです」
会計局時代に何度も見てきた光景だ。
“改善案を丸投げされた側”は、たいていどこかで他人事になる。
「俺は、“ここがおかしいです”としか言いません。
“どう直すか”は、あなたたち自身で決めてください。
――その代わり、“決めたら守れ”って釘は刺しますけどね」
カイルは、しばし沈黙したあと、ふっと息を吐いた。
「……やはり、“監査官”だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
*
診断は、思った以上に“地味な作業”だった。
一枚目の勤務表を広げ、赤いペンで線を引いていく。
「まず、“連続夜勤三日以上”に赤。
“夜勤明けに日勤を入れている日”に赤。
“夜勤後の潜入任務”は――お気持ちは分かりますが、真っ赤です」
「お気持ちは分かりますが、って何ですか」
「“夜の顔を覚えてるから、そのまま潜り込んだほうが効率がいい”って発想でしょう?」
カイルが、ばつが悪そうに咳払いする。
「よくお分かりで」
「会計局にも、“夜通し帳簿見てるから、そのまま朝の会議資料も作ったほうが効率がいい”って言ってた人間がいました」
「その人は今?」
「うちの局に“出向希望”を出しました」
暗部の副長が、ほんの僅かに笑った。
リシアは、別の紙を覗き込みながら眉をひそめる。
「これは……“班長職”の勤務表ですか?」
「はい。班を束ねる者たちの」
「“人より多く働いて当然”のやつですね」
どこの部署にもいる、“自分が一番働いていることで納得している”タイプだ。
「“班長の夜勤回数が、部下の二倍”っていうのは、一見すると美談に見えますけど」
俺は、そこにも赤で線を引いた。
「“班長が倒れたら、全員が困る”ので、むしろ危険です」
「……そう言われると、何も言い返せませんね」
カイルは、勤務表をじっと見つめながら呟く。
「“部下に無理をさせるくらいなら、自分が無理をするべきだ”と思っていたつもりが、
“部下に全部薄く無理をさせるべきだった”と、今さら気づくわけですか」
「どっちもほどほどに、ですけどね」
「耳が痛い」
*
数枚目の勤務表を広げたとき、ひときわ派手な赤線の候補が目に飛び込んできた。
“任務:魔王領内潜伏(予定:七〜十日)”。
日付の欄には、“出立日”だけが丸で囲まれ、その先は空白になっている。
「これは?」
「潜入任務の予定表です」
カイルが答える。
「“七日から十日、状況により延長あり”。
その間の勤務は、“現場判断”です」
「現場判断……」
言葉の意味自体は分かる。
ただ、その言葉に――あまりいい記憶はくっついていない。
「“現場判断”って言葉、便利ですよね」
俺は、わざと皮肉っぽく言った。
「“上は何も決めてません”って言えるし、“全部現場が悪い”って言い訳もできますから」
カイルが、拳を軽く握るのが見えた。
それを見なかったふりをして、続ける。
「潜入任務だから、“一律に休憩時間を決める”のは無理でしょう。
でも、“何日まで戻らなかったら一度引き揚げるか、救援を出す”って線は、引けるんじゃないですか」
「……戻ってこなかったら“殉職”という扱いになっていました」
「その線、今すぐ消してください」
思わず声が強くなる。
「“死んだら殉職”は当たり前ですけど、“戻れなくなりかけてる段階で救いに行く”って発想がなきゃ、
現場は、“戻っていいかどうか”を判断する材料もない」
魔王軍の暗部の話が頭をよぎる。
ギルゼンも、同じ悩みを抱えているはずだ。
「“十日戻らなかったら、まず一度撤退”“十五日で強制的に回収計画を始動”とか。
そういう、“死ぬ前に引き上げさせる線”を決めるのも、勤務表の役目です」
「“死んだら終わり”じゃなく、“終わる前に止める”線、か」
カイルは、ゆっくりと頷いた。
「……正直、こういう話を“外の人間”にされる日が来るとは思っていませんでした」
「俺だって、“暗部の勤務表に線を引く日”が来るなんて思ってませんでしたよ」
お互い様だ。
*
診断を一通り終えた頃には、机の上の勤務表は赤だらけになっていた。
連続夜勤。
夜勤明けの潜入。
班長の過剰勤務。
潜入任務の“戻る線”なし。
どれも、“いかにも暗部”な無茶だが――“見慣れた無茶”でもある。
「最後に、一つだけ聞かせてください」
カイルが口を開いた。
「あなた方、労務局には、“こういう勤務表を見て笑っている者”はいないのですか?」
「“笑っている者”?」
「“さすが暗部”“これぐらいやって当然”と」
少し考えてから、首を振る。
「“笑う余裕があるやつ”は、こういう勤務表を最後まで見ないです」
「……なるほど」
「途中で“頭が痛くなった”って言って、別の仕事に逃げます。
最後まで見てしまったやつだけが、こうして地下まで来させられる」
カイルが、初めてはっきりと笑った。
「それは、“同業者の顔”ですね」
「あなたも、似たような顔してますよ」
お互いに、見たくないものを見てしまった人間の顔だ。
*
「では、本日の診断結果をまとめましょう」
赤線だらけの勤務表を束ね直しながら言う。
「結論から言うと、“このままだと確実に死人が増えます”。
――なので、“全部は無理でも、ここから死ぬ可能性を削ってください”」
赤で印をつけた箇所に、番号を振っていく。
「一、“連続夜勤は最大二日まで”。
二、“夜勤明けの潜入任務禁止”。
三、“班長の夜勤回数は、部下の一・五倍まで”。
四、“潜入任務に“戻る線”を決める”。」
カイルは、一つ一つを真剣な表情で読み上げた。
「“二日まで”“一・五倍まで”……ずいぶんと、現実的な数字ですね」
「“いきなり理想値”を持ってこられても、現場は反発するだけですから」
ヘンリー伍長の砦も、侍女棟も、そうだった。
「まず、“この線までは守れ”っていう現実的な数字から始める。
そこから少しずつ、“もう少しマシな線”に引き上げていけばいい」
カイルは、深く息を吐いた。
「……分かりました。
この四つ、“保全部内の“見える板”に書き出します」
「板、あります?」
「作ります。あなた方と同じように」
そう言って、カイルはゆっくり立ち上がった。
「“暗部にも勤務表はあるのか”と、よく酒場で噂されています」
「見た感じ、“あったけど誰も見たくなかった”ってところですかね」
「そうですね。
――これからは、“見たくないものを見続ける”板を、地下にも一枚増やしましょう」
その言葉には、覚悟と、ほんの少しの諦めが混じっていた。
「“暗部の当直表”に赤線を引く役目を、我々が放棄したら」
カイルは、俺のほうを見て、静かに言った。
「きっと、そちらの魔王軍の同業者にも顔向けできませんからね」
「……読まれてるなぁ、こっちも」
ギルゼンの通信文のことは、まだ話していない。
それでも、“向こうにも同じような人間がいる”ことは、どこかで伝わっているのだろう。
*
地上に戻る階段は、来るときより少しだけ短く感じた。
地上の光が見えた瞬間、リシアがぽつりと言う。
「レオン、さっき“全部は無理”って何回言いました?」
「三回くらいかな」
「“全部は無理”って言い続けてるわりに、けっこう深くまで手を突っ込んでません?」
「それは……そうかもしれない」
自覚はある。
“監査官にも当直表はある”と言われた翌週に、“暗部の勤務表診断”をしている時点で、だいぶどうかしている。
「でもまあ」
階段を上り切りながら、空を見上げた。
灰の谷とも、王城の塔とも違う、普通の王都の空。
「“世界一ブラックな職場”がどこか分かるなら。
そこから線を引き始めるって発想は、間違ってないと思う」
「“全部は無理”って言いながら、“一番ひどいところ”には手を出しに行く監査官……」
リシアが、呆れ混じりに笑う。
「やっぱり、世界はちょっとずつマシになるんでしょうね」
「根拠薄くない?」
「“暗部にも板を増やした世界”ですよ? 今さらです」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
*
労務局に戻ると、入口の“残業回数表”に、新しい紙が一枚貼り足されていた。
『※地下保全部との協議により、監査官の地下勤務は当面“日中のみ”とする』
……誰が書いたんだ。
「ヨアナです」
背後から、静かな声。
「“暗部勤務表に線を引いたからといって、自分のを真っ黒にしていい理由にはなりません”」
「はい、すみません」
素直に頭を下げる。
――世界中の勤務表に赤線を引きに行く前に。
やっぱり、まずは自分の欄を、ちゃんと見ておかないといけない。




