十四話 監査官にも当直表はある
王城の侍女棟に赤い線を引いてから、さらに五日。
気がつけば、俺の机の上の紙の塔は、王城の塔と良い勝負を始めていた。
「……局長。これ、本当に“必要最低限”の書類です?」
午前もまだ半ばだというのに、インク壺はもう半分近く減っている。
バルドは頭をかきながら、いつものように雑な基準で答えた。
「必要“以上”の書類は、そもそも机の上までたどり着かん。ここにあるのは全部“生き残ったやつ”だ」
「すごく嫌なふるい落とし方ですね」
「世の中だいたいそんなもんだ」
ぐうの音も出ない返事をしながら、俺はもう一通の報告書に目を通す。
王城侍女棟からの“夜勤回数表導入後の経過報告”。
前線砦ヘンリー伍長のところからの“当直表改善後の負傷者推移”。
捕虜収容所からの“六刻上限運用に伴う影響”。
どれも、手を抜けない。
(……ここまでは、まだいい)
問題は――“ここから先”だ。
灰の谷での条項は、“守られているかどうか”を見に行かなければ意味がない。
砦と王城と侍女棟に線を引いただけで、世界が急にマシになるはずもない。
――で、その“見に行くやつ”が、いまこの机に貼り付いている。
「レオンさん」
隣の机から、ミーナの声がした。
「三日連続で“明け方まで”局にいましたよね?」
「そんなことは……あるかもしれないし、ないかもしれない」
「窓側の街灯が消える時間を、私とヨアナさん、ちゃんとメモってるんですよ」
「なんで?」
「“監査官にも当直表が要る”って、局長が言ってました」
バルドの方向を振り向くと、本人は知らん顔で茶をすすっていた。
「……局長」
「何だ」
「“人の当直表に赤線を引く前に自分のを見ろ”って、いつ誰に言ってましたっけ」
「お前だな」
秒で返ってきた。
*
その日の午後、労務局で珍しいものが開催された。
――“局内労務状況点検会議”。
要するに、“労務局の中身を労務局が監査する”という、ぐるぐる回って目が回りそうな会議である。
「まず」
ヨアナが、珍しく少しだけきつめの声を出した。
「レオンさんの“ここ一週間の出退勤記録”です」
彼女の手元の板には、日付と“出局時刻・退局時刻”が並んでいる。
「平均出局時刻、夜明け前三刻。
平均退局時刻、夜半前。
――実質、一日十刻以上、局にいます」
バルドが、あからさまに顔をしかめた。
「……誰だ、こいつにそんな働き方をさせているのは」
「局長です」
ミーナとヨアナとリシアが、見事にハモった。
「裏切り者しかいないな、この局」
「どの口が言うんですか」
リシアが呆れた目で局長を見る。
彼女は本来、前線部隊付きの“実地担当”だが、最近は“労務局の護衛兼良識枠”みたいな役目も担っている。
「レオン。覚えているか?」
バルドが、指で机をコツコツと叩く。
「砦でヘンリーって伍長に、何と言った?」
「“倒れてから報告は受け付けません”と」
「侍女棟で、誰に何と言った?」
「“倒れる前に線を引いてください”と」
「じゃあ今ここで、誰が倒れそうだ?」
ミーナとヨアナの視線が、痛いくらいに突き刺さる。
「……俺、ですかね」
「そうだな」
バルドは、机の引き出しから一枚の紙を抜き出した。
「王立労務局監査官レオン・グラハム、特別是正勧告書」
「やめてくださいよ、その物騒な響き」
「内容は簡単だ。“三日間の強制休暇”。
その間、局への立ち入り禁止。書類への筆記禁止。質問への口頭回答禁止。仕事の夢を見るのも禁止」
「最後は無理です」
「努力義務だ」
見事な“お役所語”で逃げられた。
*
「……というわけで」
その日の夕刻。
俺は人生で初めて、“労務局から追い出される形の定時退局”を経験していた。
「いってらっしゃいませ」
ミーナが笑顔で手を振る。
「“局に戻ってきたら是正勧告無効”ですからね。ちゃんと三日は休んでください」
「書類一山くらい持ち帰っても――」
「持ち帰った瞬間に、ギルゼンさんに報告しますよ」
「なんで魔王軍の監査官が出てくるんだ」
「“まず自分たちから是正する”って約束したんですよね?」
ぐうの音も出ない。
ヨアナは、最後にそっと一枚の紙を差し出してきた。
「これだけは持って行ってください」
「……新しい是正案?」
「“休暇の過ごし方についての指針案”です」
そこには、“休みの日にやってはいけないこと”が箇条書きになっていた。
――局に顔を出す。
――仕事の書類を広げる。
――魔導通信で部下に仕事の相談をする。
――街で他所の職場の当直表をこっそり覗く。
「最後の一個、すでに違反しそうなんですが」
「分かってますから書いてるんです」
ミーナの一言に、反論の余地はなかった。
*
というわけで。
三日間の“強制休暇”初日、午前。
俺は――
「……なぜ僕は、街の公園のベンチに座っているんだ」
手ぶらで、である。
ペンも記録札もない。
何なら、ポケットに忍ばせていた小さなメモ用紙まで、出局前の身体検査で没収された。
「徹底してますねぇ、うちの局」
隣のベンチから、呆れ混じりの声がする。
リシアだ。
「護衛ですからね。一応」
「俺、休暇中なんだけど」
「“休暇中だからこそ、余計な仕事をしないように見張る”のが護衛の仕事って、局長が言ってました」
「なんだその発想」
「バルド局長の発想です」
分かりやすすぎて頭が痛い。
公園の向こうでは、子どもたちが木剣を振り回しながら“勇者ごっこ”をしていた。
「“魔王役”の子が、ちゃんと部下の休憩時間を守っているといいな」
「それ、もう職業病レベルですよ」
リシアが呆れながらも笑う。
「ほら、まずは普通に歩きましょう。王都の街、最近まともに見て回ってないでしょう?」
「……監査じゃなくて?」
「仕事禁止です」
きっぱりと言われ、観念してベンチから腰を上げる。
*
王都の通りは、いつものように騒がしかった。
露店から漂ってくる香辛料の匂い。
パン屋の店先の焼きたての香り。
雑貨屋の店員が客引きの声を張り上げる。
――どこを見ても、“労務局の管轄外”の働き方がそこら中にある。
(……いや、今は仕事じゃない)
頭の中に浮かびかけた“勤務時間”とか“休憩の取り方”みたいな単語を、必死で追い出す。
「そんな顔して歩いてますよ」
「どんな顔だ」
「“今あそこのパン屋の勤務シフトが気になって仕方がない”って顔です」
図星過ぎて、言い返せない。
「じゃあ、あの店には入らない。あっちの――」
言いかけて、目に入った看板に足が止まった。
“冒険者ギルド 王都支部”。
大きな扉の上に掲げられた紋章。
中からは、鎧のきしむ音と、怒鳴り声と、笑い声が混じったような喧噪が漏れてくる。
「……絶対、当直表なさそうだな、ここ」
「一番行っちゃいけないところを真顔で見つめるのやめてください」
リシアが額を押さえる。
「今日は“見てるだけ”ですからね? 扉開けた瞬間にヨアナさんに魔導通信飛ばしますよ」
「ヨアナ、怖いんだよな……」
「“自分の局の監査表を守れない監査官”とか、絶対許さない顔してましたしね」
想像しただけで肩がすくむ。
(……ギルドのことは、いずれ本当に考えないといけないけどな)
依頼の取り合い、賃金の未払い、命の危険に見合わない報酬。
冒険者の働き方は、軍と民間の悪いところを継ぎ接ぎしたようなものだ。
――だが、今日だけは扉の前を通り過ぎる。
「仕事の話は禁止だ。今決めた」
「最初から禁止です」
*
そんなふうに、半ば強制的に“普通の人の休日”の真似事を続けていると、少しずつ頭の中の“数字”が薄れていくのが分かった。
昼は適当な露店で串焼きを買い、川沿いのベンチで食べた。
午後は古本屋で、昔読んだことのある物語をぱらぱらとめくる。
「……これ、“勇者の仲間の一人が過労で倒れる”くだり、前は流し読みしてたな」
「職業病ですよ、それ」
「でも、“それをきっかけに仲間の役割分担を見直す”って展開、今読むとすごくまともに見える」
「はいはい、仕事の話終了。ほら、こっち。甘いものでも食べましょう」
リシアに袖を引かれ、喫茶店に押し込まれる。
ふわふわのケーキと温かい飲み物。
甘さで脳を溶かしながらぼんやりしていると、不意に、自分でも驚くくらい素直な言葉が口をついた。
「……こういう日が、現場にももっとあればいいんだよな」
砦の兵士たちにも。
王城の侍女たちにも。
魔王軍の前線拠点にも。
「“休みの一日”を、“罪悪感なしで過ごせる日”が」
リシアは、少しだけ目を丸くしてから笑った。
「レオンがそう思ってるなら、たぶん世界はちょっとずつマシになるんでしょうね」
「根拠薄くない?」
「“魔王軍にも人事がいた”世界ですし。今さらです」
そう言われてみると、少しだけ気が楽になった。
*
三日間の休暇は、拍子抜けするほどあっさりと過ぎた。
仕事の夢を見たかどうかは……まあ、“努力義務”ということで、細かいところは見なかったフリをしておく。
そして四日目の朝。
労務局の扉を開けると、いつもの紙の匂いと――少しだけ違う気配がした。
「お帰りなさい、レオンさん!」
ミーナが、やたら元気な声で出迎える。
「ちゃんと休めました?」
「まあ、なんとか。局に来ないほうが疲れた気もするが」
「それはそれで病気ですね」
ヨアナが、一枚の板を指し示す。
入口の壁に、新しい“見える板”がかかっていた。
『王立労務局 今月の残業回数表』
……嫌な予感しかしない。
「局長、三回。
ミーナ、二回。
ヨアナ、一回。
リシア、一回。
レオン……」
ミーナが、わざとらしく間を置いた。
「十回」
「おかしくない!? 桁がおかしくない!?」
「だから“是正勧告”が出たんですよ」
バルドが奥から出てきて、板を指で軽く叩く。
「今日から、この板は局の“顔”だ。
“誰がどれだけ残業しているか”を、庁舎に出入りする他所の役人たちにも見せつけてやれ」
「見せつけてどうするんですか」
「“労務局でもここまでやっている”となれば、“うちも少しはやるか”と思うやつも出てくる」
局長の言うことは、だいたい乱暴で、だいたい正しい。
「それと、もう一つ」
ヨアナが書類の束を差し出す。
「会計局からの人事異動願いです。“労務局への出向希望”が二名」
「……物好きがいるもんだな」
「一人は、“前からレオンさんのやり方を見てて、現場にも数字を持って行きたくなった”って書いてましたよ」
「それ、誰かだいたい分かるな……」
会計局時代、何度か一緒に徹夜した同僚の顔が浮かぶ。
「というわけで、“局内の人手不足”も是正中です」
ミーナが胸を張る。
「“自分たちの当直表”に手を入れずに、世界中の当直表に赤線引きに行くのは、さすがに筋が通らないですからね」
「お前ら、ほんとに強くなったな……」
少しだけ、目の奥が熱くなる。
*
その日の午後。
机の上の書類の山と久しぶりに再会しつつ、インクを走らせていると、通信魔道具の水晶が淡く明滅した。
「外務局経由の通信です」
ヨアナが水晶を持ってきて、俺の机の上にそっと置く。
魔力を通すと、見慣れた名前が浮かび上がった。
『――魔王軍統一兵站局労務監査課 ギルゼン・ヴァルナ』
「……向こうも、休んでなさそうだな」
思わず苦笑しながら、表示された文面を読む。
『灰の谷での会談から半月。
捕虜収容所における“六刻上限”および“見せしめ行為の禁止”について、各拠点への通達と初回巡回を実施した。
違反拠点については、責任者の更迭および是正を進めている。』
そこまでは、予想の範囲内だ。
問題は、その下に続く一文だった。
『――ところで。
我が軍の中には、“おそらく御国にも似たような部署があるであろう”組織が存在する。
闇夜に動き、表に出ない任務を担う者たちだ。
彼らの働き方は、我々から見ても“目を覆いたくなる”水準にある』
嫌な予感しかしない。
『先日、その“暗部”の勤務表の一部を見る機会があった。
夜勤は連続七日。
休息期間は“任務完了まで”という一文のみ。
――貴国にも、似たような勤務表を持つ部署はないだろうか?』
「……読まれてるなぁ」
思わず頭を抱えた。
「どうしました?」
リシアが覗き込む。
「“魔王軍の暗部がブラックだ”って話」
「でしょうね」
「“そっちの国にもありますよね?”って聞かれてる」
リシアが、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「……ありますね、たぶん」
王城の地下。
軍務省の奥の奥。
誰も当直表を見せたがらない連中が、きっと。
通信文の最後には、ギルゼンらしい一文が添えられていた。
『“自分たちの暗部から是正を始める”覚悟が固まり次第、改めて報告する。
そちらの“似たような部署”についても、いずれ話ができればと思う。
――お互いに、“一番ひどい場所”から目をそらさぬよう』
俺は、長く息を吐いた。
「どうするんです?」
ミーナが心配そうに聞いてくる。
「“暗部の当直表”なんて、考えるだけで頭痛くなりますけど」
「そもそも“ある”かどうかも分からないが――」
分からない、という言い方は、自分への言い訳にしかならない。
王城で侍女棟に線を引いたときも、砦でヘンリーの当直表を見たときも。
最初はみんな、“見たくないもの”だった。
「……まあ、順番だな」
俺は通信札をそっと伏せた。
「こっちはまず、王城の“見える板”を回し切る。
軍務省の講習を一通り終える。
そのうえで――“誰も見たがらない帳簿”を、少しずつめくる」
「“世界で一番ブラックな職場”探しですか」
「椅子取りゲームみたいなもんだな」
バルドが、いつの間にか背後に立っていた。
「だが、“そこが一番ひどい”と分かったなら、“そこから是正する”のが筋だ」
「魔王軍も、同じことを考えてるらしいですよ」
ギルゼンの文面を思い出しながら言うと、局長は面白そうに笑った。
「いいな。“世界一ブラックな職場の覇権争い”か」
「できれば、早めに降りたいんですが、その椅子」
「降りたいと思うなら、まず座っていることを認めろ。話はそれからだ」
言っていることは乱暴で、やっぱり正しい。
*
その夜。
労務局の窓から見える街灯の明かりは、いつもより少し早く消えた。
新しく作られた“残業回数表”には、俺の名前の横に“本日:0”の印。
それを見て、ミーナが小さくガッツポーズをする。
ヨアナは静かに頷き、リシアは「明日もゼロにしましょうね」と釘を刺す。
(――監査官にも当直表がある)
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
世界中の勤務表に赤線を引きに行く前に。
まずは、自分の名前が書かれた欄を見つめ続けること。
王立労務局監査官、レオン・グラハム。
次に開く帳簿は、きっと“誰も見たがらない場所”のものだ。
人間側か、魔王軍側か、それとも両方か。
――それでも、紙とペンと、何枚かの“見える板”があれば、きっと何とかなる。
そんなふうに思えるくらいには、世界はもう少しだけマシになり始めているのかもしれない。




