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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「君を愛するために生まれてきた」と彼は言った


 氷鬼公(ひょうきこう)――それがアレクシス・エイベルの異名だった。

 幼い頃より彼は父に疎まれ、母を知らなかった。母は彼を産んで死んだ。

 後妻である義母に憎まれ、何度も毒を盛られた。腹違いの弟は、自らの不出来をアレクシスのせいにし怠惰を極めた。それでいて自らこそが公爵に相応しいという不確かな自信を漲らせ、アレクシスの足を引っ張り続けた。


 父が病床に伏し、いよいよという時に義母は弟を後継にと迫った。父は頷いた。

 彼らはアレクシスのもとに、暗殺者を送り込んだ。馬車の中、野盗を装った男たちに剣を向けられ、彼は咄嗟に男たちを殺していた。

 彼の強さに、男たちは慄き悲鳴を上げた。


「鬼だ……!」


 冴え冴えとした夜の月のもと、彼はひとり自分の、人の血と脂に汚れた手と剣を見下ろした。

 終わりだ。

 そのとき、彼の中で何かが壊れてしまった。


 その後の彼の動きは速かった。

 再び義母がアレクシスに暗殺者を差し向けてきたとき、彼は義母の裏をかき、暗殺者に弟の馬車を襲わせた。弟は、義母の執念により、惨死した。愛息子の変わり果てた姿に、義母は発狂し、


「お前のせいだ」


 と、アレクシスをなじり、自らも首をかっ切って死んだ。

 父は濁った目で、


「全てお前の手筈通りだな。わしから全てを奪いおって」


 と憎々しげに嘲笑し、息を引き取った。

 そしてアレクシスは公爵となった。

 彼の手には何も残ってはいなかった。周囲からの恐怖の視線と、血に汚れた自らの手だけだった。



 ◇


 そんなアレクシスに、まともな縁談など来ようはずもなかった。

 氷鬼公の元へ嫁げば、娘の肉を喰われる。そう皆が噂していた。

 アレクシスはそれを感慨もなく聞き流した。彼自身、誰のことも信用できず、必要とさえしなかった。

 恐れられねば殺される。

 そう、心に染み付いていた。


 しかしある時、アレクシスのもとに縁談が舞い込んだ。国王直々の縁談だった。

 領民には慕われ有能であるアレクシスを野放しにすることを嫌ってのことであった。


「貴殿にぜひ、わが旧知の友を託したいと思う」


 縁談先のバーネット家は、今は没落しているが、王家と懇意の名家であった。そこの娘をひとり、アレクシスに是非にと。

 生贄という言葉が、彼の脳裏によぎった。

 自分に没落した家を建て直させ、力を削ぐために、一人の人間を蔑ろにするか。

 愚かしいことだと思った。


「ぜひに貴殿に嫁ぎたいと願っていてな」


 という国王の言葉を白々しく聞いた。

 私のような男に、好んで嫁ぐ娘などあるものか。



 ◇


 やがて花の咲く季節が来た。

 件のバーネットの娘が、顔合わせにとアレクシスの屋敷にやってきた。アレクシスは出迎えることもしなかった。

 しかし、部屋に入ってきた娘の顔を見て、アレクシスは微かな意外を覚えた。


 彼女はアレクシスを見て、はつらつと笑っていた。恐ろしい男のもとへ嫁ぐ女の顔ではなかった。


「お初にお目にかかります。シャーリー・バーネットと申します」


 彼女は自らの名を名乗り、美しく礼をとった。生家への援助の礼を、恭しく述べた。


「閣下にお会いできるのを、ずっと楽しみにしていました」


 そう言って笑った。春の陽光のような、あたたかな光を宿した目だった。

 アレクシスは、その光から目をそらし答えた。


「君を愛するつもりはない」


 シャーリーは笑みをきょとんとさせ、アレクシスを見つめた。


「われわれの婚姻は、王家との契約のようなものだ。君は好きに生活するといい。私から何かもらおうとはしないでくれ」


 アレクシスはそう強く言いおいた。

 シャーリーは、彼の言葉を不思議そうに聞いていた。

 けれどもすぐに、笑顔になった。


「アレクシス様から何かいただこうとは思いません。ただ、あなたを愛することだけを、許してくださいますか?」


 そう言ってふたたび、シャーリーはアレクシスを見つめた。アレクシスは、少なからず彼女に不可解なものを覚えた。ひたむきな視線が、じっとアレクシスを見ている。

 彼は目を伏せた。

 戯言だ。

 けれど、害がないならば。


「勝手にするといい」


 と、シャーリーの願いを許した。



 ◇



 それから、彼女はずっとアレクシスに愛をささやいてきた。


「アレクシス様、お帰りなさいませ」


 アレクシスの帰りを笑顔で迎え、彼女自身が公務に出かけると、帰りに必ず菓子などの手土産を買ってきた。


「人からの食べ物は受け付けない」


 と言えば花を、花を断ればお土産話と笑顔を、たくさん持って帰ってきた。


「アレクシス様、お疲れ様です」


 シャーリーは、いつもアレクシスを見て嬉しそうにする。アレクシスは、戸惑いを覚えた。そんなふうに、自分の存在を手放しで喜ばれたことはなかったからである。


 アレクシスは、知らずシャーリーの笑顔を心待ちにするようになった。

 会えたら安堵し、すれ違ったなら落胆する。

 視察の帰りに菓子や花を見ては、手を伸ばしたくなった。


 シャーリーは、私が贈り物をしたら喜ぶだろうか。

 花を手に、彼女の顔を思い浮かべる。

 喜ぶはずがない。アレクシスは即座に打ち消し、花を捨てた。

 人を殺した手で贈られた花に、何の価値もない。ただ疑わしいだけだ。



 ◇


「アレクシス様のお庭はいつ見ても立派にございますね」


 庭園の、ひときわ大きな木の花が咲いたので、見せてやるとシャーリーは嬉しそうに笑った。

 白い花の下で笑う彼女は、ひどく楽しげだ。


「ここは君の庭でもあるから、好きにするといい」


 アレクシスの言葉に、シャーリーはきょとんとして、それから頬を真っ赤にしてずっとはにかんでいた。

 その様子に、不思議に思いながら、アレクシスは「私は、もしかしたら」と思った。


 私は、もしかしたら。


 その言葉の続きは、アレクシス自身、わからなかった。



 ◇


 一年が経った。

 アレクシスは、シャーリーの作った菓子を、口に入れられるようになった。

 恐ろしさを超えた先にあったのは、ひどく優しい味だった。

 シャーリーは、アレクシスの好きな食べ物や生活というものを、アレクシス以上に知っていた。

 アレクシスは彼女から、自分が甘いものを好きであることを教えられた。

 また、シャーリーは、アレクシスの食の細いのを毒を盛られたせいだと理解し、いつも同じ食事をとってくれた。


「悪くない」と告げると、シャーリーはいつも嬉しそうに笑ってくれた。


 二年が経った。

 アレクシスはシャーリーに、気兼ねをしないように頼んだ。シャーリーは慎ましく、彼女自身のことにはまったく構わない女だった。まるで彼女にとって彼女自身などは、まったくいない人のような扱いだった。


「君は私の妻なのだから。もっと自分を大切にしてもらわないと困る」


 と言った。

 シャーリーは、ぽかんとして、それから静かに泣き出した。

 アレクシスは、たいそう慌てた。


「泣かせるつもりはなかった」


 と、肩に触れようとして、固まった。

 彼女に触れてはいけない。そんな権利は私にはない。

 言い知れない恐ろしさが、アレクシスに、踏み出すことを躊躇させた。

 胸に溢れ出した、この気持ち――救われたいという焦がれるような衝動を、シャーリーに伝えてしまうと、何かが壊れてしまう。

 そんな気がした。


 シャーリーは、アレクシスの気持ちをわかっているのか、


「アレクシス様を愛しています」


 と幸福そうに笑った。


 シャーリーを、心から幸福にしてやりたい。

 けれども、自分にそんなことはできようはずもない。

 アレクシスの中で、二つの思いが揺れだしていた。


 ◇


 三年が経った。

 今日こそはシャーリーに言おう。

 視察を終え、アレクシスは花束を手に、シャーリーの待つ屋敷へ帰った。


 屋敷に入ると、辺りは騒然としていた。

 アレクシスは、なにか胸騒ぎがしていた。皆、自分の帰宅に気づき振り返る。その顔を見て、アレクシスは、彼らの言葉を本能的に、聞きたくないと思った。体が冷たい。


「奥さまが……!」


 執事が、涙ながらに叫んだ言葉を待たず、アレクシスはシャーリーの元へ走っていた。


 ベッドの上で、シャーリーは眠るように息を引き取っていた。侍医が悲しげに首を振る。


「食事の準備の最中に倒れられて、そのまま……」


 アレクシスは彼女のもとにひざまずく。シャーリーはほほ笑んでいた。


 ――きっと目覚めるはずだ。


 アレクシスはシャーリーを見つめ、彼女の目覚めを待った。

 シャーリーはきっと、自分を見て笑ってくれる。


 まだ、君に伝えていないことが、たくさんあるんだ。君はきっと待っていてくれる。


 しかし、一日経っても、二日経っても、シャーリーは目覚めなかった。


「旦那さま、もう……」


 執事の沈痛な言葉に、アレクシスは頑なに首を振った。


「そんなはずはない。シャーリーは私を置いていかない」


 ずっと笑顔で、私の帰りを待っていてくれるんだ。


 確信をもって、心が囁いたとき。

 アレクシスは叫び出していた。

 シャーリーの手を握り、子供のように彼女に縋った。

 あたりを引き裂くような慟哭だった。

 あの夜からついぞ失った涙が、行くあてもなく流れていく。


「シャーリー、シャーリー……!目を覚ましてくれ……!お願いだ、」


 私をおいていかないで。


 しかし、アレクシスがどれほど叫んでも願っても、シャーリーが目を覚ますことはなかった。



 シャーリーは、生家で虐げられ、身の置き場がなかったようだ。彼女の身体には、痛々しい火傷の跡が残っていた。


「きっと私は、アレクシス様を愛するために生まれてきたんです」


 と、執事に笑って話していたそうだ。

 そんなことさえ、知らなかった。


「奥さまはきっと、幸福だったと思いますよ」


 執事は言った。

 アレクシスは答えなかった。

 シャーリーにはもっと相応しいものがあったはずだと、彼にはわかっていた。



 ◇


 シャーリーの墓は、あの大きな木の下に作った。

 花は美しく咲き誇っていた。

 かつて私もここでひとり、よく泣いた。君にも、話せないままだったけれど。

 アレクシスは跪いて、墓石に頬を寄せた。


 きっと、きっと、来世があるなら。

 もう一度君と巡り会えるなら。

 君とやり直せるなら――。


 アレクシスは静かに目を閉じた。



 ◇


 氷鬼公と囁かれるエイベル家へと嫁ぐこととなった。

 シャーリー・バーネットは、馬車の中で、緊張から大きく息をついた。


 私のようなものが、気に入られるとは思えない。

 彼にとっては屈辱の婚姻になるだろう。


 それでも、あの方は家と私を救ってくださった。

 自分にとっては、遠目にずっと憧れ、惹かれていた方との婚姻だ。

 凍てた瞳の奥に、優しさがずっとためらうように揺れているお方。


 この心に、愛する方が一人でもいるなら、愛されなくともきっと一生幸せだわ。


 立派な屋敷の門前で、誰かが待っていた。

 それは何とアレクシス自身であり、車夫はおののいた。

 シャーリーもまた、動揺する。

 もしかして、私のことがよほどお気に召さなかったのかしら。すぐ家に帰らされるのかしら?


 しかし彼女の懸念は、彼の目を見て氷解する。


 焦がれるような眩い目で、アレクシスはシャーリーを見つめていた。

 アレクシスが、シャーリーに手を伸ばす。

 シャーリーはその手を、恐れながらもとった。あたたかで確かな温もりが、シャーリーを優しくとらえる。

 アレクシスは、泣きたくなるような切実な眼差しで、シャーリーに「ずっと待っていた」と告げた。


「きっと私は――」


 花の香りが、ふきぬけていった。


 《完》

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