頑張れ、お父さん
カチャ……コト……チャカ……。
久しぶりに平日に家族4人で食卓を囲んで夕飯を食べることが出来た4月の木曜日、松尾家の食卓。けれど、いろいろと子供たちと話をしたいのだけれど、何を話せばいいかわからず、黙々と食べる娘の千香子と息子の洋介、それと妻の由紀子をただ見ているだけ。今は箸と食器のあたる音だけが、居間に響いている。
普段、自分がいない食卓ではもっと『今日の学校ではこんなだったー』など、もっと話が盛り上がっているそうなのだけど、今日は自分がいるためか、誰も最初の話を始めようとしない。
「えっと……千香子、最近学校はどうだ?」
「別に。いつもと変わりないよ」
「そ、そっか。部活動のほうはどうだ? 有望な新人は入ってきたか?」
「別に、全員初心者だから、有望か有望じゃないかもわからない」
「そ、そっか」
ああ、話が続かない……この年頃の娘というのは何を話せばいいんだ……。
千香子が高学年になってから、めっきり話せなくなってしまった。低学年のころはもっといろいろ千香子の方から話をしてきてくれたというのに。
「よ、洋介。学校は楽しいか」
もう少し千香子と話をして痛かったのだけれど、これ以上全く思いつかなくなってしまって
千香子ではなく、息子の洋介に話を振ってみた。
「うん、まあまあ。とも君となべ君と今日もサッカーしてきたんだ」
「そ、そうか!」
話を振られてうれしかったのか、身振り手振りを加えながら洋介は今日の話をし始めた。
「それでねそれでね、とも君ってばね、ボールを蹴ろうとして思い切り蹴ったら、ボール空振りしちゃってね。すってーんって転んだんだー! 思いっきりしりもちついちゃって」
「そうかそうか」
久しぶりに子供の話を聞けて、とても嬉しい。
「洋介、食事中に箸を振り回さない! 行儀が悪いでしょ! お父さんも、ちゃんと洋介に注意してよ!」
「……はあい……」
「すみません……」
あああ、由紀子。せっかく話が盛り上がってきたところだったのに……また、居間では静かな食事風景に戻ってしまった。
「ねえ、お父さん。来週の土曜日なんだけど、仕事は休み取れそう?」
妻の由紀子から突然、予定を聞かれた。
「えっ……えっとな、ど、土曜日か? 土曜日は大体出勤しないとまずい日だからな……頑張ってみるけど……来週土曜日には何があるんだ?」
「来週土曜日、小学校で運動会があるの。先週も話したでしょ?」
「え、えっと」
……やばい、先週そんな話をしたような気もするけれど、はっきりと記憶に残っていない。
「はあ……」
自分が覚えていないことがわかると、呆れたというか諦めたというか、そのようなため息声が妻から聞こえた。
「それでね、千香子にも洋介にも、父兄参加の種目があるの。千香子は綱引き、洋介は二人三脚」
「そ、そうなのか……う、ううん。行けるよう頑張ってみるけど、土曜日は忙しいからなあ……」
「それはわかってるから。だから別に私が出てもいいんだけど……」
「ええ!? やだよー! だって、なべ君ちもとも君ちも、やす君ちも愛子ちゃんの家もみんなみんなお父さんが出るんだよー!? ぼくもお父さんと出たいよー!」
「こら洋介! わがまま言わないの!」
「ええ、でもだってだって! だってさあ」
「だってじゃないの! わがまま言っちゃダメ! お父さんにはお父さんの仕事があるんだから!」
「……はあい……はぁ……」
洋介にとても残念そうに、ため息を疲れながら言われてしまった。本当はたまには家族サービスをしたいとは思っているのだが、土曜日は他の人も休みたがり、なかなか自分が休みを取れる状況になく、さらに今かかっている仕事が、佳境に入っていてそもそも休みを取れそうにない。
「……すまん。この埋め合わせは絶対するから」
「しょうがないわよ、別に毎年あることなんだし、私が参加するから。ね、洋介」
「……でも、二人三脚じゃなくて、お母さんとは玉いれ一緒に出るんだから……」
「わがまま言わない!」
「……はあい……」
しぶしぶ、ほんとうにしぶしぶと洋介は返事をした。そんな洋介を見ていると、とても申し訳ない思いでいっぱいになる。
「千香子も、ね?」
「うん」
……千香子の方は無表情だったので内心どう思っているかわからなかったけれど、洋介のほうは未だに残念そうな顔をしていた。
はあ……こんな顔させていたら父親失格だよな。もっと、家にいて、子供たちと話をする時間がほしい……。
その後は、気まずい空気が流れたまま黙々と、誰もしゃべらない食事が続いた。
「……ってな状態なんだよ。どうにかならないか」
「独身の俺にそんなこと聞くとは、いい度胸じゃねえか。一発殴らせてくれたら一緒に考えてやる」
今は同じ会社にいる同期の友人をつれて、会社の近くの安い居酒屋で一緒に飲んでいる。焼酎をちびちびとやりながら、子供たちとうまく会話が出来てない自分の現状を愚痴っていた。
「というか、あの入社したてはマナーを全く知らなくって上司に怒鳴られまくっていたお前が、今や2児の父親だもんなあ。時が流れるのは早いもんだ」
「そうだなあ……35にしてそんな頭になっちまって……ひろいなあ、デコッパチ」
デコの広さが10年前に比べ、2倍以上になってしまった友人の頭をなでて、しみじみとつぶやく。
「その言葉、俺への挑戦と受け取った。お前の頭から1000本ほど引っこ抜いて、俺の頭に移植してやる」
「やめい、失った時間を嘆くな。失った髪を嘆くな。このデコッパチ」
「……お前、やっぱり一発殴らせろ」
ちょっとからかいすぎたのか、友人が本気で握りこぶしを作り始めた。
「ま、冗談はさておき……せっかく、年に1回の行事だっていうのに、行くことが全然出来ないってのはやっぱりかわいそうだからなあ……なんか出来る事はねえかなあ」
「別に、日曜日は休み取れそうなんだろ? 土曜日の行事の変わりに日曜日に思いっきり家族サービスしてやれよ。それだけでも、子供たちも奥さんもきっと喜ぶって」
「そんなもんか? なんとなくそんなふうには思わないけどなあ」
やっぱり、1年に1回の行事ってのはまた違うものなんじゃないかと思ってしまう。週に1回の日曜日の家族サービスは毎日できるけど、運動会は年に1回だもんなあ。
とりあえずその話はおいといて、しばらく会社や上司の愚痴やら昔の思い出話を話しつつ、途中からは友人の今付き合っている彼女とそろそろ結婚出来そうかを相談して、友人と別れた。
「ねえ、お父さん、本当に土曜日は無理そうなの?」
運動会が明後日となった木曜日の帰宅後、突然妻の由紀子から相談を受けた。
もう夜中の22時を過ぎていて、もう子供たちは寝てしまっている。そんな中、寝室で妻から子供たちの運動会について再度聞かれた。
千香子が生まれてからは、お父さん、お母さんと呼び合うようになって、名前で呼び合うことはすっかり久しくなってしまっている自分たち。
「あ、ああ。なんとか仕事を調整しようと思ってたんだけどな……やっぱり土曜日に休みを取ることは難しくてな……」
「午後からでも来れない? 洋平の二人三脚も、千香子の綱引きも、全部午後の種目なのよ。午後からでも来れれば千香子も洋平も絶対喜ぶと思うな。千香子、あんまり表情には出さないけど、お父さんがいないときはいつもお父さんの話ばかりしてるのよ?」
「そうなのか!?」
「そうそう。だから、千香子は絶対にお父さんには運動会に来て欲しいと思ってるんだけどね」
千賀子がそんな風に思ってくれているのだったら、どうにかして、運動会に参加できないかと考える自分。でも、土曜日はお得意先との大事な会議まで入っている。
「ああ……ううん……自分が二人になれればいいのに……」
「そんなバカなこと言ってないで。お父さんが私たちのためにすっごい頑張ってるって知ってるけど……子供たちをがっかりさせないよう、もっと頑張ってね?」
「あ、ああ……」
あいまいにしか返事が出来ない自分がとてももどかしい。
自分がなかなか返事をしないでいるのを見て、由紀子は先に布団に入って寝てしまった。
どうにか土曜日、時間を作れないものか……。
そして迎えた土曜日。自分は、家族たちの視線を感じながら職場へ行き、朝の打ち合わせをしている。時刻は9時半。そろそろ最初の種目が始まるころだ。
「……ぱい、先輩! 聞いてますか!?」
「あ、ああ。すまん……」
運動会のこと考えてボーっとしていたせいで、後輩にに叱られてしまった。叱られた後でも、まだ昨日見ていたプログラムのことばかり考えている。
最初の種目は、洋介の玉入れだよな……今から向かえば、昼食には間に合う。
「全く、そんなんで今日の会議、大丈夫なんですか? いつもの松尾さんらしくないですよ。もしかして飲みすぎなんじゃないですかー? もっとしゃきっとしてください。あ、そだ。ウコンの力飲みますか? キャベジンのほうがいいです?」
「何でそんなもん常備してんだお前は……」
そう言えば今日、お弁当にウインナーで簡単ロールキャベツ、作っていたなあと思い出す。子供たちと食べたいなあ。
「なあに言ってんですか。これが無かったら居酒屋にバーに夜の街、合コンにお見合いパーティを渡り歩けないじゃないですか! 私の相棒ですよ!」
後輩の声を右から左へ聞き流しながら、また時計を見て、今何の競技をやっているか考えた。そろそろ千香子の徒競走が始まるな……くそ、去年も運動会にはいけなかった。去年も見ていたのはこの部下の顔。
「……なんですか? 突然まじまじと私の顔なんて見て。私は軽い女じゃないですよ」
「……いや、見飽きたなあと思って。お前のとぼけた顔も」
「うっわ、ひっどお! パワハラだーパワハラだー」
後輩のぎゃんぎゃんと叫ぶ大きな声もほとんど聞いちゃいなかった。自分の心は完全に子供たちの運動会へ向いている。
「あ、もうそろそろ先方さんが来るころですね。ほら、席についてください」
「……そう言えば、お前も今日の会議内容、全部わかってるよな」
「え、ええまあ。先輩が暗記しろって言ったんじゃないですかあ」
……ふむ。
「自分はたった今、とても頭が痛くなった。だから、今から早退する」
「へ、は、はあ!? な、何をいきなり言ってるんですか!? とっても大事な会議があるんですよ? だ、ダメですよ!」
「大丈夫、お前がいたら、会議は何とかなる。お前な、子供の運動会と、会社の一部署の会議。どっちが大事だと思う? 責任者はデコッパチを出しておけ。それでどうにかなるさ」
「どうにもならないですよ! 突然何を言うんですか!? 職務放棄ですよ!」
「後輩、こんな格言があるんだ。『それでも地球は回っていく』。それじゃ」
そういい残して、自分は鞄を持って、走り出した。昼食に間に合うように。せめて午後の部に間に合うように。
「先輩のおおばかあ!」
後ろで後輩の大声が聞こえてきたけれど、一度も振り返ることなく、子供たちのいる小学校へ走った。
「はぁ……はぁ……ま、間に合ったか?」
時刻は13時。そろそろ午後の部が始まってしまう時間。バスが渋滞にはまってしまって、思った以上に時間がかかってしまった。
やきもきしても一向に進まないバス。降りて走ってしまったほうが速いんじゃないかとつい思ってしまった。
「そんなことはどうでもいい。今何の種目だ!?」
小学校の校庭をのぞくと、すでに二人三脚が始まっている。子供たちがお父さんたちと、不恰好に走りながらゴールを目指している、
その後ろ、順番に並んでいる所に1人、お母さんと足を結んで、うつむいている子供がいた。自分の息子、洋介だ。
「やばいやばい、間に合わない」
慌ててまた走り出す。応援席の人や、子供たちが邪魔でなかなかスタート地点へいけない。どんどんと洋介の順番が近づいてくる。
このままじゃ間に合わない……こうなったら。
「す、すみません! 通してください!」
自分は応援席を掻き分け、グラウンドのど真ん中を突っ切った。ジャージを着たりハーフパンツを着て、子供たちがお父さんと二人三脚をしている中、、スーツ姿で1人、ど真ん中を走る。
「お父さん!」
ふと、応援席から声が聞こえた、振り向いてみると、千香子がいた。普段はあまり表情を見せない千香子が笑っている。
「お父さんだ! やっぱり来てくれた! おおい! お父さん!」
千香子の声で顔を上げた洋介が気づいてくれた。満面の笑顔で笑って手を振っている。自分は大きな声で返事した。
「お待たせ!」
最近肩身を狭い思いをしているお父さんが多いみたいですが、今日も今日とてお父さんは頑張ってます。頑張れ、世の中のお父さん。