1.計画スタート
アレナの生まれたサンクシュア侯爵家は、諜報活動を生業としている。
表向きには、しがたない領地経営で細々と暮らしていることになっており、社交界にもほとんど顔を出さないため、その存在感はとてつもなく薄い。仕事柄、目立つわけにはいかないのだ。
サンクシュア家の本職を知っている者は王家と国の重鎮である4大公爵家の当主だけだ。
サンクシュア家に産まれた男子は、幼い頃より諜報員として育てられる。
命を狙われることも多いため、暗殺スキルと毒耐性の会得を基本とし、その他人心掌握術や行動心理学など精神的に影響を与える術も学ぶ。
女子の場合は、一般家庭に馴染めるよう花嫁修行を行うのが大抵なのだが、アレナの場合は違った。
兄のダンヒュールと一つしか歳が離れておらず、他の家と交流がなく遊び相手がいないため、兄の後ろをついて回っていた。
その結果、本来必要ではない諜報スキルを身につけてしまっていた。
「お嬢様、本当にあの男でいいんですか?」
ノックどころか足音も立てずにアレナの部屋にやってきたのは、侍女兼諜報員のレネだ。
目立たない黒髪をシニヨンにし、紺色のお仕着せの上にエプロンをしている。
彼女は、アレナが7つの時に彼女の専属となった。
父親から、「自分の身に何かあれば彼女を使って上手く事を収めなさい」と言われて預けられたのだ。
今の所、彼女の手腕を発揮するような出来事は起きていないが、友人のいないアレナにとって欠かせない存在となっている。
そのレネが婚約者となったジュリアスの態度を見て、心配していたのだ。
「もちろんよ。興味のない関係から始まる溺愛なんて最高じゃない!大好物だわ。」
アレナが興奮気味に答えた。
もう慣れた彼女は、レネがいきなり現れても驚くことはない。それどころか、気配を感知するのが日々上手くなっていた。
「確か、お相手を選ぶ時もそう言ってましたよね。アレ本気だったんですか…」
「ああいう、女に興味ありません!ツン!ってしてる相手ほど、どっぷり溺愛して甘やかしてくるってのは王道なのよ。」
マル秘ノートを閉じたアレナが今度は、机の引き出しから便箋と封筒を取り出した。
「お手紙を書く相手なんていましたか?」
「それは昨日までの私ね。」
「それってまさか…」
「ええ、ジュリアス様よ。」
堂々たるアレナの言葉に、レネはあちゃ〜と言いながら額を手で押さえている。
「公爵家に招待されないと一つ目の計画が実行できないじゃない。婚約期間は半年しかないのよ?今から動かないと間に合わないわ!レネも協力してくれるわよね?ね?」
「……………………イエスマン」
そうと決まれば…と書いた手紙を満遍の笑みでレネに託した。
(さすがに今日の今日で、攻めすぎなのでは…?)
気を利かせたレネは、一日したためてから手紙を出すことにした。
***
あの後帰路についたジュリアスは公爵家に戻るとすぐ、執務室に向かった。
サンクシュア家に行ったせいで午前の仕事が終わらず、苛立ったまま執務室のドアを開ける。
「おう、おかえり。早かったな。」
出迎えたのはジュリアスの側近であるミケル・アンドロウ伯爵令息だ。歳は同じで付き合いが長い。
側近というより、幼馴染という関係の方が近いかもしれない。
「で、相手はどんなだった??可愛い系?美人系?お前が婚約を決めたんだから、相当なレベルってことだよな!」
「・・・・・」
「いや、少しくらいなんか言えよ。お前の浮かれた話を楽しみに待っていたんだぞ。」
「……髪は明るい茶色で瞳はグリーンだったな。」
「おい、俺は人探しの手がかりなんて聞いてねぇぞ。」
ミケルに思い切りため息をつかれたが、ジュリアスが気に留める様子はない。顔色ひとつ変えず執務机に向かう。
「別に」
ポツリと呟いたジュリアスがアイスブルーの瞳を細めて窓の外を見る。
「公爵家を継ぐ上で結婚が義務だっただけだ。うちに利益がある且つ煩わしくない相手なら誰でもいい。」
「お前は身も蓋もないことを言うなよ…」
「事実だ。」
「そんなこと言って、うっかり相手にどハマりして恋に恋して溺れても助けてやらないからな。」
「そんなことあるわけないだろう。」
「そういうのをフラグって言うんだからな!その言葉忘れるなよっ!恋に溺れて溺死しろ!」
「はぁ…」
今日は一段と騒がしいミケルに、眉間に皺を寄せたジュリアスが思い切りため息をついた。
(そもそも、相手も俺と同じでこの結婚に全く関心がないと思うんだが。)
今日会った婚約者の姿を脳裏に思い浮かべた後すぐにそれを消し、ジュリアスは手付かずの仕事をすべく書類の山に手を伸ばしたのだった。