『六月の滴(しずく)』
▪️登場人物▪️
☆雨宮 楓
詩を書くことを、誰にも知られたくなかった少年。
高校時代、雨の日にだけ傘を持たない彼は、
坂の上にいた少女・夏未と、静かに心を交わす
☆星野 夏未
静かに人を見つめる、まっすぐなまなざしの少女。
詩を読むことが好きで、
やがて“彼の詩”を読むようになっていく。
※※※※※ 夏未のココロ※※※※※
◆第一句◆ しとしとと、音もなく
六月の初め、傘の群れが駅を行き交う。
高校二年の夏未は、いつものように校門前で立ち尽くしていた。
屋根のない坂道の下、ひとり濡れてやってくる男子生徒の姿を待っている。
—
濡れし髪 誰にも告げず 待つ理由
—
その少年、楓は、毎朝かならず傘を持たずに来る。
びしょ濡れのまま、どこか気だるげで、それでも目が合うと小さく笑う。
それだけ。それ以上でも以下でもない。
でも、夏未には、それがすべてだった。
◆第二句◆ 止まない雨のように
楓は図書室によくいた。
彼は詩集ばかりを読んでいた。会話は少ない。言葉も選ばない。
でも、彼の書く詩は優しくて、どこか悲しくて。
—
紫陽花の 影に隠れる ひとの声
—
ある日、夏未は彼のノートに挟まれた一篇の詩を見つけた。
「傘を差す君の手が、僕の空を裂いていく
でも、雨は止まないほうがいい
濡れたままなら、近づけるから」
胸が、ずきん、と鳴った。
◆第三句◆ 六月の秘密
ある放課後、雨脚が強まった。
夏未がいつものように坂の下で楓を待っていると、彼が急に言った。
「……君は、なぜ毎朝そこに立ってるの?」
夏未は驚いて、うまく答えられなかった。
「じゃあ、教えてよ。明日、傘を忘れてもいい理由。」
そう言って、彼は去っていった。
夏未は胸の中で、答えを探しはじめた。
—
恋知らぬ ままで濡れたる 袖ひとつ
—
◆第四句◆ しずくの告白
翌朝、夏未は自分の傘を置いて、坂の上に立っていた。
彼が坂の下から、また濡れたままやってくる。
「……今日も、傘ないんだ。」
「うん。でも、君がここにいるから。」
そう言って、楓は歩み寄り、彼女の髪に触れた。
二人の間に、雨のしずくが静かに揺れた。
—
降りしきる 雨音ふたり 知らぬ恋
◆第五句◆ まだ傘を差せない
あれから何度も、ふたりは同じ坂で顔を合わせた。
でも、それは"恋人"ではなく、"知ってしまった者同士"の空気。
楓は言葉を選びすぎて、
夏未は言葉を待ちすぎた。
—
雨上がり 語らぬままの 手のぬくもり
—
放課後、図書室。
夏未が借りた詩集に、紙片が一枚、挟まれていた。
「このまま濡れていてもいいと
言える勇気が まだ僕にはない」
楓の字だった。
夏未はページを閉じて、窓の外に目をやった。
空はまだ灰色。だけど、その向こうに、ひかりの層が見えた。
◆第六句◆ 空蝉の声
梅雨の終わり、蝉が鳴き始める。
夏未の隣の席には、最近転校してきた少女が座った。
明るくて、まっすぐで、
楓に話しかける声がやけに耳につく。
—
かげろうに ほどける声の ゆびさきに
—
「……楓くんのこと、好きなんだよね?」
放課後、屋上。
夏未の前で、新しい少女がふわりと笑った。
「でも、言わないのって、ずるいよ。」
夏未は笑えなかった。
けれど、胸の奥で、何かがはじけた気がした。
◆第七句◆ 答えの向こう
その夜、雷をともなう雨。
夏未は楓にメッセージを送った。
「ねぇ、明日、晴れると思う?」
すぐに返事が来た。
「……晴れてほしいと思ってる。」
その言葉に、夏未は長く息を吐いた。
翌朝、傘を差さずに、坂の上に立つことを決めた。
—
晴れ間待つ 肩にとどいた 風ひとつ
—
◆第八句◆ 傘のないふたり
朝。雲の隙間から、陽が差し始めた。
坂の下、今度は楓が傘を持って立っていた。
夏未が近づくと、楓は言った。
「今日は……渡したくて、持ってきた。」
傘の柄を差し出す彼の手に、夏未は自分の手を添えた。
「じゃあ、わたしはもう、傘はいらない。」
ふたり、ひとつの傘の下。
滴る雨の粒が、ゆっくりと光に変わっていった。
—
梅雨明けの 音なき風に 恋ひとつ
—
◆第九句◆ 蝉しぐれの中で
あれから、二人は一緒に通学するようになった。
ひとつの傘、ふたつの歩幅。
だけど、梅雨が明けると、街はまぶしすぎた。
—
朝焼けに 手の温度まで 紛れてく
—
楓は詩を書かなくなった。
夏未も、彼のノートをのぞかなくなった。
話すことが増えて、黙っていた時間が少なくなったから。
でもその分、どこか…
「触れてはいけないもの」が増えたような気がしていた。
◆第十句◆ 八月の透明
ある日、夏未は知ってしまった。
楓の家が、夏休み明けには転校することを。
「言うタイミング、ずっと探してたけど……言えなかった。」
彼は、どこかで"雨"がまた降るのを待っていたのかもしれない。
—
知る前と 知ったあとの目 違う空
—
「……じゃあ、何か残してって。」
夏未がそう言うと、楓は久しぶりに詩を書いた。
「夕立に 言えなかった声 たたんでる
君に渡せば 少しは晴れるか」
—
涙は降らなかった。
でも、心の奥で、ずっと音がしていた。
◆第十一句◆ 空蝉の約束
八月の終わり、校舎の裏。
誰もいない静かな時間。
「また会おう、なんて言わないよ。
でも…また君の詩が読みたいと思ったら、探していい?」
楓は笑った。
「そしたら、次は雨じゃなくても傘持ってく。」
—
蝉しぐれ 声は聞こえず 残る影
—
彼は去っていった。
夏未はまた坂道に立ち、
空を見上げた。雲ひとつなかった。
◆第十二句◆ 九月のはじまりに
季節が巡って、新しい日常。
夏未の机の中に、一冊の詩集が差し込まれていた。
表紙には、小さな文字でこう書かれていた。
「六月の滴──楓より」
そのページの最初には、こうあった。
—
晴れの日に 濡れてくれた君 ありがとう
—
※※※※※ 楓のココロ※※※※※
◆第十三句◆ 濡れる理由
傘を持たないのは、ただの習慣だった。
別にポリシーでも、演出でもない。
でも――
あの坂の上に、毎朝、ひとりの少女が立っていることに気づいてから、
“わざと”になった。
—
見上げれば 雨の向こうに 立つ少女
—
いつからか彼女は、
俺が来るまで、その場を動かなくなった。
声はかけない。目も合わない日もある。
それでも…見ていると分かった。
雨が嫌いじゃなくなったのは、その頃からだ。
◆第十四句◆ 沈黙の詩
誰にも言えないことが、ノートの中にだけあった。
言葉にすると、壊れそうだった。
それを最初に覗いたのが――彼女だった。
怒ると思った。でも、彼女は閉じて、返してくれた。
まるで「これ、大事なんでしょ?」って。
—
言わずとも 読まれていたか 六月の
—
それが怖くて、嬉しかった。
だから、距離を測っていた。
彼女が前に出すぎると、
俺は一歩、引いてしまう癖があった。
◆第十四句◆ 坂の上の決意
「君は、なぜ、そこにいるの?」
あの日、勇気を出して訊いたのに、
彼女はうまく答えられなかった。
だけど次の日、傘を持たずに、
雨に濡れながら、俺を待っていた。
—
ことばより 濡れた肩こそ まっすぐで
—
その日、心が音を立てて動いた。
このまま、守りたくなると思った。
でも――
守りたいものができると、
離れなきゃいけないこともある。
◆第十五句◆ 詩をたたんで
転校が決まってから、
彼女を見るたび、罪悪感が募った。
笑うたびに
「さよならが近づいてる」と思った。
—
告げぬまま 目をそらしたのは 優しさか
—
結局、最後の日も、きちんとは言えなかった。
だから、詩にして残した。
「夕立に 言えなかった声 たたんでる」
—
そして彼女が言った。
「傘はいらない」
その瞬間、彼女の強さに、
俺は初めて救われた。
◆第十六句◆ 詩集のタイトル
転校して、空気が変わった。
でも、雨の匂いだけは変わらなかった。
詩集の表紙に名前を記したのは、
彼女がまた探してくれた時、
ちゃんと届くようにするためだった。
—
晴れた空 だけど少しの 雨残し
—
俺は今でも、雨の日にだけ詩を書く。
そして心のどこかで思ってる。
「君は今、
誰の傘に入ってる?」
あれから、もう10年ーーーー
◆第十七句◆ 雨の匂いがした日
梅雨の午後。東京。
会社帰り、駅の階段を下りると、ふいに降り始めた雨。
傘を持っていなかった楓は、昔と同じように、濡れたまま歩いた。
その日、同じビルに勤める女性、理子が傘を差し出してきた。
「これ、入りません? 濡れるの、嫌じゃないですか?」
彼は笑った。
「嫌じゃないです。でも…入りたいです。」
—
雨宿り 濡れた背中に ひとの影
—
理子は不器用に笑い、
それが“新しい何か”の始まりだった。
◆第十八句◆ 紫陽花のカフェで
それから何度も、二人は会うようになった。
理子は楓の過去を深く聞こうとはしなかったが、
時々「詩、書いてたでしょ」と言った。
「なんでわかるの?」
「話すより、黙ってる時の目が忙しいから。」
—
言えぬ恋 けれど今では 言えそうで
—
やがて、楓はもう一度、詩を書き始めた。
あの雨の、向こう側を探すように。
◆第十九句◆ 偶然は、雨のかたちで
六月。取引先のイベントで訪れた地方都市。
商業施設の一角で、小さな書店のPOPが目に入る。
『六月の滴』──限定再版フェア開催中。著者来店サイン会:夏未
その文字に、心臓が止まりそうになった。
まさか、彼女が――。
—
名を呼べば 届く気がして 声が出ず
—
楓はサイン会に並ばなかった。
でも、棚から一冊だけ本を手に取った。
ページの奥に、小さく書かれたサイン。
「あの時、傘のない人へ。今は、ちゃんと晴れてますか?」
彼は、笑った。そして、
涙がひと粒、ページに落ちた。
◆第二十句◆ 再会と、晴れ
東京に戻った数週間後。
あの書店から、一通の封書が届いた。
差出人:編集部
宛先:楓宛
「あなたへ手紙を預かっています。
"もし、この本を手に取った人が楓さんなら、ぜひ読んでほしい"と。」
中には、彼女からの手紙。
「あなたが“また”詩を書いているなら、私もまた、ページをめくる勇気が出せます。
どこかで見つけたら、
また、傘に入れてください。」
楓は空を見上げた。
その日は梅雨入りの知らせが届いた日だった。
—
ふたりして 今度は先に 傘をさす
—
◆第二十一句◆ 六月の先に
理子と過ごした日々は、優しい風のようだった。
でも、それはきっと、彼を「戻す」ための時間。
楓はすべてを理子に話し、
彼女は言った。
「なんか悔しいけど……
でも、戻るなら、もう濡れないようにね。」
—
失う日 そして気づいた 持てる手を
—
次の週末、楓は編集部を訪れた。
カフェの奥、そこに彼女がいた。
「……また、濡れてる。」
夏未はそう言って、傘を差し出した。
「今度はさ、
こっちから“入れて”あげる。」
—
六月の 雲の切れ間に 咲く再会
終わり。そして、また始まり。
※※※※※ 夏未のココロ※※※※※
◆エピローグ◆ 雨が降ると筆が進む
作家・夏未、27歳。
都会の片隅、小さな書斎で、彼女は今日も詩を書いていた。
ペンを握るたび、言葉の奥に滲むのは“あの時”の記憶。
「降り続く 名を呼ばぬまま 過ぎた夏」
10年前の、あの雨。
名前を呼べなかった背中。
差し出せなかった傘。
忘れたと思っていた。
でも、雨が降ると――戻ってくる。
◆第二十二句◆ あなたがくれた、ひとしずく
彼のことを、誰にも話したことはない。
でも、詩には出てくる。
彼の髪、彼の目、彼の濡れた肩。
「六月の滴」という詩集のすべては、
彼という存在の残像だった。
—
記さずに 残したページ 読まれる日
—
編集者に言われた。
「これ、恋の詩ですよね。実話ですか?」
夏未は笑った。
「たぶん、“嘘にしないように書いてる”だけです。」
◆第二十三句◆ 再版と、わずかな希望
ある日、再版の話が舞い込んだ。
10年目の記念。
小さなサイン会も企画された。
「この詩集、誰か特定の人に向けて書いたんですか?」
「……はい。
でも、もう会えない人です。」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
でも――
「もしこの本を、あの人が手に取ったなら」
「届いてほしいと思ってる。」
だから、編集部に手紙を託した。
奇跡なんて信じないけど、
言葉には届く力があると信じていたから。
—
いまだから もう一度だけ 届いてと
—
◆第二十四句◆ 雨が上がる音を、誰かと
イベント後、雨が上がった。
書店を出た夏未の胸ポケットには、
彼の名前で予約された1冊分の引き換え票。
“来なかった”かもしれない。
“来られなかった”かもしれない。
それでも、彼女は空を見上げてつぶやいた。
「……もう、濡れてないといいな。」
その帰り道。
編集部からの着信。
「例の手紙、受け取ってくれましたよ。
“ありがとう”とだけ、伝言です。」
夏未は、笑った。
久しぶりに、声をあげて笑った。
—
探してた わたしがやっと 見つかった
—
◆第二十五句◆坂の上で、また会えたなら
それから数週間後。
とある日曜の午後、雨の予報。
駅前の坂の上で、夏未は傘を持って立っていた。
そして、坂の下に――
見覚えのある、濡れた髪の青年が、笑って立っていた。
「…君は、やっぱり雨の日にいるんだね。」
「うん。だって、
その方が“再会の確率”が上がるでしょ?」
—
六月の 雲の切れ間に 恋が咲く
—
──「ふたりの今、そして雨の向こうに」──**
◆第二十六句◆ 傘がいらなくなった朝
「……起きた?」
「起きてる。君のトーストの匂いで。」
目を開けると、白いカーテン越しに薄曇りの空。
楓と夏未は、再会から数か月後、
小さなアパートの一室で暮らし始めていた。
—
肩並べ 朝のパンくず 分け合って
—
キッチンには珈琲の香り。
テーブルには、詩の断片とマグカップ。
「あの頃より、楓くんの詩、まるくなった。」
「君が、角を削ったんだよ。」
そんな何気ない会話が、ふたりの朝を照らしていた。
◆第二十七句◆ 六月はふたりを試す
雨が続く日。
外には出られず、部屋にこもって言葉が渋滞する。
夏未がソファに広げた原稿を見て、楓がつぶやいた。
「この言葉、強すぎない?
……あの頃の君の詩は、もっと柔らかかった。」
沈黙。
「じゃあ、楓くんはいつまでも“昔の私”がいいの?」
「……そうじゃないけど。」
—
雨音に まぎれるために 強くなる
—
沈黙の中で、マグカップが揺れる音だけが響いた。
◆第二十八句◆ 心が濡れる音
夜になっても、会話は戻らなかった。
狭い部屋の中で、ふたりは背中を向け合う。
夏未は、ノートを破る音すらそっとした。
「……わたし、あの時、ちゃんと伝えなかったの。
“また好きになる”って、ちゃんと言わなかった。」
楓は、静かに立ち上がって、
濡れたベランダに出た。
—
言い訳も 傘もないまま 降る想い
—
「俺、君の新しい言葉に嫉妬してた。
……自分の“影”が消える気がして。」
ふたりは顔を見合わせた。
そして、ゆっくりと、濡れたまま抱き合った。
◆第二十八句◆ 雨上がりの部屋で
次の朝、陽が差し込む部屋で、
テーブルの上には一枚のメモ。
「きみの詩に、やっと“現在形”が出てきたね。」
珈琲を淹れながら、楓は笑った。
夏未は返す。
「じゃあ、君の詩には、
“ふたり”って言葉、ちゃんと書ける?」
—
同じ傘 たたみながらも 寄り添って
—
ふたりは、雨の日の使い方を少しずつ覚えていく。
ケンカしても、拗ねても、
ちゃんと戻れる場所が、そこにはあった。
◆第二十九句◆詩の最後の行
その日の夜、ふたりは並んでノートをひらく。
楓がつぶやく。
「ねぇ、詩の最後の行、今ならこう書ける。」
「雨音が止んだ瞬間、君の笑い声が傘をたたんだ。」
夏未が答える。
「……いいね、それ。
明日も雨が降れば、続きを書けるね。」
—
恋という 滴はいまも 音を立て
—
終わり
『六月の滴 』
この物語を、最後まで読んでくださったあなたへ。
ありがとうございます。
まず、その一言を真っ先に伝えたいです。
この作品は、最初から“完璧な恋”を描こうとは思いませんでした。
むしろ、うまく言えないこと、伝えきれない気持ち、濡れたままの心を大切に描こうと決めていました。
楓と夏未。
雨の日にすれ違い、
何年もかけてようやく「ただいま」と言えるようになったふたり。
恋というものは、
ときに季節のように巡るものなのかもしれません。
降って、止んで、また降って。
それでも、そのたびに誰かと向き合って、
言葉にしていく勇気を少しずつ育てていく。
この物語に登場した“詩”や“雨音”は、
誰かの胸の奥でまだ言葉にならないまま眠っている想いに、
そっと寄り添えたら嬉しいな、と思っています。
もしこの物語が、
大切な人を思い出すきっかけになったり、
ふたりで同じ傘に入りたいと思う午後を運んできたりしたなら――
それこそが、わたしにとっての“晴れ間”です。
最後に。
この物語のすべてのしずくたちを、
受け止めてくれたあなたに。
ありがとうございました。
お気に入り・リアクション・感想など
よろしくお願いします。