【第189話】リヒトの居場所
リヒトが晴貴を訪ねてきたのは、朝の執務室だった。
ティナが茶を出し、席を外そうとした。リヒトが止めた。
「残ってくれ。お前にも聞いてもらいたい」
ティナが驚いた顔をしたが、椅子に座り直した。リヒトがティナに何かを頼むのは初めてだった。
◆
「二つ、話がある」
リヒトの声はいつも通り低く、平坦だった。だが、目が違った。灰色の目の奥に、久しぶりに見る揺れがあった。
「一つ目。防衛顧問の件を受ける」
晴貴が頷いた。戦後、ユリウスが提案していた役職だ。連邦の軍事・防衛に関する最高顧問。ギルバートの防衛隊とカラスの護衛隊の双方に助言し、防衛計画全体を統括する。
「条件がある。俺は命令しない。助言だけだ。命令権はギルバートとカラスに残す」
「なぜだ。お前が指揮した方が効率的だろう」
「効率的だが、正しくない。俺は監察局で命令する側にいた。命令で人を動かすことの怖さを、十八年かけて学んだ。もう命令したくない。助言はする。判断は現場に任せる」
晴貴は黙った。この男の言葉には、十八年の重みがある。命令で部下を動かし、命令で人を追い込み、命令で壊してきた男が、「もう命令したくない」と言っている。
「わかった。防衛顧問。助言のみ。命令権なし。ユリウスに正式な書類を作らせる」
「頼む」
ティナが帳面に書き込んだ。「リヒト・ヴァイス。連邦防衛顧問。助言職。命令権なし」。
「リヒトさん。一つ確認していいですか」
「何だ」
「防衛顧問として、具体的に何をされるんですか」
「三つだ。一、防衛隊と護衛隊の訓練計画の策定。二、市壁と溝の防衛施設の維持管理。三、王国軍の動向分析と早期警戒体制の構築」
「三つとも、戦争中にやっていたことですね」
「ああ。戦時にやったことを、平時の制度にする。それが顧問の仕事だ」
晴貴が付け加えた。
「リヒト。お前がいなければ、あの防衛計画は成り立たなかった。溝の位置、遊撃の配置、補給線の分析。全部お前の頭から出た。それを連邦の財産として残してほしい」
「財産、か。監察局では、俺の知識は武器だった。ここでは財産と呼ばれるのか」
「呼び方が変われば、使い方も変わる。お前自身がそう言った」
リヒトの口元が動いた。笑みではないが、それに近い何か。
◆
「二つ目」
リヒトの声が、わずかに低くなった。
「休暇をもらいたい。十日間」
「休暇?」
リヒトが休暇を求めるのは、初めてだった。監察局にいた頃は、休暇という概念すらなかっただろう。
「姉の墓に行きたい」
晴貴の手が止まった。
廃石橋で初めて会った時に、リヒトの懐にあった手紙。姉からの手紙。監察局に入る前、最後に受け取った手紙。
「姉は、俺が監察局に入った年に死んだ。病だった。俺が監察局に連れていかれたのは十歳の時で、姉は十四だった。最後に会ったのは、連れていかれる朝だ」
リヒトの声は平坦だった。だが、手が膝の上で握られていた。
「手紙が一通だけ残っている。姉が死ぬ前に書いたものだ。"元気でいてね。いつか会えるといいね"。それだけの手紙だ」
「……どこに埋葬されている」
「王国の西部。小さな村だ。エルダンから馬で五日。和平条約で不可侵圏が設定されたから、今なら安全に行ける」
「一人で行くのか」
「ガルトが同行すると言っている。止めても来ると」
晴貴は笑った。
「ガルトらしいな。許可する。十日間の休暇」
「ありがとう。領主殿」
リヒトが立ち上がりかけた。ティナが声をかけた。
「リヒトさん」
リヒトが振り返った。
「お姉さんに、何を伝えるんですか」
リヒトは少し間を置いた。
「……元気だと。それだけだ」
「それだけで十分ですね」
「ああ。姉もそれだけ書いた。俺もそれだけ伝える。それで十分だ」
◆
翌朝、リヒトとガルトが北門から出発した。
馬二頭。荷物は最小限。剣は帯びているが、重武装ではない。和平の時代の旅支度だ。
見送りに来たのは、トマス、フィン、カラス。そして晴貴とティナ。
トマスが敬礼した。
「隊長。気をつけて」
「トマス。お前は"元隊長"と呼べと言ったはずだ」
「一生隊長です。慣れてください」
フィンが小さな包みを渡した。
「干し肉です。道中の食料に」
「……気が利くな」
「トマスさんに言われて用意しました」
「やはりトマスか」
カラスが壁際に立っていた。いつもの位置。
「リヒト殿。りんごを持っていけ」
「りんご?」
「マルタ殿が"旅のお供に"と預けてきた。六つある。三日分だ」
リヒトが袋を受け取った。りんごの匂いがした。
「……あの女主人は、俺がりんごを好きだと知っているのか」
「街中が知っている」
リヒトが鼻で笑った。だが、りんごは受け取った。
ガルトが馬に跨った。
「隊長。行きましょう」
「ああ」
リヒトが馬に乗った。北門を出る。街道に出る。
振り返った。
エルダンの市壁が、朝日を受けて光っていた。銀色の合金壁。青い草。四つの旗。
あの壁の内側に、自分の居場所がある。支援所のスープ。市場のりんご。市壁の上の風。カラスと並んで走る訓練場。トマスとフィンの敬礼。
十八年間、居場所がなかった。命令に従い、影の中で生き、誰にも名前を呼ばれなかった。監察局の宿舎は寝る場所であって、居場所ではなかった。任務先の街は通り過ぎる場所であって、帰る場所ではなかった。
姉の手紙を懐に入れて、十八年間歩き続けた。「いつか会えるといいね」。会えなかった。だが、姉が願った「元気でいてね」は、ようやく果たせる。
今は元気だ。居場所がある。帰る場所がある。名前を呼んでくれる人がいる。
「帰ってくる」
声に出した。誰にでもなく。大地に向かって。
ガルトが隣で聞いていた。何も言わなかった。だが、頷いた。
◆
二人が去った後、晴貴は北門に立っていた。
街道が北に伸びている。リヒトとガルトの姿が、小さくなっていく。
「行きましたね」
ティナが隣に来た。
「ああ。十日後に戻ってくる」
「戻ってきますよ。りんご六つ持ってますから。三日分しかない。残りの二日分は、帰ってきてからマルタさんに買いに行くしかない」
「計算が合わないが」
「合わなくていいんです。帰ってくる理由があればいい」
晴貴は笑った。
りんごが帰る理由になる。馬鹿らしい。だが、この街では馬鹿らしいものが一番強い。
◆
十日後。
リヒトとガルトが北門から戻ってきた。
馬は疲れていたが、二人の顔は穏やかだった。リヒトの灰色の目に、以前はなかったものがあった。空洞ではない。怒りでもない。静けさだった。波が去った後の水面のような静けさ。
晴貴が北門で迎えた。
「おかえり」
「ただいま。領主殿」
「姉上には、会えたか」
「会えた。墓は小さかったが、手入れされていた。村の人が、ずっと世話をしてくれていた」
「何を伝えた」
「元気だと。それだけだ。それと——」
リヒトの声が、微かに震えた。この男が震えるのは珍しい。
「——居場所が見つかったと。姉に報告した」
晴貴は何も言わなかった。言葉は要らなかった。
リヒトが懐から手紙を出した。あの手紙。姉の手紙。十八年間持ち歩いた紙。
「墓の前で、もう一度読んだ。"元気でいてね。いつか会えるといいね"。十八年分の返事を、ようやく書けた気がする」
「返事?」
「墓の前で言った。"元気だ。会いに来た。居場所が見つかった。スープが美味い街だ"と」
「スープ」
「ああ。姉が聞いたら笑うだろうな。弟がスープの街に住んでいると」
晴貴が笑った。リヒトも——笑った。声に出して。この男が声に出して笑うのを聞いたのは、二度目だった。だが、前よりも長く、前よりも柔らかい笑いだった。
ガルトが馬から降りた。
「隊長。マルタ殿のところに行きませんか。りんごが切れました」
「ああ。行くか」
二人が市場に向かって歩いていった。
北門の上で、カラスが腕を組んで見ていた。口元が動いた。笑みとは呼べない。だが、それに限りなく近い何か。
「おかえり。リヒト」
声は届かなかっただろう。だが、カラスは言った。壁の上から。光の中で。




