【第1話】目覚めの洞窟と、癒しの石(挿絵あり)
初めまして。一条信輝と申します。
本作『この手に、癒しと富を。』は、地味な癒しスキルを手にした三十代の男が、異世界で自分の居場所を見つけ、静かに成長していく物語です。
派手さはありませんが、積み重ねと人との関わりを大切に描いていきたいと思っています。
よろしければ、最後までお付き合いください。
これは主人公の挿絵です。
葵 晴貴、三十二歳。図書館の資料室で静かに働いていた契約職員だ。
決してやりがいがあるとは言えなかったが、居心地の良い空間だった。
人との接触が少なく、黙々と作業をこなす日々。データベースの更新、書架の整理、破れかけた本の補修。誰にも褒められないが、誰にも怒られない。それが何よりありがたかった。
「今日も、静かで何よりだな……」
ぼそりと呟きながら資料を戻す。誰もいない地下の書庫。薄暗い照明と、紙とインクの混ざったような匂い。外の世界がすべて遮断されたような感覚に、晴貴はむしろ安心感すら覚えていた。
人付き合いが苦手だった。
学生時代は発表の場が苦痛で、声の小ささをからかわれ、何度も顔が熱くなった。
社会に出てもそれは変わらず、接客のある職場には向いていなかった。
ようやく見つけたこの仕事で、誰にも迷惑をかけず、静かに過ごせることに感謝すらしていた。
そんな彼に、ある日、異変が起こる。
その日はいつも通りだった。朝に出勤し、書庫の鍵を開け、利用記録を確認し、午後の予定を整理する。
昼を過ぎた頃、重い資料を棚に戻そうとした時だった。
「……あれ……?」
視界がぐらついた。
頭の奥でノイズのような耳鳴りが鳴り、目の前が白くかすむ。足元が不意に沈んだような錯覚。
「やば……」
言葉を最後まで紡ぐ前に、彼の意識は真っ白に塗りつぶされた。
次に目を覚ました時、彼は石の上に倒れていた。
背中に伝わるざらついた感触。しっとりとした湿気と、冷たい空気。
耳には水の滴る音が微かに響いていた。
「……う……ん……?」
ゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬ空間だった。
天井の岩肌には、青白く光る苔のようなものが張りついており、淡い光で周囲を照らしている。あたりは岩壁に囲まれていて、空も窓もなく、人工的な設備は一切見当たらない。
(ここ……どこだ?)
思考が追いつかない。なぜ自分がこんな場所にいるのか、まったく理解できなかった。
身体を起こすと、鈍い痛みが腰に走った。服はいつもの制服ではなく、粗い布のシャツとズボン。足元には革のブーツが履かされていた。
「冗談……だろ……?」
夢か幻覚か――それとも、現実なのか。判断できないまま、晴貴は呆然と座り込んでいた。
生ぬるく湿った空気が肺に絡みつく。鼻の奥に張りつくような苔の匂いに吐き気を催す。だが、それすらも“現実”の証に思えた。
――ここは、どこなんだ?
わけもわからぬまま、晴貴は壁に手をついて立ち上がった。微かに灯る青白い光を頼りに、彼は洞窟の奥へと、一歩を踏み出した。
足音ひとつしないこの空間に、自分の呼吸だけが響く。
孤独――そう言葉にするにはあまりにも静かすぎて、晴貴は自分が“この世から消えてしまった”ような錯覚にすら陥った。
誰にも気づかれずに、誰にも頼られずに生きてきた自分が、突然すべての人の記憶から消えて、どこかの深い穴に落とされたような――そんな底知れぬ不安が、じわりと胸を締めつける。
それでも、彼は立ち上がる。
「……進まないと……」
震える足で、一歩を踏み出す。
薄暗い洞窟の中、ただ一人。何が待ち受けているかもわからぬまま、彼は光の先へと歩き始めた。
洞窟の中は、どこまでも静かだった。
足元にはごつごつとした岩が転がっており、一歩踏み出すたびに靴の底から微かな音が響く。それでも、晴貴は進むしかなかった。
何かに導かれるように、彼は青白い苔が多く密集している方向へと歩を進めていた。
進むうちに、ふと床の上に不自然に光るものが見えた。
それは、手のひらほどの大きさを持った鉱石だった。淡い青い光を放ち、表面は滑らかで透明感がある。まるで水晶に似ていたが、どこか生命のような脈動を感じさせた。
「……なんだ、これ……」
警戒しながらも、晴貴は膝をつき、そっとその鉱石に触れた。
次の瞬間、彼の頭に直接語りかけるような声が響く。
《スキルを取得しました:鉱石治癒錬成》
《鉱石に触れ、癒しの力を加工・錬成することが可能になります》
「は……?」
驚いて鉱石から手を離す。だが、その青い石は微かに震えており、まるで意思を持っているかのように、彼の手の中に再び転がってきた。
(スキル……? 錬成? まさか……ゲームの中の話じゃないのか?)
理解が追いつかないまま、彼は恐る恐るもう一度その石に手を伸ばす。
すると、意識の奥に“操作感覚”のようなものが現れた。考えるだけで、情報が浮かび上がってくる。
素材:青霊石
状態:安定
使用可:癒しの欠片へ変換可能
(……本当に、できるのか?)
指先にわずかな力を込める。意識を集中させると、石が一瞬だけ強く光り、パリンと小さく割れた。
その断片が空中で回転しながら形を変え、指先ほどの大きさの結晶へと姿を変えた。
「……できた……?」
掌の上に乗るそれは、淡い水色に輝く、小さな“癒しのかけら”だった。
目を凝らすと、微かに温かい。触れているだけで、不思議と心が落ち着くような感覚がある。
それは間違いなく“力”だった。
この世界が現実なのかどうかもわからない。
だが、少なくとも今、自分の手の中には“何かを癒せる力”が宿っている。
そのとき、洞窟の奥から風のような気配が流れた。
冷たい空気が背筋を撫で、ぞくりとした悪寒が走る。
「……誰か、いるのか?」
声に返事はなかった。だが、何かが近づいてくる。
直感が警鐘を鳴らす。晴貴は咄嗟にポケットへ結晶をしまい、来た道とは逆の方向へと駆け出した。
出口を探す。生きて帰るために。
出口を探す――それは、ただ洞窟を抜けるという意味だけではなかった。
この異様な状況から抜け出したい。元の世界に戻れる道を見つけたい。
それ以前に、自分が今、生きているのかどうかさえ確信が持てない。
「とにかく……光を探そう」
洞窟の空気はひどくよどんでいた。動けば動くほど、汗と湿気で呼吸がしづらくなる。
足元は不安定で、天井からは時折水滴が落ちてきては首筋を冷やした。
それでも、晴貴は走り続けた。
この世界のことも、自分の置かれた状況も、何ひとつわからない。
だが、彼の手の中には“癒し”の力がある――それだけが、現実感を保つための唯一の支えだった。
そして彼は、薄明かりの向こうに、わずかな風の流れを感じ取った。
走る。とにかく走るしかなかった。
得体の知れない気配が背後から迫ってくるような感覚に突き動かされるようにして、晴貴は岩肌の通路を必死に駆け抜けていた。
暗く湿った空気の中、天井からは水滴が落ち、足元は不安定で滑りやすい。それでも、彼は走った。
やがて、微かな風が頬を撫でた。
(風……?)
それは、密閉された洞窟の中ではあり得ないはずの感触だった。湿って重かった空気に、乾いた風の香りが混ざる。
「……出口……!」
視界の先に、ぼんやりと光が見えた。その光に向かって、晴貴は渾身の力を込めて駆けた。
最後の一歩を踏み出すと、目の前に鮮烈な光景が広がった。
空はどこまでも澄み渡り、太陽は高く、やや西に傾きかけている。
草原が風に揺れ、丘が連なる大地が遠くまで続いていた。
山脈の稜線は白く染まり、その手前には麦畑や木造の小屋が点在している。
「……ここ、本当に……異世界なんだな……」
呟きは風に消えた。
足元には小さな白い花が咲いていた。見知らぬ植物。だが、確かに美しかった。
そのとき、ぱかっ、ぱかっという乾いた音が聞こえてきた。
馬の蹄の音。道の向こうから、木製の馬車がゆっくりと近づいてくる。
荷を積んだ荷車。御者台には鎧姿の中年の男が座っている。
晴貴は反射的に叫んだ。
「助けてくれーっ!」
手を振ると、馬車はきぃっと音を立てて止まった。
「おい、いきなり飛び出してくるなよ!」
御者の男が声を荒げる。
「す、すみません……道に迷って……助けてください……!」
肩で息をしながら頭を下げると、男はしばらく無言で晴貴を見て、やがて口を開いた。
「まあ、怪しい魔物ってわけでもなさそうだ。乗りな、街に向かってるところだ」
「……ありがとうございます!」
感謝の言葉とともに、晴貴は荷台に乗り込んだ。
乾いた木の感触、馬車の揺れ。どれもが確かな“現実”だった。
道の先に、石造りの壁に囲まれた街が見えてきた。
それは、この異世界で最初に出会う“文明”だった。
「エルフリーデって街さ。交易でにぎわってる。教会に行けば、旅人も受け入れてくれるだろ」
御者がそう言い、手綱を軽く引く。
晴貴はポケットに手を入れ、“癒しの欠片”を確かめた。
あの力が本物なら、自分にも……この世界で、やれることがあるかもしれない。
街の輪郭が徐々に近づく。馬車が揺れるたび、晴貴は自分の心が少しずつ現実に追いついていくのを感じていた。
(俺は、本当に異世界に来てしまったんだ……)
ここに来るまでの数時間すら信じられないのに、今この瞬間、見知らぬ人の善意によって生かされているという事実が、じわじわと胸を熱くさせた。
御者の男は特に多くを語らなかったが、手綱の扱いは慣れていて、時折後ろを気遣うように振り返る優しさがあった。
晴貴はそんな背中を見つめながら、もう一度空を仰いだ。
どこまでも広く、雲ひとつない青空が頭上に広がっている。
この世界は、恐ろしいだけではない。きっと、美しくて、温かい場所でもある。
そう思えたとき、彼の心の奥に、ようやく“希望”という感情が灯り始めていた。
そしてその希望は、やがて訪れる出会いによって、大きく育つことになる。
街の門をくぐると、石畳の広場が広がっていた。
人々の声、行き交う馬車、風に揺れる旗。目に映るすべてが生きていて、異世界に来たことを晴貴に改めて実感させた。
「この先に教会がある。とりあえず、そこで事情を話してみろ。悪い奴らじゃねえよ」
御者の男はそう言って手綱を引いた。
「お世話になりました」と何度も頭を下げた晴貴に、男は面倒くさそうに手を振って去っていった。
教会の門は開かれていた。
白い石造りの外壁に、高い鐘楼。入口の前には、修道服を着た若い少女が花壇に水をやっていた。
「すみません……!」
声をかけると、少女が顔を上げた。
年の頃は十六、七だろうか。栗色の髪を一つに束ね、大きな瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「はい。どうかされましたか?」
「あの……旅の途中で……倒れて……道に迷って……」
要領を得ない説明だったが、少女は困った顔ひとつせず、頷いた。
「どうぞ、こちらへ。お怪我はありませんか?」
「いえ、体は……でも、少し疲れてて……」
「では、休憩室をご案内しますね。リセと申します」
優しく微笑んだその顔に、晴貴の緊張はふっと緩んだ。
通された部屋は清潔で静かだった。
木製のベッドに腰を下ろし、深呼吸をする。自分が今、どれだけ張り詰めていたのかがわかるほど、全身から力が抜けていく。
ふと、ポケットの中の“癒しの欠片”を思い出した。
そっと取り出し、掌の上に乗せる。
「本当に……使えるのかな、これ……」
そのとき、廊下の向こうから小さな泣き声が聞こえてきた。
窓の外を見ると、裏庭でひとりの少年が膝を抱えて座っていた。
足元には、転んで擦りむいた痕が見える。
気づけば、晴貴は立ち上がっていた。欠片を手に、裏庭へと向かう。
「どうしたんだ?」
「……ころんだ……いたい……」
少年の足に目をやり、晴貴は覚悟を決める。
欠片をそっと患部に当て、心の中で願う。
(癒えてくれ――)
淡い光が少年の足を包み、じんわりと熱が伝わっていく。
数秒後、少年が目を丸くした。
「いたく、ない……なおった……!」
その声に、リセが駆け寄ってきた。
「えっ、それは……癒しの魔法? いえ、でも詠唱もなく……まさか、聖なる石の錬成……?」
晴貴は、まだ温もりの残る欠片を見つめながら、ようやく理解する。
この力は、本物だった。
そして今、誰かの“痛み”を取り除いた――確かに。
たとえそれが、小さな一歩だとしても。
少年はぴょんと立ち上がり、足を何度も曲げ伸ばしては驚いた顔で自分の膝を見つめていた。
その姿を見て、晴貴の胸に小さな達成感が芽生える。
「本当に……治ったんだ」
まだ信じられない。だが、目の前の結果がすべてだった。
少年が笑顔を見せ、ありがとうと頭を下げる。その姿に、胸がじんわりと熱くなる。
「あなた、本当にすごい方だったのですね」
リセの声に振り返ると、彼女は目を見開いたまま晴貴を見ていた。
そして、そっと手を伸ばし、晴貴の手のひらに残る“癒しの欠片”に触れる。
「この力……とても温かい……。まるで、神様の祝福みたいです」
その言葉に、晴貴は戸惑いながらも、少しだけ笑みを浮かべた。
「俺にも、できることがあるんだな……」
自分は社会の中で何の役にも立たない存在だと思っていた。
だが、今この世界で、目の前の誰かを癒せたという事実だけが、確かに胸の奥で光を灯していた。
そして、晴貴は気づいていた。
この“癒しの力”が、自分を生かす力になるのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第1話では、図書館職員だった主人公・晴貴が、異世界で“癒しの石”と出会うところまで描きました。
次回からは、街での生活が本格的に始まり、彼の“癒し”が少しずつ周囲に波紋を広げていきます。
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